大丈夫。

 そこから先の闇には絶対に逝かせない。


 真の闇に堕ちるのは…。
 真の闇に染まるのは…。



 私だけで充分なのだから。






激昂 6







 ナナキは思わず目を瞑った。
 アイリの顔が思い切り殴り飛ばされたところなど見たくない。
 だが…。


 パチンッ!


 やけに軽い音。

 恐る恐る目を開けて見て…ナナキは目を丸くした。
 同じようにクラウドとプライアデスも焦燥感に駆られた表情で固まっていた。

 もう絶対にダメだ!

 と一瞬、絶望に足を突っ込んだのに…。


「ダメですよ、そこから先にはいかせません」


 シュリの両頬を挟み、アイリが顔を寄せていた。
 彼の突き出された腕は彼女の肩の向こうへ伸びている。
 先ほど聞いた音が、青年の攻撃を避けて両頬を挟むようにして叩いたアイリのものだったのだとナナキは呆けた頭で理解した。
 シュリの伸びた腕が震えている。
 今はまだ、アイリへの攻撃を抑えているが怒りのあまり暴走しそうなことに変わりはないのだろう。
 危機的状況はまだ脱していないというのに、アイリはまったく動じていなかった。
 真っ直ぐ、赤黒い瞳に変貌した兄の目を見つめる。


「兄上。兄上が今しなくてはならないことは自分の怒りを吐き出すために荒れ狂うことですか?それとも彼女の傷を癒すことですか?」


 淡々としたいつもの口調。
 微塵も恐れや焦りを抱いていない冷めた双眸。
 シュリの両頬に添えた手は細く、小さく、とても華奢なのに、この場にいる誰よりも力強い。


「兄上。この愚者どもを兄上が目の前で制裁することで彼女が救われるなら喜んでこの場を去りましょう。ですが、彼女はそんな人なんですか?」
「…な……に…?」
「ラナ・ノーブルという女性は、復讐を望む人なんですか?」
「…あ……」
「自分のために、大事な人が最も愚かな罪を犯すことを望む人なんですか?」
「………」
「違うでしょ?」

 ゆっくりゆっくり、シュリの腕が下りる。
 スーッと闇に染まった狂気の色が瞳から抜けていく。
 まるで、アイリがシュリの狂気を吸い取っているようだとクラウドは思った。
 そのまま脱力したようにダラリ、と垂れ下がったときにはシュリの瞳はいつもの黒曜石の色に戻っていた。

「なら、兄上がしなくてはならないことはなんですか?」
「……俺が…?」
「兄上にしか出来ないことがあるでしょう?」
「…俺にしか…?」

 そっとアイリは両手を離すと、兄の肩に手を置いた。
 そのままクルリ、と身体を反転させる。
 シュリはハッと息を呑んだ。
 プライアデスに横抱きにされたラナがジッと見ている。

「あ……」

 シュリの顔から血の気が引く。
 自分が激情に駆られたことへの激しい後悔が手に取るように伝わってくる。
 激しい後悔に顔を歪め、視線を落としたシュリにアイリが軽くその背を押した。
 同時にプライアデスがラナを抱き上げたまま歩み寄る。
 僅か2歩。
 トン…と、プライアデスはラナをシュリの腕に押し付けた。
 ビクッと震えて抱きとめようとしないシュリに、紫紺の瞳を軽く眇める。

「シュリ、僕が抱きしめてもラナの傷は癒えないんだよ。キミでないと」

 プライアデスが後押しするように促すが、それでもシュリの腕は上がらない。
 我を忘れたことで暴走した姿を彼女に晒したことがどれだけシュリにとってショックだったのかを物語っている…。

 プライアデスは1つため息をつくと、
「ラナ、ちょっとごめん。アイリ」
 放心状態のラナに一言断りを入れて床に立たせるとアイリが音もなく傍に寄り、ふらつく身体をそっと支えた。
 床に立ったことでプライアデスの隊服が持ち上がり、彼女の綺麗な足がむき出しになる。
 その足に、殴打された跡や床や手錠でこすれた傷がいくつも残っているのに気づき、クラウドとナナキは怒りがこみ上げる。
 視線で殺せる眼力を込めて睨みつけると、荒い息を繰り返しながら美術匠ともう1人残っていた男が小さく悲鳴を上げ、床を這いずろうともがいたが上手くいかない…。

