― クラウド、ほらすごく綺麗な満月だよ ― 花の香りに包まれて笑ってくれたあの日を今でも鮮明に覚えている。 人魚姫の恋 番外編 第二王子の恋 1夜中にふと目を覚ましたバレンタイン王国の第二王子であるクラウドはため息をついた。 こんな時間に目を覚ましてしまった原因は、たった今見ていた夢のせいだ。 見たくもない夢だった。 とっとと忘却の彼方に追いやってしまいたい過去。 目を閉じようとしたものの、昂ぶった気持ちを抱えたままではどうせ眠れない。 クラウドは豪華な寝台からこれまた豪華な絨毯に足を下ろした。 窓に近寄りそっと空を見上げる。 虚空の空に浮かぶ満月。 見事な金色の真円に暫し見惚れる。 漣(さざなみ)のようにざわついていた心へ温もりが広がったのは、まだ幼い頃の思い出のお陰だ。 「…元気かな……ティファ」 ポツリ…とこぼれた言葉に自分で驚いて、顔を赤らめる。 そっと背後を窺って、部屋に誰もいないことを確認してホッと胸を撫で下ろし、そうして苦笑した。 第二王子である部屋に、自分以外の誰がいるというのか。 分かりきっていることなのに、それでも咄嗟に誰かに聞かれていないかと焦ってしまうほど、クラウドにとって『ティファ』とは大切な人の名前だった。 再び空を見上げたクラウドは、ポッカリと浮いて夜の暗闇を照らしている月を眺めながら今では遠い昔になってしまった日々を思い出した…。 それは、どこにでも転がっている日常だった。 明るく気さくな父がいて、元気で優しい母がいて。 そんな両親に愛されて育ててもらったくせに気がついたら捻くれ者で乱暴者とレッテルが貼られてた自分がいて。 礼節を重んじる両親にはよくお小言をもらったがそれでもやっぱり幸せな日々だった。 その幸せな日常が、実はとても脆い現実だったと知ったのは両親が不慮の事故で亡くなってしまったとき。 クラウドはまだ10歳だった。 たまたま風邪を引いていたため、両親と一緒に出かけられなかった。 だからこそ生き延びたという皮肉な現実。 すんなりと受け入れられないまま、村人達の手によって両親は葬式をあげてもらい、呆然自失状態のクラウドは母方の伯母に引き取られた。 その伯母の名前はスカーレット。 母親と同じ金髪以外、似ているところは何1つない伯母にクラウドは反発ばかりした。 幼い子供を少しも思いやることのなかった伯母は、クラウドが手のかかる子供だと分かってすぐ、あっさりと放り出した。 放り出した先が生まれ故郷だったことは不幸中の幸いだ。 『もう、こんなクソガキの面倒なんか見てらんないのよねぇ〜。これでなんとか養って〜』 馬車からポ〜〜ン…と物のようにクラウドを放り出し、ジャラジャラと金がつまった袋を放り出してスカーレットに村人達は唖然としたものだ。 誰かが村の代表でスカーレットにクラウドを引き取るように手紙を書いたとかいう話を耳にしたものの、すっかりささくれだったクラウド少年はまだ残っていた自分の家に引きこもって一歩も外に出ない日々を送った。 そんなクラウドの世話をしたのが、幼馴染の少女の両親。 捻くれ者のクラウドを唯一気にかけてくれた少女を子に持つ彼らは、唯一と言われていた親戚からも見放されたクラウドに同情した。 そのお陰でクラウドは『あの日』まで生き延びることが出来たといっても過言ではない。 元々社交的ではないクラウドは村に戻ってからますます心を頑なにしていた。 そんなクラウドのもとへ、幼馴染の少女は足しげく通い、凍った心をゆっくりゆっくり溶かしてくれた。 ある日。 少女が夕飯を一緒にした後、外へと連れ出した。 村の中にある小高い丘の上に連れてきて、 「よいしょ〜」 地面にそのまま腰を下ろしたかと思うと、そのままゴロン…と仰向けに寝転がった。 そしてニッコリ笑って、 「ほら、クラウドも〜」 と誘って空を見上げた。 少女に倣って隣で横になると、飛び込んできたのはまん丸の月。 ぽっかりと浮かぶその月に胸がスーッと溶け込んでいくような、何とも言えない解放感を感じた。 「ね〜、綺麗だよねぇ」 「……あぁ」 ニコニコ笑っている少女に、なんとも無愛想な返事しか出来なかった。 それ以上、なにか言えば胸の中にこみ上げているもののせいで、泣いてしまいそうだったのだ。 散々無様な姿を見せてきたので、これ以上この少女にみっともない姿を見せたくなかった。 