最初に目に入ったのは、真っ白い天井だった…。
 次いで視界が映した者は…。
 淡い茶色の瞳が印象的な、薄茶色をした巻き髪の美しい…女性(ひと)



欠けたピース 1




 自分を見るなり不安そうな顔を一変させ、大きく目を見開いたその女性(ひと)は、
「大丈夫!?どこか気分悪くない!?痛いところ…って、頭とか脚は痛いわよね…ってそうじゃなくて…!!」
 興奮気味に捲くし立て、
「ちょっと待ってて!!」
 そう言い残し、
「先生、気が付きました!」
 と、叫びながら部屋から駆け出してしまった。

 取り残された形になったものの、彼女の言う通り頭と脚が酷く痛む。
 動こうとして激痛が走り、結局数ミリも動けない。
 それどころか、何が何だかわけが分からない。
 ここが一体どこなのか…?
 いや、恐らく病院の一室なのだろう。
 精一杯出来る範囲で己を取り囲んでいる状況を見る。
 片腕には点滴。
 もう片方の腕には輸血。
 そして、更には頭部が何やら巻かれている感触。
 きっと、包帯なのだろう……。
 口を開け、何か話そうとする。
 だが、どうした事か声が出ない。
 舌がカラカラに乾いていて上手く動かせない。
 喉の奥から干上がっている感じがして…酷く苦しい…。

『水が欲しい…』

 そう思いはしたが、どうやら自分以外は誰もこの部屋にはいないらしい。
 先ほど出て行ってしまった女性が、唯一自分の傍にいた人間だったようだ。
 首を起こしてもっと自分の状態を良く見ようとする…。
 しかし、頭の傷が引き攣れて痛み、上手く動かせない。
 両脚が酷く痛むので、無くなってはいないようだが…それにしても……。

『なんだって…こんなことに…?』

 ズキズキと痛む頭の中を探る。
 どうにも理解出来ない。
 何故、こんなことになっているのか?
 いや、というか何と言うか……。


 バタバタと足音が遠くから近付いてくる。
 先ほどの女性が医師を連れて戻って来たのだろう。

 程なくしてその予想が裏切られなかった事を知った。


「良かった、本当に!」


 白髪混じりの細身の医師は、開口一番そう言った。
 そして、慣れた手つきで痛む頭部と脚の状態、点滴の具合に血圧、心電図をチェックする。

「いやはや、全く大したもんだ!もうかれこれ四日も意識が無かったからダメかと思った。しかしまぁ、流石…といったところかな、うん!!」
「ええ、本当に!もう、心配したんだから!!」

 満面の笑みで自分を見てくる医師と女性。
 しかし、わけが分からない。
 一体なにが『流石』なんだろう…。

 ぼんやりと見つめ、怪訝そうに眉を寄せるその表情に気付いたのだろう。
 医師と女性の表情が、段々笑顔から困惑へと変わっていった。

 そして…。


なぁ……ここは……どこだ?


 必死の思いで紡がれたその言葉に、二人の表情が強張る。

「あ、あの…冗談よね…?」

 引き攣った顔の女性を制するように、医師が顔を近づけた。
「ここはニブルヘイムだよ、分かるかい?」
「………」
「キミ…自分の名前と歳、言ってみて?」
「………」


 口を開こうとして……そのまま黙り込んだ青年に二人は言葉を無くして立ち竦んだ。

 驚愕。

 その表現がこれほど似合う表情はないだろう。
 しかし、誰よりも彼自身が一番驚いている。


 何という事か…。
 自分の事なのになに一つ分からない。

 ……記憶がまっさらになっていたのだ。





「クロード、こんにちは」

 目が覚めてから三日目。
 ナルシュスと名乗った女性は、毎日のように病室を訪れた。
 明るい笑顔とその声は、この病室には酷く不似合いなような…そんな気がしている。

 クロード…とは、彼女が一時的に青年につけた名前。
 本当の名前ではないらしい。

『だって、本当の名前を言っちゃったら……多分びっくりするだろうから…』

 仮の名前をつけた事を訊ねたとき、彼女は困ったように笑った。
 だから、それ以上は…聞かなかった。
 聞いてはいけない気がしたし、名前などどうでもいいという気分だった。
 名前よりも…自分の事よりも……。
 なによりも…。

 もっと……もっと、忘れてはいけない事を忘れている……そんなモヤモヤした不快感がずっと纏わり付いていて気分が悪かった。


『早く…』


 わけの分からない焦燥感が付いて回る。
 イライラする。
 腹立たしい。
 一体何を焦っているのか。
 なにを急がないといけないのか…。
 それが分からなくて…焦燥感に拍車が掛かる。


「まぁた、そうやって眉間にシワ」

 細い指を伸ばし、青年の額に無遠慮に触れる。
 その手が温かくて、苛立つ気持ちがほんの少し和らいだ。

「大丈夫!絶対に思い出すから。きっと、そのうちポンッと思い出すわ」
 明るくそう言うナルシュスに、青年……クロードは溜め息を吐いた。
「だと良いんだけど…」
 思わず愚痴のようなぼやきが口から零れる。
 ナルシュスは片眉を軽く上げ、呆れたように笑った。
「まったく、大の男がイジイジしないの!」
 肩を軽くはたかれ、思わず「イテ!」と顔を顰めると、
「ふふ、これくらい、何ともないでしょ?」
 これまた笑い飛ばされた。

 彼女のこの明るさが…妙に懐かしい。
 自分が無くしてしまった記憶の中にも彼女は入っているのだろうか?
 だから…彼女は本当の自分の名前を教えてくれないのか…?


