ここ数ヶ月、ずっと胸の奥底に鉛のようなものがズシン…とあって、自分で身動きが取れないでいる。
 それだけでなく、起きているときの彼女はいつも何でもないように振舞っているから、
『どうかしたのか?』
 と、聞くことが出来ない。

 いや………、違う。

 聞けないのは、怖いから…。
 どうかしたかと問うたその答えがもしも、俺を拒絶する言葉だったとしたら?

 とてもじゃないが、平然と生きていける自信なんかこれっぽっちもない。
 一度は自分で離れたくせに、再び手にしてしまったら二度と、あの時には戻れない。
 どうやって俺は、彼女や子供たちから離れられたんだろう?
 思い出せないし、思い出したくない。
 だから…、俺はずっとここから動けない。
 でも…。

 このままだと確実にティファを失ってしまうことだけは分かるから、今日も恐怖がじわり、と脂がにじみ出るように胸の奥底から心を犯す。






恐怖との対峙(前編)







「………あ」

 今日も、腕の中でティファはそう呟いて目を覚ました。
 一切の感情が欠落したその声を聞くようになってどれくらいになる?
 恐らく、1ヶ月にはなると思う。
 それだけでなく彼女はこんなに至近距離にある俺に全く気づいていない。
 抱きしめてるのに。
 見つめているのに。
 俺が声をかけるまで、ティファの焦点は俺に合わない。
 ずっと声をかけないでいたら、そのうちティファは自分から俺が見ていることに気づいてくれたのかもしれない。
 だけど、その賭けをするには最近の彼女はあまりにも怖すぎた。
 眠っているときは魘されているわけでもなく、ゆったりと眠りに身を任せていると言うのに、こうしてまぶたを開けてみると、ティファはまるで人形のようだ…。

 しゃべる人形。

 問われれば答え、周りの空気を読んで笑う人形。
 そこに彼女の本当の心はない。

 あまりにも酷い例え方だと自分でも分かってる。
 分かってるんだが、他になんと表現したらいいのか分からない。


 彼女が分からない…。


「起きたのか?」


 彼女の目に自分が映らないことに耐え切れず、結局今日もまた、声をかけてしまった。
 薄茶色の瞳が揺らめいて、軽く見開かれたかと思うとようやっと俺へ焦点が合う。
 そう…ようやっと…。

「うん、おはよう」
「……おはよう…」

 そっと顔を寄せるとティファは拒むこともなく軽く唇を合わせることを許してくれた。
 でも…なんでこんなに虚しいんだ?
 髪を撫でても、そっと抱き寄せてもティファは嫌がらずに身をゆだねてくれる。
 だけど、違うんだよティファ。
 ティファの心が全然見えないんだ。
 なあ、なに考えてる?
 俺はまた、なにかしてしまったのか?ティファが心を隠してしまうほどのなにかを…。

 考えても何も思い浮かばない。
 思い当たることがなければ、対処のしようがないじゃないか。
 なぁ…、教えてくれないか?


「…どうかしたのか…?」
「ううん、なんでもないよ。どうして?」

 かなり勇気を振り絞った問いかけは、あっさりと拒まれてしまった。
 …分かってた、『なんでもない』って返されること。
 だけど、それ以外にどう問いかけたら良いのか分からない。
 つくづく、口下手な自分に嫌気が差す。

「ティファ…最近…」
「うん?なに?」
「なんでもない」
「変なクラウド」

 変なクラウド…。
 違うだろ?俺が変なんじゃないだろ?
 おかしいのは……ティファだろ?
 なぁ、なに考えてる?
 なに思ってる?

 胸の中でいくつも問いかけの言葉が溢れてくるのに、結局それらを1つとして口に出来ないまま、彼女は俺の腕の中から出て行ってしまった。
 ドアの向こうに消えていくこの瞬間が嫌いだ。
 そのまま二度と手の届かないところへ消えてしまう錯覚に襲われてゾッとする。
 ……錯覚……なんだろうか…?
 本当に錯覚で済んでいるんだろうか?