 ふらつくラナにシュリが一瞬、視線を戻したそのとき。

 これ以上ないくらい、クリティカルなヒットがシュリの頬に炸裂した。
 アイリの横を吹っ飛んで壁に激突するほどの強烈な拳。
 男たちを睨んでいたクラウドとナナキが驚きのあまり目を剥いた。

「ちょとー!なにするの!!」
「ラ、ライ…、いくらなんでもやりすぎじゃないのか…?」

 だが、青年はどこか寂しそうな…悲しそうな面差しで首を振った。

「良いんですよ。責められたり、罰を受けた方が救われることだってあるんです」

 その言葉に、クラウドとナナキはドキッとした。

 と…。


「大佐…!」


 それまで一言も声を出さなかったラナが、ふらつきながらシュリへ駆け寄ろうとした。
 両足首はミミズ腫れ、背中や腹、顔は殴打の跡。
 少しの衝撃でも痛みが全身を走る。
 それでも、ラナは駆けつけずにはいられなかった。


 彼が、後悔するほど我を忘れ、激昂してくれた理由に涙が溢れる。
 そのまま、身体を起こしたばかりのシュリによろけるようにしてしがみついた。

 嗚咽が洩れる。
 しっかとシュリの首にしがみついて小さく肩を震わせるラナに、シュリは目を見開いていたが…。


 やがて眉根を寄せ、おずおずとその背に両腕を回す。


「…遅くなって……ごめん」


 ようやっと彼女に向けてシュリが言葉を紡いだ…。


 *


「はい!?なんて言いました!?!?」

 突然舞い込んだ吉報に、リーブは素っ頓狂な声を上げて立ち上がった。
 局長室でリーブと変わらないほど目の下に隈を作った警察の偉いさんやWROの幹部連中と陰鬱な顔をして会議をしていた最中のことだ。
 それが、まさかまさかの『事件解決』。
 おまけに『モンスター討伐完了』の報告というダブルの吉報。
 だが…。

「…誰か、お願いが」
「局長、どうされました!?」

 屈強な身体のスライ大佐が、これまた目の下に隈を作ったやつれた顔に焦燥感も露わに身を乗り出した。
 また犠牲者が!?と眉が情けないほど下がっている。
 他の面々も似たり寄ったり、言葉にこそしないが、『またマスコミや世間に叩かれる!』と悲鳴を上げていた。
 犠牲者に対する哀悼の意を抱くにはあまりにも多忙、心身を酷使しすぎる生活を続けていたのだ、勘弁してやって欲しいところである。

「誰か…ちょっと私を引っぱたいてくれませんかね?」
「「「「 はい!? 」」」」
「こんな…都合の良すぎることが現実に…」
「「「「 ……… 」」」」
「あぁ…やっぱりダメです…限界です…」
「「「「 局長!! 」」」」

 力なく「ふふふ」と笑ってとうとうWRO局長、リーブ・トゥエスティは部下や警察のお偉いさんの前で倒れてしまった。

 夢のような都合の良すぎる報告を受けた直後の出来事として、後々WROの中で語られることとなるとはこの時、誰も思いもしない…。


 *


「それで…?」

 ティファは眉間に深いシワを寄せ、話しの先を促した。
 全てが劇的変化によって終息した日の夜。
 クラウドはベッドに腰掛け、身を寄せるようにして隣に座っているティファへ昼間の出来事を話していた。
 今回の事件をとても心配していたティファは身を乗り出してクラウドの話しを聞いている。

「それで気がついたらナナキはニブルヘイムエリアから、俺はウータイエリアからこっちの大陸に飛んでたんだ」
「飛んでたって…」
「もうそれ以外に説明のしようがない」
「そう…。相変わらずなんだか神がかったことになっちゃうわけね。でも、他にもシュリ君やライ君を追いかけた人がいたんでしょ?なんでクラウドとナナキだけがくっ付いて飛んじゃったわけ?」
「あ〜、どうも一番近くにいた奴だけがくっ付いてしまった、というか巻き込まれたみたいだな。後でユフィとリトから泡を喰ったような電話がシュリとライと俺にバンバンかかってきた」
「そ、そう。でもそりゃビックリするわよね…、いきなり目の前で消えられたら…」

 ティファが苦笑交じりに頷いた。
 その『いきなり目の前で消えられたら』の台詞で、もう1つ、妻に説明していなかったことを思い出す。
 話をして良いものやらどうやら…。