 自力で思い出して欲しいから……?


「今は何を考えてたの?」
「え…?」

 ふいに彼女が顔を近づけ、目を覗き込んできた。
 茶色い瞳に、驚いたような顔をしている自分がなんとも間抜けに映っている。

「いや…別に…」
 そんな自分の姿を見ていたくなくて彼女から顔を逸らした。
 しかし、繊手が両頬を包み、やや強引に向き直される。
「ウソばっかり!そんなバレバレのウソ吐かれて、ほっとけるとでも思ってるの?」
 ちょっと睨むように下から見上げるナルシュスに、不覚にもドキッとしてしまう。

 途端、降って沸いたような……罪悪感。


 何だ……今の……。


 込上げてくる罪悪感に戸惑う。
 酷く…大切なものを裏切っているような…そんな気がする。
 この気持ちはどこから来る?
 一体なんだっていうんだ!?


「クロード?」

 黙りこんで顔を顰める青年に、ナルシュスが心配そうにさらに顔を近づける。
 青年は顔を背けると、
「悪い…ちょっと疲れたから……」
 そう言うなり、シーツの中に潜り込んだ。
「あ、ごめんね。そうよね、うん。あんだけ大怪我したばっかりだもん。まだまだ本調子じゃなくて当たり前なのに…本当にごめんね?」
 慌てて謝る彼女に、青年の胸がギリギリと締め付けられる。
 先ほど感じた『意味不明な罪悪感』とは別で、今は『ナルシュス』への罪悪感。
 こんな風にいつも素っ気無く接してしまうというのに、彼女は意識を取り戻してから毎日必ず訪れてくれる。
 他に、自分を訪ねてきてくれる人は誰もいないのに…。
 そのことから、自分はここ……ニブルヘイムの人間ではないのだと推測をしていたが…。

 だが…。

 何か引っかかる。
『ニブルヘイム』という言葉に、どうしようもない『何か』を感じる…。
 胸が掻き毟られるような…。
 懐かしくて泣きたくなるような…。
 そうして…。
 悲しくて……苦しくて……大事な大事な『もの』を奪われた……そんな感触が生々しく身体に染み付いている……気がする。

 何故…?

 自分にとって、この『ニブルヘイム』は一体『何に当たる』というのだろう…?
 そして、こうして毎日訊ねてきては励ましてくれる…女性。


 彼女と自分に一体どんな関わりがあったのか、彼女は頑として語ろうとはしなかった。
 医師に…看護師にも訊ねた。
 しかし、彼女に止められているのか、
『自分で思い出すほうが良い』
 その一点張り。

 そんな風に言われたら、イヤでも彼女と特別な関係にあったのでは!?と思ってしまう。
 意識…してしまう…。
 意識してしまうのに…。
 意識すればするほど、胸の奥からジワジワと油が染み出てくるような罪悪感が滲み出てくるのだ。
 それは、ナルシュスに対してではなくて……『他の誰か』。

 そう、その『誰か』。

 イライラの原因がその『誰か』にあると最近では分かるようになってきた。
 正確にはその『誰か』を思い出せない自分にイライラしている。

 医師にその事を話した際、
『そうか…。きっとそれは、記憶が戻る前兆かもしれないね』
 そう言ってくれた。
 丁度それが今朝のこと。
 ナルシュスが来る…ほんの少し前。
 だが…。
 記憶が戻る前兆…。
 そう言ってくれた時に医師が見せた複雑な表情に、不安とも不満とも言いがたい感情を抱いた。


 自分の記憶が戻る事を、この人達は喜んでいない。


 漠然とだが…そう思う。
 何故なら、自分の本当の名前を教えてくれないばかりか、持ち物さえも返してもらえていないからだ。

『まさか、人質……とか…?』

 一瞬そうも思ったが、それにしては対応が丁寧…というか丁重過ぎる。
 実際、今いる病室は特別病室なのだろう。
 病室にしては広すぎる空間、不必要ではないか?と思われる応接セット。
 毎日取り替えられる綺麗な花々。
 そして…。

