轟々(ごうごう)と風が鼓膜を直撃する勢いで後方へ流れる。
 もっと大きく聴覚が捉えているのは己の心臓の音だ。
 ドクドクと動脈を凄まじい勢いで血が流れているのを感じる。 
 心臓がこれ以上は無理だというくらいに思い切りポンプで血液を体中に循環させる。

(まだ…!)

 まだ、足りない。
 もっともっと、早く走らなくては!

(まだまだ…!!)

 視覚は目の前を走るただ一点にのみ集中させているわけではない。
 凄まじい勢いで後方へと飛んでいく景色の中、己の進路を阻む可能性のある者や物をより分け、後方から追撃がないかどうか、背中の神経を集中させる。
 しかし、一番意識を集中させているのは…。


「マリン、デンゼル!!」


 可愛い子供達の命を握っている憎い敵。






走れ(前編)






『ティファ・ロックハート、ゲームをしよう』

 機械で声を変換させたふざけた電話がかかってきたのは、子供たちが帰宅すると約束した頃合だった。
 日が暮れるのが早くなりつつある季節なので、早めに帰宅して買い物や店の手伝いをする!と言ってくれたのだ。
 可愛い子供たちを思い出して頬を緩め、今夜からメニューの内容は、料理もアルコールも温かいものをメインとした方がいいだろう、と考えながら仕込みに入ろうとしていたところだった…。

「ゲーム?」
『そう、ゲームだ。とても単純なゲーム』

 悪趣味な悪戯だ。
 そう思ったと同時に、子供たちの身が急に案じられたその時、デンゼルとマリンの怯えた声が不愉快な機械の音声の変わりに鼓膜を打った。
 デンゼルもマリンも、
「ティファ!」「ゴメンなさい、私達、逃げられなくて!」
 早口に謝っただけだった。
 一言も『助けて』とも『怖い』とも言わなかった。
 また、敵も言う時間も与えてくれなかった。
 2人が声を上げてすぐに受話器を子供たちから遠ざけたのだろう、デンゼルとマリンの声はハッキリとは聞こえなくなった…。
 機械での変換による不愉快極まりない声の後ろで必死に謝っている子供たちの声に意識が持っていかれてしまう。

「…2人を返して…無事に、今すぐ…!」

 押し殺した声にはっきりとした殺意を込め、ティファは受話器を強く握り締めた。
 機械で声を変えているクセに『クックック……』と侮蔑したと分かる笑い声。
 目の前が真っ赤になるような怒りに駆られる。

『勿論、ゲームに勝ったらすぐにでも』
「ふざけないでよ!!」

 キーン…と耳鳴りがしそうなほどの怒鳴り声を上げたティファは、自分の心臓がすぐ耳元で脈打っているように感じた。
 ドクドクと脈打つ鼓動は異様に早く、アドレナリンが大量に分泌される…。

『いいねぇ、その怒り。ゲーム参加資格はオッケーのようだ』
「…!!」

 怒りに駆られて言葉はおろか、声すら出ない。
 受話器を握り締めたまま息を荒げたティファがまるで見えているかのように、電話の向こうで哂い声に歪んだ喜びが雑じった。

『これからきっかり1分後、ゲームを開始する。お前の携帯番号は可愛い子供たちにちゃんと教えてもらったので大丈夫だ。通信手段を失うかもしれないという懸念は捨てろ』
「2人に乱暴なこと、してないでしょうね…」

 怒りのあまりに声が震えるティファに、敵はクククッ…と短く声を上げて哂った。
 理性が吹っ飛びそうになる…。

『勿論だ。もっとも、アンタとワタシの『乱暴』の基準が同じかどうかは知らないがな』
「…なっ!この……!!」

 知る限りの罵詈雑言を浴びせてやりたい!
 しかし、敵はそこまで悠長に待ってはくれなかった。

『さぁ、あと30秒だ。用意はいいか?今すぐ店のドアを出ろ。今すぐだ』

 そうして店の電話は一方的に切られた。


 その後。
 店の施錠すらせず、ティファは走っている。
 敵の言った通り、ティファの携帯番号は握られていた。
 店から出てすぐ電話がかかった。
 そして…。


(こんなくだらない鬼ごっこ、すぐに終わらせてやる…!)