『いきなりアイリが車中から消えたので、運転手も含めて隊員が全員、パニックになってしまって…。ハンドル操作ミスを起こしてあわや大惨事でした…』

 あの後。
 駆けつけたワゴン車から蒼白な顔をして転がり出たシェルクはそうアイリを詰った。
 シェルクの後ろでヴィンセントが、これまで見たことがないほどげっそりとしていたのが印象的だった。
 それでもやはり、アイリは飄々としていたのだが…。

「それにしても、突然任務地から消えてしまったら、後が大変だったんじゃない?」

 悩んでいる間にティファが新たな疑問にぶつかった。
 これで『アイリ、突然幽霊のように消える事象』を話すタイミングがなくなったわけだ。
 どこかそれをホッとしながら、クラウドは苦笑した。

「ライの部隊にはグリートがいたからな、あいつはシュリの部隊に戻ったんだ」
「どうして?」
「シュリは部隊に戻るよりも大切なことがあるだろう?ってことになって残ったんだ」

 そう言いながら、いよいよか…と、クラウドは憂鬱な気分になった。

 ラナが陵辱されそうになったことはまだ話していない。
 女性にとって最大の屈辱、耐え難い凶行に及ばれそうになった話しを口にするのはやはり簡単ではない。
 だが、今回の事件ではそれを飛ばして話しを終えることは出来そうになかった。


 ― 「愚かな夢はもう充分堪能しましたよね?」 ―


 アイリの冷たい声音を思い出す。
 全てが終わったあの直後。
 倒壊した小屋から辛くも全員脱出したあの時。

 へたり込んで茫然自失状態の派手な服装の男に、アイリがそう言った。
 半分棺桶に足を突っ込んでいる男2人と、怪我の酷いラナをとりあえず救急車が到着するまでの間、ワゴン車に収容したり現場検証のために警察を呼んだりと奔走している隊員たちで騒然としている中。
 それを尻目に、犯人グループの中で最大の元凶である男にアイリが目を針のように細めて見下ろしていた様は、ゾッとするほど静かな殺意に満ちていた…。
 プライアデスはなにか言いたそうな、不安そうな顔をしながらもその場の指揮を取ることを選んだようだった。
 アイリを止めることも、隊員に美術匠の男を連行することも命じなかった。

「アナタの身勝手な思いのお陰で闇が勢いづいてくれて大変でしたよ。お陰でウェポンもどきを活性化させて闇が勢力を取り戻そうと躍起になってくれるし、そのせいで星はまともな声を上げることも出来ずにただ怯えるし。モンスターを駆除しながら声を聞き分けるのが本当に大変でした」

 淡々と文章を読み上げるように語るその内容の恐ろしさに、背筋がゾッとした。
 シュリやプライアデスがWROという組織の中で星を守るために戦っていたとき、アイリはただ1人であの化け物たちを相手にしていたということを差しているのではないのだろうか?

(やっぱり…『闇の女帝』だったアイリは星の新時代への移行の恩恵から外れているのか…)

 クラウドの胸に苦いものが広がる…。
 その間も、アイリの言葉は続いていた。

「アナタがそんなに『あちら』へ逝きたいのでしたらお連れしてあげます。ちゃんと今回の事件を全部話してくれたその後で」

 アイリが垣間見せた、『言葉に出来ないほどの恐怖』に男はガクガクと激しく震えた。
 歯の根も合わないほどの震えのため、何を言っているのかさっぱり言葉にならないが必死に許しを請う。
 無様なその姿は気が狂っているようにも見えた。
 隊員が数名、男を連行するべきか否か、プライアデスに問うたのはその時だ。
 青年はほんの少し躊躇ったが、結局コックリと頷いた。

 隊員に両脇を抱えられて無理やり立たされた男が最後の最後、縋るように「許してくれ」と懇願した言葉を、アイリは霜の降りた冷たい魔晄の瞳で跳ね返した…。


「楽しみにしてて下さいね」


 それは、新たに到着したWROの車に押し込められた男を見送りながらアイリが呟いた言葉だった…。


「クラウド?」

 フウッと意識を現在(いま)に引き戻す。
 そして、怪訝そうな顔をしているティファを見つめた。

 もし。
 ティファがラナのような目に遭ったら?
 間違いなくシュリのように我を忘れるだろう。
 でも、その後は?我に返ったそのとき、どうなるだろうか?
 今日、シュリの傍にはアイリがいた。
 プライアデスもいた。
 フォローしてくれる人間がいてくれたから、青年は大切なモノを傷つけたままにしないで済んだし、社会的立場を守ることも出来た。
 でも自分はどうだろう…?