 本当はまだゆっくり出来るだけの時間はあるのに、背中を追い立てられるような焦燥感に駆られ、俺は寝室を後にした。
 階下へ真っ直ぐ向かうと、ティファとマリンが楽しそうに話をしている声が聞こえ、少しだけホッとする。
 最近、ティファがおかしいことを子供たちもちゃんと気づき、心配していた。
 だから、こうやって楽しそうに笑っている声は少しの安らぎを与えてくれる。
 …勿論、一時しのぎにしかならないんだけどな。
 本当に安心したいなら、ティファの抱えている問題を一緒に解決するしか方法はない。
 そして、その方法を俺は知らない…。

 カウンターには顔を出さず、とりあえずフェンリルを停めている店の奥で仕度を整える。
 マリンが傍にいてくれる間に仕事に行く準備をしておかないと…。

 そう思ってしまうことが悲しい…。
 誰かがティファの傍にいてくれないと不安で仕方なく思うだなんて、想像したこともなかった。
 本音を言えば、仕事なんか行ってられる心境じゃない。
 全部放り投げて、子供たちはバレットにでも預けて、そして…。
 そして、ティファと2人、無人島にでも行ってどこにも逃げられないようにして…、彼女を抱きしめて離したくない。
 今、しないとティファが俺からずっと離れてしまいそうで…怖くて仕方ない。
 まだ残っているなけなしの理性でその誘惑を振り払ってるけど、具体的にシエラ号で運んでもらって…とか気がついたら考えてたりしてる。

 もうそろそろヤバイかもしれない…。

 そんなバカなことを思いながら、重い足を引きずるように店に戻る。
 そっと店内を覗いてみて……ギョッとした。
 ティファはカウンターの中でいつも通り、淡々と朝食の準備をしている。
 傍らにはマリン。
 マリンの眉が八の字になっていることにティファは全く気づいていない。
 心ここにあらず、という状態にもほどがある。
 手はテキパキと動いているのに、まるで機械のように感情がない。

「あ、クラウド。おはよう」

 俺に気づいてマリンがパッと明るい顔をした。
 ホッとする間もなく、ティファの様子を伺ってしまう。
 どこか薄ぼんやりとした表情。
 じっとりと背中がイヤな汗で湿る…。
 だが、俺の不安をマリンに悟らせるわけにも、ましてや今のティファに感じさせるわけにもいかない。
 こういうとき、無愛想・無表情な体質で本当に良かったと思う。
 何食わぬ顔を装いながら、
「おはようマリン。デンゼルはどうした?」
 駆け寄ったマリンを抱き上げることが出来る。
 マリンを見ながら、神経はティファへ向かう。
 俺とマリンを見つめているティファからは何も感じることが出来ない。

 と…。

 スーッ……と、ティファから冷たいものを感じたのは気のせいか?
 深く考える前に、ついティファを見てしまった。
 見て…後悔した。
 死んだ魚のような目。
 手の指先から体温が消えていくような恐怖に襲われる。

 ティファ?なんでそんな目をしてる?
 なぁ、なにを思ってる?

 居た堪れなくて、声をかけようとした矢先、彼女の表情が一変した。
『笑顔』をインプットされた機械がスイッチを入れられたから笑ったような『笑顔』。
 ゾッとする。

「なぁに?」

 彼女が纏っている重いオーラに似合わない明るい声。
 なに?じゃないだろ?
 なんだよ、どうしたんだ?
 本当は聞きたい。
 言いたくない、と言われたとしても、白状するまで絶対に解放しない!ってくらい、ティファの抱えている『闇』をさらけ出して欲しい。
 でも…。


 お前にそんな権利があるとでも?


