誰かの悲鳴が聞こえる。
 自分の周囲に人が集まる気配がする。
 全身を襲った激痛は当然のように頭部にまで及んでおり、目の前が真っ白にスパークするようだった。


 ― 大丈夫 ―


 そう言いたかった。
 自分の身体にすがり付いてくる小さな手を感じる。
 きっと、可愛いその顔をクシャクシャにして泣いているんだろう。


 ― 平気、これくらい ―


 そう言って笑って…。
 安心させてあげたいのに、身体が言うことをきかず、そのまま意識は真っ暗な闇に落ちていった。






ただ…アイシテル 1







 決して狭くはない廊下を、1人の青年が血相を変えて走っていた。
 長旅をしてきたかのように、彼の衣服は薄汚れ、金糸の髪はどこかくたびれていた。
 男性にしては端整なその顔にも煤けた跡があり、目の下には薄っすらとクマが出来ている。
 だが、それでも青年の瞳は爛々と光り、必死になって目的のその部屋を探していた。

 白い服を着た看護師や医師達がビックリし、慌てて道を開ける。
 青年の後姿に向かって、
「ここは病院ですよ!!」
 そう怒鳴るが、彼の足は全く止まることなくただひたすら最奥の部屋へと向けられてその速度を落とさなかった。

 青年のスピードは驚異的だった。
 彼がこの施設に到着してからものの1分と経たない間に目的の部屋へと辿り着いたのだから。
 青年……クラウド・ストライフは、走ってきた勢いをそのままに乱暴にドアを押し開いた。

 その紺碧の瞳に飛び込んできたのは、泣きじゃくっている子供達と、この施設の最高責任者である仲間。
 そして、彼の部下にあたる隻眼の女性と彼女の妹で、最近になって『家族』の1人となった少女。
 どの顔も、急にクラウドが飛び込んできたものだから驚きに目を見張っている。
 だが、クラウドにとってそれらの表情はどうでも良かった。

「「 クラウド!! 」」

 迷わず飛び込んできた子供達をしっかりと抱きしめながら、クラウドの視線はただ一点に注がれていた。

 頭部に包帯を巻き、腕には点滴のチューブ。
 彼女の美しさは大事故によってもいささかも損なわれてはおらず、茶色の瞳は真っ直ぐクラウドに注がれていた。


「ティファ…」


 ベッド上で身体を起こして自分を凝視している彼女に、クラウドは全身で安堵の溜め息を吐き出した。
 そのまま、子供達をそっと離して彼女に近づく…。

 いや、近づこうとして…。


「クラウド……、どうして……?」


 驚愕。


 ただそれだけに尽きる表情。
 クラウドがティファの緊急事態に仕事を途中で放り出して駆けつけたことを純粋に驚いている。
 そうとれた。
 だが…。


「どうしてって、ティファが事故に巻き込まれたってリーブから連絡を受けたんだ。本当に心配したんだぞ」


 脱力したまま淡い笑みを浮かべたクラウドを、ティファはますますギョッとした顔をして身じろぎした。
 その様子に、クラウドは違和感を感じた。
 なにかがズレている。
 そんな感じ。


「ティファ?」


 クラウドの淡い笑みがスーッと消える。
 言い知れない不安が急速に胸を支配する。
 先ほどまで抱えていた恐怖。
 ティファを失ってしまうかもしれないという恐怖がスッポリと入れ替わったような感覚。
 クラウドは視界の端でリーブとシャルアが何か言いたそうにしているのを見た。
 シェルクが蒼白になって唇をギュッと引き結んでいる様も見た。
 声を殺し、泣いている子供達を背後に感じた。

 ティファが大事故に遭ったにも関わらず、こうして意識があり、一見元気そうに見えるのに喜ぶどころか泣いている子供達と、戸惑っている表情のリーブ達。

 イヤな予感が胸を圧迫し、クラウドは呼吸が苦しくなった。


「ティファ…あの…」
「クラウド……どうして来てくれたの……?」
「え……」
「私…の……ため……?」
「…ティファ?」


 腫れ物に触るかのように、何故か恐怖を滲ませながら言ったティファに、クラウドは目を見開いた。

「クラウドさん、あの…実はですね」

 リーブがなにやら説明をしようと口を開いたが、クラウドの耳にはどこか遠くに感じられてしっかりと聞き取ることが出来なかった。
 目の前で怯えたような目を向けるティファをクラウドは知らない。
 いや、知らないことはない。
 過去、彼女がこうして自分の心を窺うように、どこか怯えた眼差しを向けたことがあった。

