紅い風




一週間という長期の仕事を終え、クラウドが久し振りにセブンスヘブンへと舞い戻ったのは、まだ閉店には早い10時前だった。

「よおクラウドさん!お帰り」
「随分見なかった気がするが、何日ぶりだ?」
「あんまり留守にするとティファちゃんが寂しがって可哀想だぜ」
「そうそう。クラウドさんがいないときといるときじゃ、俺らへのサービスが月とすっぽんだもんなぁ?」

いくらか埃っぽい服のまま相変わらずの装備で店の扉を開けたクラウドは、まだ活気が溢れているその場所で、酔いの回った常連客から口々に声を掛けられた。
「わ、酷い!そんな質の悪いサービスをした憶えはないわよ?」
ティファは客の茶化すような言葉にむくれて見せながらも、その染まった頬を隠し切れずにぱたぱたと手で顔を扇ぎ、クラウドに口の動きだけで「おかえり」と伝える。
「クラウド、おかえり!いっぱい埃被っちゃったみたいだね?シャワー浴びてきたらご飯だよ」
手の離せないティファに代わってマリンがエプロン姿で迎えに出る。
「今日はクラウドの好きなものばっかりなんだから。朝からね、ティファってばもの凄く上機嫌でいろいろメニューを考えてたんだよ」
クラウドはそんなマリンに疲れた表情ながらも、そうか、と優しく頭を撫で、カウンターの中のティファに軽く手を上げて階段を上って行った。

「さあて。俺らも今日は帰るとすっか」
「だよなぁ。2人の幸せな時間を邪魔する奴ぁ、馬に蹴られて死んじめえ、ってな」
「んじゃティファちゃん。俺らはここいらで退散するからよ。久々にクラウドさんにサービスしてやんな。疲れた顔してたし」

ばらばらと覚束ない足で席を立ち、各自の飲み代をテーブルに置いて立ち去ろうとする客たちに、ティファは慌てたように声を掛けた。
「え、ちょっと……そんな気遣い必要ないのに」
「まあ、ちったぁ売上は減るかも知れねぇけどよ。疲れて帰ってきた旦那さんには可愛い嫁さんの笑顔が何よりも効く栄養剤になるんだぜ?」
「……旦那さんとか嫁さんとかって、私たちまだ……」
もごもごと異論を唱えようとするティファに、客の一人がにやりと笑って付け加えた。
「栄養剤って言うより、精力剤、だぁな?」
「………!!!」
その一言で、その場の酔っ払った客全員が豪快な笑い声を上げ、耳まで真っ赤にしたティファを放ってぞろぞろと店を出て行った。

「……ティファ?」
「え?!」
洗い物で冷えていた両手を火照った顔に押し当てていると、マリンが円らな瞳でまっすぐにティファを見上げていた。
「…なあに、マリン?」
「せいりょくざい……って、なあに?」
子供の好奇心は侮れない……ティファは悟った。
「え、ええと……ちょっとマリンには難しいかな?うん、大きくなったら、その……クラウドに教えてもらってね」
焦ってそう言ったが、果たしてマリンがクラウドにそんなことを教わっていいものかと不安になる。
ああ、そんなの駄目。
きっと大きくなればそういうことは自然に……
ああ、でもマリンがそんな知識を身につける日が来るなんて想像したくない……。
第一、いたいけなマリン相手にそんなことを教えるクラウドだったら、何だかもの凄く嫌……。

一人問答しているティファのエプロンを引っ張って、マリンはなおも食い下がった。
「大きくなるまでなんて、待てないもん。クラウドならきっと紙とペンを持ってきてその場で教えてくれるよ?」
……嫌。
そんなクラウド想像しただけで嫌。
「だ、駄目……マリン、ここはもういいから、部屋に行っておやすみなさい。ね?」
「……むー」
折角いろいろ勉強したいと思って頑張ってるのに、とぶつぶつ言いながらエプロンを脱いでいるマリンの姿に、ティファはこっそりと安堵の溜息をつく。
そして、余計な一言を置き土産に残していった先程の常連客の顔を思い浮かべ、拳にぎゅっと力を込めた。
ここには子供もいるってこと、忘れちゃ困るのよ。
今度来たら思いっきりお説教しちゃうんだから……!