 胸の鉛がそう嘲った声がする。
 …あぁ、そうだよな。
 一度は全て放り出して、ティファ1人に負わせてしまった俺に、彼女の思いを聞き出す権利なんか…。


「……いや、なんでもない」
 ようやっと搾り出した台詞に、ティファは奇妙な笑い方をした。
 きっと、ティファ自身気づいていない笑い顔…。
 抱き上げたままだったマリンから、小さい震えが伝わってくる。

 心が軋む音がした。

 なぁティファ。
 ちゃんと見てくれないか、俺たちを。
 デンゼルもマリンも、ティファの変化に不安を感じながらそれでも一生懸命小さい身体で踏ん張ってるんだ。
 ティファはそれに気づいてないだろ?
 デンゼルもマリンも、ティファが大好きなんだぞ?
 大好きだから、一生懸命見てるんだぞ?
 なのに、なんで見てくれないんだ、ティファ。


 グルグルと胸の中を回るその問いと不安に今日も恐怖がムクリ…と大きくなった…。


 *


「こういう時に限って…」

 苛立ちながらフェンリルを押す。
 もう深夜を回った時刻にようやく見えてきた我が家。
 気持ちははやるのに、家に帰るのがこんなにも気が重い。
 もし…。
 もしも帰って部屋が空っぽだったら?
 どこを探してもいなかったら?

 ゾッとする。

 思わず足が止まりそうになるのも1回や2回じゃないのが情けない。

(大丈夫、大丈夫)

 言い聞かせるように繰り返す。
 今日、デンゼルとマリンに電話をしたときもティファに変わりはないと言っていた。

『なぁ、クラウド。ティファ、疲れてるのかな…』
『なんだかちょっと…変すぎるよね…』

 不安でたまらない…というところまで子供たちは感じていないようだが、それでもまだ小さい2人が味わうような思いには相応しくない。
 早く、前のティファを取り戻したい。
 でも…。

『クラウド、1回腹割って話し合え。俺もシエラと気まずくなったことくらい、何回もあるけどよ。その解決法は腹割って話し合うのが一番だ』

 仲間たちにティファが何か愚痴なり不満なりこぼしていないか聞いたとき、シドがそう言ってくれたことを思い出す。
 そう…なんだよな。
 俺たちに必要なのは腹を割って話し合うこと。
 だけど、どうやったら良いんだ?
 今のティファに、俺の声が届くとは思えないんだ。
 なぁ…どうしたら良い?

 なぁ……ティファ。


 フェンリルを倉庫に置いて、そっと階段を上る。
 いつもなら子供部屋を覗いて2人の寝顔を見るんだけど、ここ最近はすっ飛ばしていた。
 早く。
 早く、彼女がいることを確認したい。
 気持ちははやるのに足が重い。
 ゆっくり、足音を極力殺して階段を上る。
 そして…、この瞬間が一番緊張する。
 ドアノブを握り締めて息を吸い……吐く。
 ゆっくり押し開く。

「お帰りなさい」

 窺うように入ると、彼女の声が出迎えてくれた。
 窓からかすかに差し込んでくる月明かりを背景にタンスの前に立っているティファの顔は見えない。
 見えなかったお陰なのかは分からないが、久しぶりに『ティファ』の声を聞けた気がしてちょっと……、いや、かなり驚いた。
 知らず、全身に入りまくっていた力が抜けていく…。

「ただいま、起きてたのか…」
「うん、お帰りなさい。お疲れ様」

 優しい声。
 ゆったりした足取り、伸ばされた手。
 彼女の手は俺ではなく、荷物へと伸ばされていたんだろうが、それでも不安でいっぱいだった俺にとっては『俺に伸ばしてくれた手』に感じられた。
 躊躇うことなく彼女の手を握り、思い切り抱きしめる。

 あぁ…良かった。
 夢でも幻想でもなく、ちゃんと『いる』。
 ティファの温もりも、香りもちゃんとここに『ある』。
 ないのは……心だけ。
 一番大切な彼女の心が隠れてしまってここに『ない』。