 ティファは敵の指示に従ってひたすら走っていた。
 最初は空を飛んでいる気球だった。
 地上から見る分にはゆったりしているように見えるが、実はかなり早い。
 大きいからゆっくり空をたゆたっているように見えるだけなのだ。
 ティファは走った。
 エッジの街を人々がギョッとしたように見る中、ただひたすらに。
 数人の顔見知りがいたように感じたが、かまう余裕などない。
 きっと、明日には常連客が疾走の理由を面白おかしく聞きに来るだろう。
 その時、笑いながらはぐらかすことが出来るかどうかは、ティファの『足』にかかっていた。
 いくらジェノバ戦役の英雄として一般人とは違う身体能力を持っていたとしても、気球に追いつけるはずもない。
 気球が豆粒ほどにもなってしまった頃には、ティファの息は上がっていた。
 広い広いエッジの街の端にまで来ている。

 そうなってからようやっと、次の指示が来た。

 次はフワフワと風に舞う赤い風船だった。
 ヘリウムガスが少ないのか、あまり浮かないし風も強く吹いていないので追うのは気球よりもラクに思えた。
 しかし、それはやはり『気の向くままに吹く風』のもたらすものだ。
 あっという間にティファはエッジの街中に逆戻りすることとなった。
 走って走って…。
 こんなに全力疾走を長時間したことなどない。
 あの旅のときですら。

 足がガクガクと震えそうになる。
 走りながら思い切り前にのめって転倒しそうだ。
 街に舞い戻る形となったティファにとって、不幸中の幸いは『行き』とは違う場所を走ることになったことだけ。
 ひたすら上を見上げ、風に漂う風船を追う。
 その姿は滑稽でしかない。
 狂人にすら見えるだろう。
 たとえそうだとしても、それは少し事実に近いかもしれない。
 ティファはまさに狂わんばかりだったのだ。
 子供たちを人質にとられたのは間違いなく『自分達』のせい。
 英雄と言う肩書きは重い。
 元・神羅カンパニーに属していた者達には未だに恨まれているという自覚がある。
 それに…魔晄炉爆破事件の時の被害者、第7プレート落下事件の被害者…。
 挙げればきりがない。
 それくらいのことをしてきたので文句は言えない。
 だがしかし、子供たちは関係ないではないか!
 痛みを知っているのならば、『自分達』を苦しめるために子供たちを傷つけないで欲しい、と身勝手な願いを胸に抱いてしまう…。
 あぁ、だがどうか許して欲しい。
 勝手な願いだとは十分承知しているが、どうか子供たちだけは!

 そう…、願いながら生きていた、平和になってからも。
 そして感じていた。
 もしかしたら、子供たちは見逃してくれるかもしれない…と安心し始めていることに。
 だが、とんだ間違いだった。
 世の中は決して甘くなく、平和になったと見えて平和じゃない。

 特に、自分たちには。

(マリン、デンゼル!!)

 まだだ!
 まだまだ走れる!!
 子供たちのため。
 子供たちの未来のため。
 子供たちの現在(いま)のためにも…!

(負ける…、もんかー!)

 ティファは走った。
 赤い風船へ向けて思い切り跳躍する。
 ティファの手が風船の紐を掴み、着地した瞬間、携帯が新たな指示を伝えるために鳴った。


 *


 クラウドは猛然と荒野を駆けていた。
 フェンリルに多くの時間を裂いてきただけのことはあった。
 この非常事態、敵の無理難題になんとか喰らい付くことが出来るのはフェンリルのお陰だ。

(くそっ!!)

 思い出しただけでも腸が煮えくり返る。

(デンゼル、マリン!!)

 ―『クラウド、ごめんね!足手まといで本当にゴメンね!!』― 
 ―『ティファにも同じ脅迫が!!』―

 子供たちの泣きそうな声が耳に甦る。
 どんなにか怖い思いをしたはずなのに、そんな素振りを見せず、ひたすらクラウドとティファに心砕いた言葉。
 クラウドは己の無力さが無性に悔しかった。

 なにがジェノバ戦役の英雄か!と思う。
 肝心な時に肝心な『もの』を守れないで、なにが英雄だと言うのか。

 目の前で背を向け、最期まで自分を庇ってくれたが故に死んだ親友。
 手を伸ばせば助けられたのに、弱かった故に敵に操られ、結果、見殺しにした仲間…。

 あの時、味わった到底語りきれぬ悔しさと情けなさ、無力さを呪う自分を二度と味わわないため、これでも日々精進していた。
 あの時…。
 第二のセフィロスである三兄弟を星に還すことに成功したあの時、もう大丈夫だと思った。
 自分は1人じゃないから。
 何があったとしても大丈夫、きっと乗り越えていける…と。
 だが、とんだ思い違いだ。
 離れていては守れない。
 もっともっと!
 自分やティファ、そして英雄の仲間達に手を出すということが、『どれほど無謀で愚かなことかを見せ付けられるだけの力』を手に入れなくては、大切なものは守れないのだ…。

(くそっ!くそっ!!くそっ!!!)