 ジェノバ細胞に蝕まれ、記憶が途切れていたあの旅で…。
 そして、決して忘れてはいけない『過ち』である『家出』の直前。

 ティファはこのように、心の奥底で怯えながらクラウドを見た。
 クラウドもその眼差しに込められた『不安』『恐怖』を感じ取りながらも、どうしてやることも出来ず、結局二度もティファを悲しませてしまった。

 それぞれの過去には自身に原因があったので、当時、彼女が『不安』『恐怖』のない混ざった視線を向けてきたことは当然のことだと理解出来た。
 しかし、現在(いま)は何一つ思い至ることがない。

 仕事が立て込んでいて帰宅出来ない日は、ちゃんと夜、子供達が眠る時刻に電話を入れている。
 無断外泊するようなことはせず、ちゃんと予定をこまめに連絡している。
 それだけじゃなく、なるべく日帰りの仕事になるよう、調節もしているし、家事やセブンスヘブンの仕事も手伝うように頑張っている。
 それは『家族だから』という義務感からではなく、『家族だからこそ』という突き動かされた自然な気持ちから起こった自然な行動だ。
 ティファやデンゼル、マリンを心から愛しいと思っているからこその行動。
 今ではシェルクというもう1人の家族を迎えて尚一層、その気持ちは強く、そして心地良くクラウドを支配していた。
 そんなクラウドに、ティファも自然体で接し、平凡だが温かな幸せを感じてくれていた。

 なのに…。

「ティファ…どうしたんだ…?」

 聞かずにはいられない。
 彼女の怯えた表情の理由が分からない。
 鼓動がバクバクと耳のすぐ傍で鳴っているかのようだ。
 クラウドの肋骨を激しく叩いて心が不安を訴える。

 戸惑ったように…、怯えたように…、おずおずとティファは周囲に集まっている人達をさっと見渡し、最後にクラウドで視線を止めて口を開いた。
 茶色の瞳がユラユラと揺らめき、透明の雫が盛り上がって目のふちにたまる。


「クラウド…今までどこに行ってたの…?何度も…何度も電話したのに……一度も……一度も連絡くれなくて……心配したのはこっちの台詞よ……!」


 堪えきれず、一筋の涙を零したティファを前に、クラウドは自身の頭の中が真っ白になるのを感じた。


 *


「逆行性健忘症と言う言葉を聞いたことは?」

 白衣に身を包んだシャルアを前に、クラウドは小さく首を横に振った。
 ここは診察室。
 目の前のデスクに備え付けられている蛍光板には、ティファの脳のCT画像が何枚もはめ込まれている。
 クラウドが見てもさっぱりな代物だ。
 シャルアはクラウドの知識にたいして期待していなかったのだろう。
 クラウドが首を横に振ってもその表情を変えなかった。

「頭部に何らかのダメージを受けた際に、そのダメージを受ける前からの記憶が一部、あるいは全てを失ってしまうことを言う」
「……記憶が失われる……?」

 かすれた声しか出ない自分自身に対して、クラウドは苛立ったりしなかった。
 それだけ、彼の受けた衝撃は大きいと言える。
 シャルアも、そんな『英雄らしからぬ』クラウドに対して失望したり、呆れたりはしなかった。
 クラウドと同等くらいの衝撃を彼女も受けているのだ。

「ティファさんの場合、過去1年半ほどの記憶が失われている」
「1年半……」

 呆然と鸚鵡(おうむ)返しに繰り返す。

 1年半と言えば、まさにクラウドが家出をしていた頃に当たる。

『だからあの時!』

 病室に駆け込んだ時のティファの表情、言葉、仕草。
 ようやくクラウドは合点がいった。
 記憶を失っている今のティファにとって、クラウドが駆けつけてくれたということは、信じられないことなのだ。