「クラウド?」

 少し戸惑ったような声。
 こうして抱きしめたり、触れたりすることは、ティファにとって戸惑ったり、困ったりしてしまうこと…なんだな。

「どうかしたの?」

 どうかしたのは…ティファだろ?
 あと少しでその台詞を口にしてしまいそうになって、必死の思いで飲み込んだ。

「…いや…なんでもない…」

 途端、ティファの身体に力が入った。
 彼女の微かな変化にハッとする。
 今のは……失敗だったのかもしれない。
 そう、今、ちゃんと言えば解決の糸口を手に出来たんじゃないのか?
 ティファに三行半を突きつけられるかもしれないとビクビクするばっかりで、もしかして俺はこうやってチャンスをことごとく不意にしてたんじゃ…。

 でも…。

「ごめんなティファ。心配かけて」

 そっと彼女の肩を掴んでゆっくり離す。
 自然、頬が緩んだのは可能性を感じたからだ。
 彼女ももしかしたら、俺に『どうしたら良い?』と思ってくれているのかもしれない…と。
 もしも、もしもそれが俺の願望だけではなかったら、まだチャンスはある。
 今、目の前で微笑んでくれている彼女と話し合うことが出来るかもしれない。
 いや、『かもしれない』じゃダメだ。
 話し合うんだ、今日。

「お腹減ったでしょ?」
「あぁ、かなり」
「軽く何か食べて帰らなかったの?」
「早く帰りたかったからな」
「そう。じゃあ、夕飯の用意してるから、その間に汗流しちゃって?」
「そうさせてもらう。……ティファ」
「ん?」
「すまない…」
「ふふ、変なクラウド」

 ティファに甘えて浴室に向かった足は、帰る直前とは打って変わってとても軽かった。
 久しぶりに彼女と『会話』をした…と思った。
 大丈夫、大丈夫。
 まだ俺たちは大丈夫。
 壊れていない…壊れていない。

 そう…大丈夫だと思ったんだ。
 だけど。
 洗面所に映った自分の嬉しそうな顔に、我ながら現金だなぁ…と呆れ半分、テレ半分でため息をついたときにその違和感に気づいた。
 何かが違う。
 なにが?どこが?
 浴室へ向かう足が止まり、目の前にあるはずの違和感の正体を探す。
 探して……背筋が凍りついた。

 あるはずの物が無くなっている。

 化粧ポーチ、歯ブラシ、ブラシ。
 ティファの物がない。

 息の吸い方を忘れてしまったかのように、喉の奥がヒューヒューと鳴る。
 膝から力が抜けてしまいそうになって壁に手をついて…。

 猛然と寝室に戻った。
 俺が帰ったとき、ティファはどうしてた?
 部屋の中でただボーっと立っていたように見えた。
 なんで立っていた?
 以前の彼女なら寝室で軽く横になっているか、椅子に座って読書をしているか、1階の店舗部分で俺の夕食を準備してくれているか…だったのに。

 寝室に舞い戻ると、そのままティファが立っていた場所へ向かう。
 タンスを勢い良くあけると、迷うことなく一番上の段を見た。
 普段は使わないので押し込められているはずのナップサックがあるはずだ、ティファが動かしていなければ…。
 ナップサックは変わらずその場にあったものの、掴んで引っ張ると何も入っていないはずなのにズシリ…と重かった。
 それだけで、もう心臓がおかしくなるくらいバクバクと胸を叩くのに中を覗いて凍りついた。
 彼女の私物で溢れている……。
 一気に力が抜けて床に膝を着くと、下の段には化粧ポーチ類が服の陰に隠れていることに気づいた。
 その意味を知って、愕然とした。
 俺が帰ってきたから、慌てて放り込んだんだ。
 ナップサックに入れる間もないくらいのタイミングで俺は帰宅したんだ。

 くそっ!
 くそっ、くそっ、くそっ!!

 俺はなんて大バカ野郎だ!
 ティファがおかしいことに気づいてたくせに、今夜の彼女の違和感になんで気づかない!?


『クラウド?』
『どうかしたの?』


 たった今、彼女がくれた言葉を思い出す。
 もしも、あれが彼女の与えてくれたラストチャンスだったら!?
 何を言っても、もう何も届かなかったら…!?
 なぁ…ティファ!