そして1時間後。
いつもより大分早く店を閉めたティファは、すでに汚れた皿やグラスなどを綺麗さっぱり片付け終え、余った時間で明日の準備に余念がない。
ただ一つ、店の厨房の調理台に凭れ掛かってこちらを眺めているクラウドの存在さえなければ、もっと作業が捗るのに……と思わずにはいられなかった。
すでにシャワーを浴び、一人で夕食も食べ終えたクラウドは、手持ち無沙汰なのか何なのか、先ほどからずっと飽きずにそのポジションへ陣取っているのである。
「……クラウド、そこでさっきから何してるの?」
クラウドがいる側の左半身がずっと火照ってしまって落ち着かないティファは、包丁を動かす手を止めて彼の方にちらりと視線を投げた。
「何って…?」
おかしなこと聞くんだな、とでも言いたげな顔でティファを見返す。
「だから。ずっとそうやってて飽きない?」
「飽きない」
即答されてしまってティファは返答に窮す。
「駄目か?……ティファを見ていたいんだ」
久し振りだからな、と目元に微かな笑みを浮かべてこちらを見つめ続けている。
それじゃ私の気が散るんだけど……なんていう、取りようによっては拒絶にも聞こえる台詞は、今のクラウドには言えない気がする。
いつもなら、2人きりであれば帰宅後すぐにでもティファに触れてくるクラウド。
半ばそれは習慣のようだった。
だが今夜の彼は違う。
シャワー後に着たTシャツは裾が捲れ、洗いざらしの髪もぺしゃんこだけどくしゃくしゃで。
その瞳は明らかに一週間分の疲労を溜め込んでいるように見える。
体力だけは自信があるといつも口癖にしているクラウドだったが、いつもの習慣も忘れてしまうほど疲れがピークに達しているのだろうか。
たまにはこういうこともあるのかと、ティファは変に納得してしまった。

「ああ、そうだ……夕食、凄く美味かった。やっぱりティファの料理は世界一だな」
そんな大袈裟とも思える台詞も、今夜のクラウドが吐いたものであれば素直に受け止めることができる。
疲れが溜まった身体ではきっとお世辞なんて出てこないだろう。
有り難う、とカラカラに渇いた喉から言葉を搾り出した。
頭と身体の火照りは、どうやっても冷めてくれそうにない。
「クラウド、……すごく疲れた顔、してる」
「そうか?……これでもかなり回復したつもりだけどな。ティファの顔が見られたから」
そう?となんでもないフリをしてティファは再び包丁を動かし始める。
「ティファの笑った顔は、俺にとっては……そう、少し高めの栄養ドリンクみたいなものかな」
「痛っ……」

包丁の先が左の人差し指を掠めた。
「大丈夫か?」
「だ、大丈夫……ちょっと当たっただけ」
指先に、赤い筋がじんわりと浮き出る。
「貸して」
気付けば、血の滲んだ指先は、今夜初めて傍へ寄ったクラウドの温かな口に含まれていた。
別になんてことのない行動なのに、指先から伝わる熱く柔らかい舌先の感触にティファの心臓は跳ね上がる。
絆創膏は……などとティファの指を握ったまま近くの引き出しから絆創膏を取り出し、手早く巻きつけた。
「……よし、と」
「あ、ありがと……」

“栄養ドリンク”という単語に自分でも馬鹿だと思えるほど反応してしまった。
嫌でも先程の常連客の“置き土産”が頭の中をリフレインする。
「クラウド……そろそろ、寝る?」
深い意味はなかった。
なかったのに……自分でも言った後で妙な誤解をされなかったかと慌てて取り繕う。
「あ、別に、そういう意味じゃなくて……私に付き合ってないで、早く身体を休めた方がいいんじゃないかなって…」
「そういう意味って?」
分かってるくせにどうしてわざわざ言葉にするのよ?と口にはしないが恨めしい視線を投げた。
が、当のクラウドはすました顔でこちらを見ている。
その双眸は、吸い込まれそうな、そしてどこまでも深く穏やかな、蒼。蒼。蒼。
「ほら。また手、切るぞ」
目尻に皺を寄せてくしゃっと柔らかな笑みを見せ、クラウドは体重を預けていた調理台から身体を離した。
「俺がいるとティファの仕事がはかどらないよな。……さっきから見てるけどほとんど進んでない」
「え……」
「たまには大人しくティファの言うことを聞いて休むことにする。……確かに、今回の仕事はなんだか疲れたな」
「……」
「先に寝るけど、ティファも無理するなよ」
おやすみ、と言い残して背を向けるクラウドに無意識に縋ってしまったのは、ティファの身体ではなく、心。