「あ、昼食が来たみたいね」

 ナルシュスが腰を上げ、ドアを開ける気配がシーツ越しに伝わった。
 程なくしてドアが開けられ、彼女が戻って来た足音がする。

 モゾモゾとシーツから顔を出すと、満面の笑みで、
「ほら、すっごく美味しそう♪」
 おどけたように笑ってトレイを差し出した。

 彼女が手に持ってきたものは、病院食としてはどうか!?と思われるような豪勢なものばかり。
 勿論、食べやすいように…弱った身体の負担にならないように柔らかく、じっくりと煮込まれたものがメインとなってはいるが、このご時勢には贅沢すぎる材料が使われている。
 いや、実際、ここまで煮込まれていては元々の食材が何かは分からないが、一口食べたらイヤでも分かる。
 しかし、『美味い』と感じた事はない……一度も。

「はい、口開けて」

 問答無用でシーツを捲られ、ベッドの上肢部分をギャッジアップされる。
 本当は…『ここでの食事』は何一つ食べたいという気持ちになれない。
 もっと……『違うもの』が食べたいのだ。
 こんなに豪華なものではなくて…。
 温もりをくれる『あったかい物』が…。

 だがしかし、自分自身でも良く分からない思いを口にする事など出来るはずもなく、ズイッと差し出されたスプーンを恨めしげに見る。

「…自分で食べられる」

 素っ気無く言ったものの、彼女が聞き入れてくれるとはこれっぽっちも期待していなかった。
 その予想通り、
「もう!そんな事ばっかり言って。昨日もそう言うから自分でしてみたら見事にこぼしちゃったじゃない!」
 ぷぅっ!と頬を膨らませる。
 そんなナルシュスに思わず頬が緩んだ。
 そして、すぐに感じる『懐かしさ』とも『違和感』ともとれる相反する気持ち。

 胸に一滴…また一滴と溜まっていく……『悔恨の念』と『思慕の情』。

 一体誰に対して……。
 一体何に対して……。

 それらの相反する気持ちが溜まっていくのか。
 湧き出てくるのか。

 自分の事なのにまったく分からない。


 ……気持ち悪い……。


「クロード?」
 明るかった彼女の表情が、自分が黙り込んだ為に曇る。
 そのことに胸が痛み、「なんでもない」とお決まりの台詞を口にし、彼女への謝罪の意味を込めて大人しく口を開けた。
 そんな自分にパッと顔を輝かせ、嬉しそうに食事を口に運んでくれる彼女に、心が温かくなる。

 こうなってしまったら、あとは彼女の思うがまま。
 残すなどという事を許されるはずも無く、味気ない食事を胃に押し込み、黙々と食事を続ける事となる。
 彼女一人が明るく自分に話しかけながら…。


 ……帰りたい……。


 明るく話しかけてくれるナルシュスに申し訳なく思いながら、その気持ちを抑える事は出来なかった。

 昼食後、医師と看護師が病室を訪れ、血圧や検温、その他、傷の具合など諸々の状態を見たり、質問をしてきた。
 意識が戻ってから三日間、同じ事の繰り返し。
 質問の内容は、
「気分が悪くないか?」
「頭痛はしないか?」
「なにか夢は見なかったか?」
「思い出しそうな兆候は他にないか?」
 といったもの。

 そして今日もクロードは目を伏せて首を振る。
 何か思い出しそうな兆候が他にもあったらどんなにか幸せか…。

 勿論、こんなにも良くしてくれているのだからこれ以上の事を望むのは罰当たりなのかもしれない。
 しかし……。

 どんなに薄汚れた病院でも良い。
『ここ』ではない『どこか』へ『帰りたい』のだ。


 …違う……。
 そうじゃない。

『ここ』がイヤなんじゃない。
『傍にいる人』が『傍にいて欲しい人』でないことがイヤなんだ。

 その事実に気付いたのは、医師が病室を出て行った直後。
 目が覚めてからの三日間で初めて気付いた『自分の確かな気持ち』。

 自分には…『大切な人』がいたんだ。
 そして、それは『ここ』にいる人達ではない。
 ということは…。
 毎日毎日、病室を訪れ、励まし、看病してくれている彼女も『違う』ことになる。

 その事実を口にする勇気は……青年には無かった。
 言ってしまった後、『ここ』の人達の態度が豹変する可能性が頭をよぎったのだ。
 自分はまだ動けない。
 もしも危害を加えようとされたら、今度こそ命はないだろう。
 何が何でも…生きて『帰りたい』のだ。

 それに。

 理由ははっきり分からないが、それでも明るく励まし、甲斐甲斐しく看病してくれるナルシュスに申し訳ない。


 ……ごめん……。


 青年は紺碧の瞳を閉じ、失ってしまった記憶の中にいるはずの『大切な人』に胸の中で謝った。


 意識を失っていた期間が四日。
 そして、意識を取り戻して三日。
 ザッと計算しただけでも一週間は『ニブルヘイム』にいることになる。


 早く……帰らなくては……。


 その思いが益々青年の胸の中で強くなる。

 意識が戻って三日目。
 その日が……もうすぐ終ろうとしていた。




 あとがき。

 はい、メッチャ暗いお話しです。
 ありがちネタ、『記憶喪失』です。
 長編予定です。
 というわけで(なにが?)、こちらは不定期更新になる予定です。
 最後まで書けるよう…頑張ります!