「ねぇ、クラウド。きっと良いことあるよ」 「……うん」 「みんな、クラウドのこと心配してるんだよ」 「……うん」 「みんな…一緒にいてくれるよ」 「………」 「私もいるよ」 「………」 ゆっくりゆっくり、そう言ってくれた彼女の言葉を、今でもクラウドは覚えている。 そのとき感じていた甘酸っぱい思いも全部。 それからすぐだった。 父の姉が迎えに来てくれたのは。 まさか、一国の主に嫁いだ伯母が迎えにきてくれるとは誰も予想だにしなかった。 ましてや伯母は隣国に嫁いでいたので余計にその可能性はないと誰もが思っていた。 だが、やって来たルクレツィア王妃は貧しい村を萎縮させまいとした気遣いから、質素な馬車、質素な服といういでたちだった。 クラウドを優しく抱きしめ、ビックリ仰天している村人達1人1人に頭を下げ、弟夫婦の葬式云々全てに感謝をした。 そして、クラウドを隣国バレンタイン王国へ引き取っていったのだ。 『クラウド、元気でね!!』 沢山の村人達が見送ってくれた中、クラウドの視線は涙をいっぱいに溜めて一生懸命笑ってくれた少女のみに注がれていた。 本当はずっと村の住人として生きていたかった。 少女といたかった。 だが、クラウドには分かってもいた。 まだ幼い自分は誰かが養ってくれないと生きていけないのだ…と。 そして、貧しい村では誰もクラウドをこれ以上面倒みることが出来ないのだ…と。 皮肉にも、その現実を悟ることが出来たのはスカーレットに一時的とは言え、引き取られた結果なのだが…。 クラウドは、少女と共に満月を見上げた思い出を胸に、生まれ故郷の国を後にした。 だから、今でも月を見るとその当時のことを思い出す。 満月はクラウドにとってとても大切な思い出のカケラだった。 ゆっくりと深呼吸をして目を閉じる。 先ほど見た夢で波立っていた気持ちは随分凪いでいる。 月をゆっくりと見ることが出来たお陰、月を見て思い出の少女に心慰められたお陰…。 クラウドはそっと窓辺から離れるとベッドに潜り込んだ。 もう、あのイヤな夢…、伯母に引き取られたときの苦い思い出は見ないだろう。 「明日は……頑張らないといけないしな…」 誰ともなく呟いて目を閉じる。 諸外国の貴賓客をもてなさなくてはならないのだから、睡眠不足になんぞなっていられない。 「おやすみ…ティファ」 そっと呟くとクラウドはゆっくりと眠りに落ちていった。 * 「クラウド、大丈夫か?」 甲板でしゃがみ込んでいるクラウドに、黒髪・碧眼の青年が声をかけた。 笑いながら、クラウドの背を優しく撫でる。 「……ザックス…悪いけどやめてくれ。余計に気分が悪い…」 「お前、失礼だな。それに『兄上』だろ〜?まったく、船酔いしている可愛い弟を心配して介抱してやろうと言うこの優しい兄の心遣いを『やめてくれ』だなんて、失敬すぎるぞ?」 軽口を叩きながら青年、ザックスはため息をつきつつさすっている手を止めた。 その目はどこまでも穏やかで優しい。 船酔いをしている弟を心底心配している兄の顔だ。 そんなザックス王子を、諸外国の貴賓たち数名が甲板に続くドアの陰に隠れて熱い視線を送っていた。 「まぁ、ご覧になりまして?」 「ええ。なんて素敵な兄弟愛かしら」 「ザックス殿下はお優しくて、お強くて、それに気品もおありで素晴らしいお方」 「そうですわね。それに比べて第二王子のクラウド殿下は…ちょっとねぇ…」 「まぁ、ホホホ。船酔いをしてしまうだなんて、可愛いものじゃありませんか」 「フフフ、そうですわねえ。どちらにしてもバレンタイン王国はザックス殿下がおられますもの、安泰と言うものですわね」 「えぇ、今後も仲良くさせて頂くことに問題はありませんわね」 潮風がいくら吹いているから…と言っても、彼女達の声が両殿下に届くはずもない。 だが、ザックスはドアに背を向けるような位置に回り込むと、 「あんのババァどもめ」 爽やかな表情から一変、苦虫を噛み潰した顔になった。 「…アンタ、豹変しすぎ」 「クラウド、何を言う。これぞ『処世術』だ。ってか、アンタとはなんだ、アンタとは」 「イタ、痛い痛い!やめろ、毛根から毛が抜ける!」 「大丈夫だって。日頃から言ってるだろ?