寂しかった。
何故その一言が言えないんだろう。

自分から胸に飛び込めばいいのに。
何故そんな簡単なことができないんだろう。

いつも自分から行動を起こさなくたって彼の方から何でも与えてくれていた。
疲れを感じてソファに身を沈めたときには目の前にすっとコーヒーが差し出されて。
挫けそうになったときは決まって「大丈夫だよ、ティファ」と囁かれて。
抱き締めて欲しいと思ったときにはすでに彼の腕に包まれて。

「クラウド」

掠れた声で呼び止めたとき、すでに彼の背中は視界から消えかけていた。
足を止めた彼が厨房の入り口からひょっこり顔を覗かせ、ん?という表情を向ける。

「あのね、………」

包丁を置き、濡れた手をエプロンで拭ってはみたが、その先を言い淀む。
少しの間をおいた後、踵を返して近づいてくるクラウドの涼しげな瞳。
くっ、と喉の奥で微かに笑ったように思う。

「……忘れ物」

一番大事な物を忘れるなんてな。
そう囁いた彼の唇に、その意味を考える暇もなく呼吸までもが奪われた。
じん、と身体が痺れるような感覚を覚えたまま、疲労の色を濃くしていたはずの彼の何処にこんな熱い想いが潜んでいたのかと、ぼんやりと考える自分もそこにいる。
彼の熱情に気圧される形でティファはじりじりと後退り、知らぬ間に厨房の冷たい壁と彼の間に拘束されていた。

また彼に与えてもらって、それに甘える自分がいる。
結局、今日も素直な私じゃなかった。
……少しだけ、自己嫌悪。

そんな想いも、クラウドの迸る想いの前ではちっぽけで、たちまち跡形もなく消え去っていく。
一週間ですっかり渇ききっていたはずの身体中の細胞に、とぷとぷと澄み切った水が注がれていく、そんな感覚。

「……やっぱり、さっきのは撤回」
「……?」
「ティファの言うことを聞くって。……俺の思うようにした方が、体力の回復も早そうだからな」
「も、もう……クラウドってば……」

クラウドの言わんとしていることを理解したティファは、それだけで頬に薔薇の花を散らす。
額にそっとキスを落としたクラウドは、そんないじらしいティファに唇の片端を持ち上げた。
「だけど……俺はティファの嫌がることはしない主義だ」
「……え?」
驚いて顔を上げたティファは、クラウドの真摯な眼差しに出会ってますます鼓動を速める。
「ティファが……もう一度俺に「休んだ方がいい」と言うなら、素直に従って二階へ行く。……どうす…」

最後まで言わせなかった。
彼の胸に額を預け、喉につかえていた想いを伝える。

「ずっとね……寂しくて堪らなかったの」

彼の背中に回した手にきゅっと力を込めながら、自己嫌悪に陥りかけていた気持ちがふわりと掬い上げられるのを感じる。
……やっと、言えちゃった。
今日のところは、自分なりに合格点をあげることにして。
髪を優しく梳いてくれる彼の手に、後はすべてを任せよう……。



2人が焦ったように身体を離したのは、ぱたぱたと足を滑らせそうな勢いで、誰かが2階から下りてくる音を耳にしたからだった。
「…マリン?」
何事かと2人が厨房からカウンターの方に顔を出すと、マリンの結った揺れる髪が店の扉の向こうへ消えていくところだった。
「あいつ今頃何しに行ったんだ……?」
とっくに寝たはずなんだけど、と首を傾げるティファに、クラウドは心配げな面持ちでカウンターの外へ出る。
「……ちょっと行って来る」
ティファはくしゃくしゃの髪のままで店を飛び出していく彼を見送りながら、だいぶ落ち着いたとは言え危険がまったくないとも言い切れない夜のエッジの街に
マリンが一人で出て行ったことに、言い知れない不安を覚える。
気になって扉を開け、まだまだネオンで明るい大通りの方へ目を凝らしていると、反対方向の裏通りの方から自分の名を呼ぶクラウドの声がした。

「マリン!どこへ行ってたの?こんな夜遅くに出たら危ないことくらい、分かってるよね?」
「ごめんなさい、ティファ」
見れば、クラウドと手を繋いで大人しく戻ってくるパジャマ姿のマリンがいた。
安堵とともに湧き上がるお説教をしたい気持ちに、先回りをするようにクラウドが片手で制止した。
「ヴィンセントがいたらしいんだ……驚いたよ」