 クラウドはフェンリルのエンジンを噴かした。
 既に限界を超えている。
 音速を超えるかのようなスピードで愛車を走らせ、クラウドはひたすら大地を見つめていた。

 赤茶けた大地には特に変わったことはないように見えた。
 が、目を凝らして見ると拳大ほどの赤く丸い照明が地面を走っている。
 クラウドが敵に指示されたのは、ひたすらその丸い赤く光る照明を追うこと。
 上空をチラリ、とだけ見上げると、小型な物体が浮かんでいるのがかすかに見えた。
 その物体から照明が送られているのだろう。
 そして、無様に荒野を走るクラウドの姿を見て愉しんでいるのだ…。

(デンゼル、マリン!!)

 クラウドは眼前に迫った巨木をハイスピードであるにもかかわらず素晴らしい反射神経で避け、ひたすら照明を追って走り続けた。

 もしかしたらティファもこうして敵に翻弄されているのかもしれない…と一抹の不安と、カケラほどではあるが確信を抱きながら…。


 *


 その異変をWROが感知したのは本当に偶然だった。
 いや、別の一件で張り巡らせていた情報網にたまたま引っかかったのだ。

「局長、エッジ近郊で覆面捜査をしていた隊員から連絡が」
「なんの連絡です?」

 局長室で膨大な資料を睨んでいたリーブは、顔を上げないまま部下に先を促した。
 なにしろ、ひっきりなしに問題が起こる。
 どの一件の覆面捜査なのか説明してもらわないと分からない。

「高精度の機能を持つ『虫』の一件です」

 リーブは顔を上げた。
『虫』というのは、今、WROが重視している大問題の一件だった。
 隊員はリーブの厳しい顔に1つ頷いた。

「それらしき物体をかすかに見たそうです。それだけではなく、その物体に誘導されるように爆走するクラウド・ストライフ氏がいたそうです」
「なんですって…!?」

 リーブは勢い良く立ち上がった。
 素早く思考をめぐらせる。
 どういう状況にあるのか結論を出すのに時間はかからなかった。

「すぐに私のほうから仲間達に連絡を取ります。科学班に今すぐエッジの街を中心として特殊な電磁波を飛ばしているものを割り出すように要請を」
「はっ。既に依頼しております」

 敬礼しながらそう応えた隊員に、リーブはフッと微笑んだ。
 正直、幹部とは言えあまり顔を合わせないような隊員だが、こうして機転を利かせてくれることは純粋に嬉しい。
 それに、目の前の隊員だけではなく、他の幹部という地位にいる隊員達にも徐々にだが先の先まで読んで動いてくれる者が増えていた。
 なんと喜ばしいことだろう?
 WROを発足した当初は正直言うと不安だった。
 神羅のように、ゆくゆくは暴走しやしないか…と。
 その時、自分に抑えられるだけの力があるか…?と。
 だが、そんな先の心配よりも『現在(いま)』をしっかりと踏みしめていれば、遠い将来は杞憂に終わってくれるかもしれない。

「では、速やかに行動に」
「はっ!」

 隊員は敬礼を残して背を向けた。
 隊員が出て行ってから、リーブはまずユフィに連絡を取った。
 ウータイの忍は非常に優秀だ、ユフィも含め。
 日頃のお茶らけぶりを見ているととてもそうは思えないが、ユフィはウータイ1の忍だった。
 ユフィはリーブからの話しに、携帯の向こうでひとしきり怒りをあらわに喚いていたが、
『了解。すぐに仲間に連絡とってみる』
 そう言って、電話を切った。
 次にかけたのはシド。
 シエラ号第二艇の着工に入っていたため、本部にはいなかった。
 しかし、すぐにリーブの要請に「おう!まかせとけ!!」と応じた。
 リーブはそこで仲間に連絡するのを終えた。
 ヴィンセントはどこにいるのか分からない。
 バレットはエッジから遠く離れたコレルにいる。
 ナナキも今はコスモキャニオンに戻っていた。
 ユフィの仲間はたまたま今回の一件に絡む潜入捜査を依頼していたので連絡をとったが、ユフィ本人に来てもらうだけの時間がない。
 シエラ号がいくらこの星一番最速の運行手段だとしても、仲間達を回収してから現場に向かうだけの時間はない。