お前は髪が多いから多少抜けてもハゲないし、もしもハゲたとしても周りの部分の髪でごまかせる」 「そういう問題じゃないっていつも言ってるだろ!?」 「お?船酔い治ったか?」 「………うぅ……気持ち悪い…」 「………ダメか…」 少しじゃれたものの、あっという間に船酔いに負けてしまったクラウドに、ザックスは苦笑した。 そもそも乗り物に弱いクラウドが貴賓客の相手を『豪華客船』ですること自体が無謀なのだ。 しかし、今回の『ご招待』では何が何でもクラウドに頑張らせなければならなかった、それもこのバレンタイン国の名物とも言える『海』を舞台として。 クラウドは第二王子とは言え、正確には『ザックスの従兄弟』という位置づけになる。 王妃の弟の息子であるクラウドを引き取ってもう7年を超える。 しかし、いまだにクラウドは諸外国の人間にもバレているようにバレンタイン王家を受け入れられていない部分がある。 負い目…とでも言うべきか。 このままの状態が続くことはクラウド自身のためにもならないし、王国のためにもならない。 養父であるヴィンセント王が命じた今回の『おもてなし』は、クラウドにとって非常に重い責務を伴っていた。 だから、いくらザックスが素晴らしい第一王子ぶりを発揮してもあまり意味がない。 クラウドに頑張ってもらわなくては。 クラウドもそれが分かっているからこそ、ギリギリまで船酔いを押して頑張っていたのだが…。 「……もう…落ち着いた、戻る」 「お前、鏡見て見ろ、真っ白だぞ…」 「俺は色白なんだ」 「いや、それは色白って白じゃない、死人の色だ」 「失礼だな。大丈夫だって言ってるだろ」 「一歩歩いたら死んでしまいそうな顔色している奴が凄んでも怖くないね」 「……俺が戻らないとダメなんだろ?」 ふらふらしながら船の中に戻ろうとしたクラウドを引きとめようとして、最後の台詞でザックスはその手を治めた。 クラウドの言うとおり、彼が頑張らないといけないのだ、第二王子として。 自覚はあるのに空回りしてしまう弟を、ザックスはいつも心配していた。 だから今回も、本来なら王族としてはクラウド1人で臨むべきことにくっ付いて参上したのだ。 なにかあったら最低限のフォローをするために。 その気持ちをクラウドはちゃんと分かっている。 分かっていて、感謝しつつ同時に不甲斐なさを感じている。 なんとしても!という気概をもって臨んだのにこの体たらく。 風に当たってなんとか名誉挽回!と心配するザックスに背を向け船の中に戻ったものの、結局クラウドはろくな応対も出来ないまま自室に押し込められるはめとなってしまった…。 そして…。 「……なんだってこんな時に嵐……」 クラウドは胃がひっくり返るのではないかと思うくらい、激しい船酔いに襲われていた。 散々だった昼の延長線上のように、夜になって豪華客船が停泊している海域は酷い嵐に見舞われていた。 乗り物酔いをしない人間でもかなりキツイ状態になっている。 クラウドなどひとたまりもない。 酔い覚ましに甲板へ行こうものなら確実に荒波に放り出されて死んでしまうだろう。 サイアクだ…。 胸中で呟き揺れる寝台に横になるわけにもいかず、立ったり座ったりしながらひたすら襲ってくる嘔気と戦う。 そのとき、ドアの前を誰かが通り過ぎた気配を感じた。 王族であるクラウドとザックス、大臣に側近しかいないはずの並びを横切る人間。 船酔いでふらふらする頭に何かが引っかかった。 それは、昼間からずっと引っかかっていたものの延長線上のようなもので、気分が悪かろうが死にそうだろうがどうしても見過ごせない感覚だった。 ふらつく足と揺れる視界に喝を入れつつ揺れる廊下を進む。 気配はすぐそこ。 何かに惹かれるようにして辿り着いたのは荒れ狂う海を背景にした甲板。 目を開けていられないほどの雨と風に思わず腕で顔を庇いつつドアに手をついてバランスを取る。 そして、クラウドは見た。 こんなサイアク・最凶の天候で甲板に出ている愚か者がいたのだ。 それも彼にとって良く知る人物とそうでない人物の2人。 咄嗟に体が動いた。 船酔いなど一瞬にして吹き飛ぶ。 良く知った人物に、そうではない人物が背後から近づいている。 その不自然な動き方は、今日の昼間からずっと気になっていた『凶事を髣髴とさせるもの』だった。 「なにしてる!!」 