 家出当時、クラウドはティファから何度も電話を受けていた。
 中には、デンゼルが星痕症候群で苦しみながらも、クラウドの帰りを心待ちにしている、という内容のメッセージもあった。
 それらをクラウドは全て留守番電話で聞き、それらの切々な訴えから目を背け、背を向けて独り勝手な生活へと沈み込んでいた。

「シェルクのことも…勿論忘れてる」

 シャルアの沈んだ声でクラウドはハッと顔を上げた。
 いつの間にか俯いていたらしい。
 シャルアは視線を床に落とし、心痛の色濃い表情をその端整な顔に刻み込んでいた。
 シェルクは姉の隣で静かに腰をかけている。
 だが、その表情はヴィンセントと初めて出会った時のように暗い。
 デンゼルとマリンは混乱しているティファの傍にいるため、診察室にはいなかった。
 しかし、子供達も大いに動揺しているため、保護者としてリーブも病室に残っている。
 非常に多忙なリーブに留守番のような役目を頼むことの心苦しさを僅かに感じながらも、クラウドは突きつけられた現実で頭が一杯でどうしたら良いのか分からなかった。

「とりあえず、3日ほど入院して精密検査をしたい。もしかしたら他にもどこか損傷があるかもしれないし…」

 力なくそう言ったシャルアに、クラウドは頷くことすら出来ず、放心したようにただ座っているだけだった。
 これからのことを考えるとパニックになりそうだった。
 いや、それ以上に…。


「ティファは……、治るのか……?」


 声が震える。
 クラウドは一縷の望みに縋るように、シャルアを見た。
 シェルクがピクッ…とその言葉に反応し、そっと姉を窺った。
 シャルアはその質問がくることを充分予想していたのだろう。
 医師であり、科学者である顔を崩すことなくクラウドを見つめ、口を開いた。


「分かりません」


 それはクラウドにとっても死刑宣告のようなものだ。
 シェルクの表情が変わらなかったのは、既にその診断を聞いて知っていたからなのかもしれない。
 だから、クラウド以上に冷静に姉の言葉を聞くことが出来たのかもしれない。
 だが、それが一体なんだと言うのか…?
 混乱しているクラウドと、とりあえずティファの状況を理解したシェルク。
 その差など、あってないに等しい。

 ティファは記憶を失った。
 いや、昔に戻ってしまったのだ。
 ティファの立場から見てみると、少し居眠りをして目が覚めた状態。
 彼女を取り巻いている彼女にとっての現在の環境は、星痕症候群という半ば絶望的な病に侵され、明日をも見えない状態の孤児を抱え…。
 まだ幼い少女を養い。
 セブンスヘブンを営む日々なのだ。
 一番傍にいて、一番頼りになって、そして一番支えて欲しい人物から拒絶をされている現実。

 絶望に叩き落されないよう、必死に歯を食いしばってそれでも残されてしまった子供達を懸命に、全身全霊で守るべく、己の弱い部分から必死に目を背けて我武者羅に頑張っている環境なのだ。

 普通に夜、ベッドで眠っていたはずなのに、目を覚ましたら見慣れない人間に囲まれ、あたかも昔からの知り合いのように『馴れ馴れしく』接してこられ…。
 苦しんでいるはずのデンゼルは、その額にあるべきはずの病を完治させて元気になっている。
 そして…。

 何度連絡を取ろうとしても冷たい沈黙しか返してくれなかったくせに、駆けつけてくれたクラウド。

 受け入れられるはずがない。
 ティファの目に宿っていたのは、ただひたすらクラウドがまた消えてしまうのではないか…という恐怖。
 いや、自分は騙されているのかもしれない…という恐怖。

 それしかない。

 目が覚めたらデンゼルの病気が治っていて、クラウドも『家族』としてティファを案じ、『家族以上の存在』として想ってくれている…。

 そんな夢物語を信じられるはずもないし、喜べるはずがない。
 言ってみれば、自分ひとりだけタイムスリップしてきたようなものだ。
 何も知らない世界に急に放り出されてしまったのと同じ。