「あのね。あんまり暑いから涼もうと思って窓を開けたの。お店の外を何となく見たら、マントを着た人がお店から出てくるのが見えて……」
店に戻ったマリンは、瞳を輝かせて話し始めた。
「ねえ、ヴィンセント、お店に来てたんでしょ?起こしてくれれば良かったのに」
「……いや、来てない。……な?」
「う、うん……来てないと思うけど」
「え〜?!そんなはずないよ?だってお店の扉が開いて、そこから出てきたんだから!」

来たのだろう、ということは親代わりの2人にも分かっていた。
マリンが嘘などつくはずはないし、嘘をつく理由もない。
だが。
とすると。
見られていた……ってことになる。
なにしろ、店の入り口から厨房は完全に見通せるのだから。
2人の心中は穏やかではなかったが、マリンの手前説明のしようがなく、ただ互いに視線を絡ませるばかり。

「もう!2人ともしっかりしてよ!また来るとは言ってたけど、折角ヴィンセントが来てくれたのに、お酒もコーヒーもなあんにも出さないで追い返しちゃったなんて!」
「いや、追い返したわけじゃ……な、ティファ」
「うん、そう……気付かなかっただけだから、……」
ヴィンセントに懐いているマリンだから、怒るのは尚更だろう。
気持ちが分かるだけに、2人ともマリンに悪いことをしたと、しどろもどろになる。
本当は、悪いことをしたのはマリンに、というよりもヴィンセントに対して、のはずなのだが。

「……で。ヴィンセントは何か言ってたか?」
恐る恐るクラウドが訊ねる。
伝えてくれって言ってたよ、とマリンがむくれた顔で2人を見据え、咳払いをした。

「ユフィをあまり刺激するな。電話でしつこくお前たちの話をしてくるから、うるさくて敵わない。……だって。あ、幸せになれって、付け加えてたけど」

声色を遣ってみせるマリンに、クラウドは思わず天井を仰ぎ、ティファは意味もなく床を見つめた。
……ああ。
見られていた上に、ユフィがあいつに不要なことまで喋っていたなんて。
しかし、今更過ぎたことに想いを馳せたところで過去が修正できるわけではない。
何となく決まりが悪くて彷徨わせていた視線が互いにぶつかり、大人2人はくすりと苦笑を漏らした。

「ねえ、ユフィを刺激するなってどういう意味〜?」
「お前は気にするな。おやすみ」
「え?!クラウドずるいよ!」
「大人ってのはずるい生き物って定説がある」
「なにそれ!」
「勉強熱心なお前に、今日も一つためになることを教えたな。……おやすみ」

くくくと笑うクラウドに背中を押され、マリンは頬をぱんぱんに膨らませたまま渋々と階段を上って行った。
「……まったく。あいつも来たなら来たで声かけるぐらい………やっぱり無理か」
「うん、……たぶん」
顔を赤らめて同意するティファに、クラウドも笑みを浮かべたまま溜息をついた。

「幸せになれ……か」
カウンターに背を預け、腕組みをしてクラウドが呟く。
「あいつに言われると、何故か身に沁みる」
「うん……そうだね」
緩やかに微笑み返すティファに、クラウドは手を伸ばした。
「なあ……」
「……うん?」

すっぽりと収まったクラウドの腕の中で、それは限りない甘さを持ってティファの耳に囁かれ、彼女の頬に更なる薔薇を散らした……。



心地良い疲労感に襲われ、ティファはクラウドの腕の中で微睡んでいる。
他にはない、彼女だけの安息の場所。
「……眠ってる?」
「……う、ん……眠って…る」
ふ、と笑う彼の声と微かに揺れた剥き出しの肩の温かみに、眠りの世界の入口に留まっていたティファもきゅ、と瞳の奥が熱くなる。
やがて、彼の心音は子守唄のように、彼女を今度こそ深い眠りへ導かんとして両手を広げた。

幸せになれ

心の中で木霊した気がした。
返事は言葉になることはなく。
一筋の涙となって彼女の頬を伝い、シーツを濡らした。



その夜。
エッジの街には、一陣の紅い風が舞ったと言う……。



FIN





感想
めちゃくちゃなリクをしてしまったのに、こんなに素敵なお話を書いて下さいました!!
ほのかにヴィンユフィの香りまで…!!ヴィンユフィも密かに好きなマナフィッシュにとって、このお話は本当にもう、萌えです!!
(ああ…感動…;;)
一言の言付けのみで去るヴィン…男前や〜o(*^▽^*)o
本当に感謝・感激です!!
るしあ様、有難うございました!!