揺れる甲板を自分の出来る精一杯で走ったクラウドの目の前で、その男はザックスを背後から突き飛ばした。 手すりを持ってなんとなしに恐々と荒波を覗いたその一瞬の隙を突いた凶行。 ザックスの身体が宙に浮く。 突き飛ばした男がクラウドに気づいて勢い良く振り向くがそれより一瞬早く、クラウドが駆け寄るには邪魔になるその男を突き飛ばし、ザックスへと身を乗り出した。 男も宙に浮く。 しかし、そんなことに気を裂く余裕など微塵もない。 一瞬の出来事。 ザックスの手を両手で掴めた奇跡。 そのまま自分の身体を軸にして引き寄せる。 遠心力の法則で自分とザックスの位置が入れ替わったことに、必死になっていたクラウドは気づかなかった。 ザックスの見開かれた紺碧の瞳とクラウドの瞳が交錯する。 「あ…」 「な…、クラウド!?」 フワッ…と浮いた感触とザックス恐怖に強張った声が聞こえた気がしたが、その次の瞬間、クラウドは真っ逆さまに落下し、全身を海面に叩きつけられた。 「クラウドー!!」 従兄弟の叫び声が微かに聞こえた気がしたが、喉と口から入り込む海水にあっという間に呼吸困難になり、外へ意識を向けられなくなる。 嵐に荒れ狂う高い波に翻弄され、どちらが上か下なのか全く分からない。 目を開けていられないほどの潮の渦。 王族の服はあっという間に潮水を吸い込み、身体の自由を奪った。 (くそっ…こんなところで死ねないのに…!) ずっと、この国に引き取られてから抱えていた大切なモノがある。 いつか、それを実現したいと思っていたことが。 今はまだ、未熟すぎるからこそ言い出せない、行動に移せないこと…。 その夢を果たすためにも頑張ろうと思っていたのに…。 荒波に体温と体力、呼吸を奪われクラウドは意識を失った。 * ― 優しき者へ 神の祝福あらんことを 悲しむ者に 神の慰めあらんことを 命はすべて 神のいとし子 怒りを捨てて 手を取り歌おう ― 天使の歌声が聞こえる。 この歌は生前、母がよく歌ってくれた子守唄だった。 両親が死んでからは幼馴染の母親が代わりに歌ってくれた思い出の歌。 この歌を聴いて眠ると、両親の葬式を悪夢という形で見なくて済んだ。 ただ、この天使の声は幼馴染の母親よりもうんと若い。 なら…誰が歌っている? 自分のために歌ってくれているのだとなぜか分かる。 こんななんのとりえもない自分の傍にいて、優しく歌ってくれる人なんか、『彼女』以外ではいないはずだとクラウドは思った。 なら…。 今、こうして歌ってくれている人は…。 クラウドはその声に誘われるようにゆっくりと重い瞼を押し上げようとした。 しかし、思いのほか身体に力が入らない。 気分はもう悪くないのに、体の隅々にまで鉛を詰め込まれているかのような感覚。 歌声が突如止んだ。 そして、急速に温かな気配が離れていく。 クラウドは焦った。 行って欲しくなくて必死に目を開けようとする。 「……ファ…?」 思い通りにならない身体にもどかしさが声にすらならず、吐息となって出る。 そのとき。 「クラウド!!」 誰?と考えなくても分かる声と共に、思い切り抱きしめられたのが目を閉じててもよく分かった。 苦しいくらいの抱擁に気恥ずかしさが襲ってくる。 しかし、気持ち悪いとは思わなかった。 ザックスの震えがダイレクトに伝わってきたからだ。 クラウドは今更になって自分がどうしてこんなことになっているのか思い出した。 同時にホッとする。 いつもいつも、気にかけてくれているこの『兄』を助けられたのだ…と。 「バカ野郎!俺なんか庇って落ちてんじゃねぇよ!」 耳元で吐き出された震える声に、クラウドの胸が熱くなる。 ゆっくりと右腕を動かした。 ようやっと身体が動けるようになって安堵しながら、弱々しく兄の背を叩く。 「他に……言うことないのか?」 潮で痛めつけられた喉がヒリヒリとして、声は息の音しかしていないように聞こえる。 だが、ザックスには聞こえたようだ。 自分達を囲んでいる人たちのハッと息を呑む気配がする。 今度こそ…と、クラウドは顔をしかめながら瞼を押し上げた。 想像通り、そこにはくしゃくしゃの顔で喜びを表しているザックスの姿と、重臣達の安堵した顔があった。 海に投げ出された翌日の早朝、こうしてクラウドは夢の中で聞いた歌声の持ち主に未練を残しながら、兄によって城に連れ帰られた。 |