「……今、連れて帰るわけには…」


 暫しの重く、圧迫する空気の中じっと沈黙していたクラウドがようやく口にしたその提案に、シャルアは難色を示した。

「クラウドさん、アンタの気持ちは良く分かるよ。もしかしたら、セブンスヘブンに戻ったら、何らかの治癒に関する兆しがあるかもしれない。でも…」

 これから言うべきことを彼にしっかりと頭に叩き込んでもらうため、言葉を切った。
 クラウドは恐る恐るではあるが、シャルアと目を合わせる。
 恐る恐るなのは、シャルアが怖いのではなく、彼女から突きつけられるであろう現実を…だ。
 そして、その予感は裏切られなかった。

「自分が慣れ親しんだ環境に戻ると、確かに回復したという例はある。だけど、それは本当にほんの一部分。ある人は一生失われた記憶を取り戻すことが出来ないのが現実なんだ」

 裏切って欲しい予感は裏切られることなく、クラウドの心を無遠慮に抉り取った。
 心からおびただしい出血を感じる。
 クラウドはそれでも、縋る気持ちを…、微かな希望を手放すだけの勇気はなかった。
 そんなクラウドの心境を知っているのか…そこまで理解できていないのか不明だが、シャルアはゆっくりとCTの写真を見た。

「彼女が今、自宅に戻ることで心が壊れてしまわないか…、それが心配だ…」

 クラウドは今度こそ、言葉が次げずに沈黙するしかなかった…。


 *


 3日後。
 退院許可が出たティファを連れて、クラウドは子供達とシェルクと共にティファと自宅に戻った。
 入院期間中に、子供達は出来る限りティファにこれまでのことを話して聞かせた。
 どうやって星痕症候群が完治したのか。
 どのような出来事があって、クラウドが強い自分を取り戻したのか。
 そして、シェルクを『家族』の一員として迎え入れたのか…。

 それらの話をした時、ティファは悲しそうな、今にも泣き出しそうな…、そして心底情けなさそうな顔をしてクラウドとシェルク、そして子供達に謝罪をした。
 当然、子供達とシェルクは、ティファの謝罪は間違っていると指摘し、気にしないように必死に言い含めようとしたが、クラウドはそうしなかった。
 彼女は今、過去に記憶が戻ってしまっている。
 そのこと自体が既にサイアクなのに、彼女の人生で最も辛いと言っても過言ではない時間に巻き戻ってしまったことが、言葉に表せられないくらい辛い。
 何しろ、ティファが今、苦しんでいるのはクラウドがまたいなくなるかもしれないという強い恐怖心からなのだから。
 そして、その恐怖を植えつけたのはクラウド本人。

 クラウドはようやく気がついた。
 自分がいかに、ティファの心を抉っていたのか。
 ティファがどんな気持ちで暮らしていたのか。
 幼い子供達を二人も抱えた生活。
 おまけに1人は原因不明の不治の病に侵され、いっこうに回復の兆しを見せてくれない少年を、それでも励ましながら看病する。
 それだけではなく、店をきりもりして必死になって働く。
 そうしなくては食べられない…。

 そんな過酷な環境に彼女を放り込んだことを自覚しながらも、弱かったクラウドは結局背を向けてしまった。
 ティファなら大丈夫だ、と自己弁護をしながら。

 なんという大罪。

 償っても償いきれないとは分かっていたが、ティファがあまりにも寛大だったから。
 いやそうじゃない…。
 自分が家に戻ってきたことを純粋に喜んで迎えてくれたからこそ、真剣に自分が犯した罪を真剣にここまで考えたことがなかったのだ、という事実にぶち当たってしまった。


 こんなにアイシテイルのに…。


 今は、その言葉すら彼女には届かないだろう。
 元々クラウドは口下手だ。
 自分の置かれている環境に戸惑い、混乱しているティファに『大丈夫。絶対にもう二度と離れたりしない』と伝えることが出来ない。
 言葉にしても信じてもらえないと確信しているからだ。

 ならどうする?
 このまま、おろおろして終わるのか?
 自然に彼女が記憶を自分の力で取り戻すのを待つのか…?


 否!


 今度こそ…。
 今度こそ、ティファへの償いを…。
 彼女に、自分にはティファがどうしても必要なただ一人の女性であると、伝えなくては。
 そして、その伝える手段は…?


 クラウドは、カウンターで昼食の準備をしているティファを見つめながら決意した。


 今度は自分がティファを守る番だ…と。