「シュリは自分が穢れていると思っているんです。だから、ラナに触れることがとても怖かったんですよ」


 怪我を負ったラナを真綿で包み込むように大切に抱きかかえ、搬送車へ乗り込んだ青年を見送りながらプライアデスがそう言った。
 あぁ、だから…と、クラウドとナナキは顔を見合わせたものだ。

 シュリが過去、生き延びるためにどんなことをしてきてたのかはある程度知っている。
 そのこと自体を彼は微塵も後悔していないことも分かっていた。
 しかし、後悔していない過去を持っているが故に、大切なモノを穢してしまうかもしれないという危惧を抱いているとは思いもしなかった。
 それだけラナが大切な存在だと言うことなのだろう。
 それほどまでの女性(ひと)に出会えたことは、シュリにとってこれからの人生、素晴らしいものになるに違いないのだが、あと少しでそれを失ってしまうところだったのだ…。

「クラウド?」

 いきなりフワッと抱きしめられ、ティファは目元を赤くしながら狼狽した。
 しかし、すぐに微笑みに変わると、甘えるようにして柔らかく抱擁するクラウドの背に手を回す。

「お疲れさま」
「…あぁ」
「でも…良かったね。事件もモンスター問題も解決して」
「…そうだな」
「これからも色々あるだろうけど大丈夫だよ、きっと」
「…あぁ、そうだな」

 そう、大丈夫だ。
 きっと、これからも色々あるだろうが、1人じゃない限りは大丈夫。

 クラウドはそっと身体を離すと、ティファに事件の真相を話し始めた…。
 2人の男の狂った思いから今回の事件が起こったことを。
 男でありながらWROの若き大佐に恋焦がれた美術匠と、美しい女性隊員に横恋慕したあさましい男の計画を。
 高級娼婦連続殺人と言う事件を引き起こした理由はたった1つ。

 おとり捜査に踏み出した際、選ばれる人間は大財閥の令嬢以外いないということだけ。

 たったそれだけのために、美術匠はそれまで築いていた財を全て無頼漢たちに投じただけでなく、特殊メイクまでも施した。
 そうしてまんまと世にいる有名人、財界人に殺人鬼を化けさせ、凶行に及ぶことの手助けを率先して行ったのだ。
 元隊員は情報を横流しした。
 ヴィンセントとシェルクが乗っていたワゴン車を監視させ、異変に気づいたあの時に囮である『不審な軽トラック』の痕跡をシェルクが見つけて後を追うように仕向けたのも隊員の仕業だ。

 だがここで1つ、誤算があった。
 傷物にされるくらいなら、とラナが自殺を図ったことだ。
 あの一瞬、大地が脈動しなければラナは死んでいたはずだった。

「心も身体も傷つけられた女ほど御しやすいものはないと思った」

 男のこの台詞に、後日、取調べ室で大財閥の御曹司2人(プライアデスとグリート)による殺人事件が引き起こされるところだったのは余談である。

 おぞましい思いを抱き続け、多くの女性の人生を奪った殺人事件はようやっと終結した。
 犯人グループは全部で8のチームに分かれていたことも、被害者の高級娼婦から金品を強奪することに純粋な喜びを覚えてきていたということも、後日の取り調べで明らかとされる。
 全員が相応の罰を受ける日は遠くない。


「なんてこと…!」
「あぁ…」
「絶対に…許せない!」
「…そうだな…」


 全てを語り終えたクラウドは、悔しそうに顔を歪ませ涙を流す妻をもう1度、今度は強く抱きしめた。
 今、心身ともに傷つき、疲れ果てているであろう彼女が、同じように傷ついた青年によって暖められていることを願いながら…。


 後日。
 ラナ・ノーブルが頬や額、手、足に包帯を巻いた姿で恥ずかしそうにセブンスヘブンを訪れることになる。
 見た目は痛々しいのに、これまで見たことがないほど幸せそうに微笑む彼女の隣には、今までよりもうんと近くに寄り添い立つ青年がいた。

 事件に関与していた全員が逮捕されたという嬉しい知らせを持って…。