「ま、他のみんなには怒られるでしょうが事後報告とさせて頂きましょう」

 リーブは携帯をパチン…と閉じながら1人ごちると、傍らにいつも置いていたケットのぬいぐるみを見た。

「さ、お願いしますよ、相棒」

 ケットがピクリ…と動いた。


 *


 全身の毛穴から汗が噴き出し、ぐっしょりと服を濡らしていた。
 汗が目に入ってしみるたび、ティファは乱暴に目元を拭った。
 拭う間も前を向いたまま、一瞬たりとも目標物から目を逸らさない。
 今、ティファが追っているのは飛行機のラジコンだった。

(この…、いつになったら…!!)
 ずっと待っているのに!!

 敵の思惑は十中八九、自分を疲弊させきったところでアジトか、待ち伏せしている場所へ誘導することだ。
 正直、身体は限界だった。
 全力疾走を3時間。
 心臓が悲鳴を上げている。
 息をするたび、胸の奥から耳障りな『ヒューヒュー』という音がする。
 肺も、足も、腕も限界だ。
 視界すら時折ダブって見える。
 夕暮れの空がとても目にしみて目が痛い。
 生理現象で涙が溢れ、そのたびに入り込んでくる汗と一緒に拭った。

 この『鬼ごっこ』が始まってから仲間達にSOSをかけることを何度も試みた。
 しかしそのたび、絶妙なタイミングで新たな指示が来る。

(どっから…見てる…?)

 こんなに広範囲に渡って振り回しているのだ、恐らく人工衛星か何かが絡んでいるだろう。
 だがしかし…とも思う。
 そんな高度な技術、WROの科学班でも持ちえているのだろうか?
 はるか太古の昔にはあった…と本で見たことがある。
 その時はただの『神話』だと思ったものだ。
 だが、こうして通常では信じられないような振り回され方をしていると、その神話も本当のこととして思えてくる…。

 ティファは自分がいつ、エッジに隣接しているミッドガルにやってきたのかすらもう分からなかった。
 極度の疲労、長時間にわたる疾走は、脳を軽い酸欠状態に追いやっていた。
 だから…。


「あ…!」


 注意力が散漫になっていた。
 急に足元の大地が消え、ぽっかりと開いた穴にティファは吸い込まれるように落下した。

「くっ!」

 取っ掛かりになりそうな土壁や突出したものを瞬時に探す。
 しかし、落下スピードはティファの疲弊した動体視力で探すそれを上回っていた。
 あっという間にティファは5メートルほど落下し、底に溜まっていた水溜りに無様に転がった。
 小さく悲鳴を上げ、ティファは泥まみれになりながら身体を起こそうとした。
 身体の節々が悲鳴を上げる。
 ギシギシ…と、油の切れた機械人形のようなぎこちない動作で肘を着き、上体を持ち上げようとする。
 全身泥水まみれ。
 頬にも泥が跳ね、髪は汗と泥でぐっしょりと重かった。

「く…ぅう…!」

 落下し、泥水の中で一瞬とは言え横たわってしまったのがいけなかったのか、身体のスイッチが切れてしまったようだ。
 たった今まで全力疾走できていたのに、身体が鉛のように重く感じる。

「う…ごけ…」

 力の入らない腕。
 動かない足。
 まるで自分のものじゃないようだ…。

「うごけ…!」

 マリンとデンゼル。
 クラウドが突然いなくなって、哀しすぎて、辛すぎて、己を見失いそうになったあの時、2人がいてくれたから頑張れた。
 大切な、大切な、可愛い子供。
 血のつながりを越えた、可愛い私の子供たち。

「うごけ!」

 可愛い子供たちを助けるために今、出来ることは……!


 敵の指示に従い、ただ走ること。
 走って、走って、はしって!
 敵が準備万端に待ち伏せているところまで走り続けること。


 だから…。


「こんなところで…!」


 泥水の中から、ティファは立ち上がった。