一寸先は闇。 そんな言葉があることは知っている。 だけど、それは身をもって体験しないと簡単に忘れてしまう言葉。 それをイヤと言うほど痛感する。 ただ…アイシテル 2ティファ・ロックハートは湯船に浸りながら胸の奥底から重い息を吐き出した。 退院してから既に2週間が過ぎている。 だが、未だに『失われた』と言われる記憶が戻る兆しはない。 ティファは退院してからの生活に全く馴染むことが出来ないでいた。 毎日必ず帰ってくるクラウド。 率先して家事を手伝ってくれる子供達。 そして……。 自分の頭の中には欠片ほども残っていない青い瞳をした少女の存在。 クラウドと同じ瞳だ。 元々寡黙な少女なのだ、ということは、デンゼルとマリン、クラウドとリーブから、それこそこの2週間で耳にたこが出来るくらい聞かされた。 だから、少女が無表情、無口にこの家にいるのは不自然なことではない……らしい。 だがしかし、今のティファにとって、彼女の存在は『異物』でしかなかった。 そのことを少女も充分自覚していたのだろう。 退院が決まった時、一緒にセブンスヘブンへ戻ることを躊躇っていた節がある。 しかし、その背を押したのは彼女の姉という隻眼の美女と、WRO局長を務めている仲間だった。 ティファの失われた記憶を呼び戻すためには、少女の存在がそのきっかけをもたらしてくれるかもしれない…という理由で…。 そして、その案をティファ以外の全員が賛成した。 そう…。 ティファ以外の全員が。 ―『良いでしょ……ティファ…?』― 恐る恐る見上げてきたマリン。 その隣で同じように縋るような目をしているデンゼル。 その目の上にあるはずべき病の跡は微塵もない……。 ―『勿論よ。良いに決まってるわ』― その言葉以外、ティファには選択肢として残されてはいなかった…。 縋るような目をした子供達に見つめられて、どの口が『否』と言えよう…? クラウドが何か言いたそうに口を開いたが、結局何も言わずに口を閉ざしたのには、気づかないフリをした。 クラウドはきっと、気がついていたんだろうと思う。 本当は…シェルクに来て欲しくない…と思ってしまったことを…。 だけど、そんなティファの気持ちに気づきながらも、結局は周りの意見を聞き入れてしまった。 その判断にティファは内心で落胆すると共に、 『…やっぱりね…』 と、妙に得心してしまっていた。 その得心した理由をその時はあえて踏み込んで分析しようとしなかった。 考えなくてはならないことが、目覚めたティファには沢山あったからだ。 だが、流石に退院して2週間にもなると、そろそろ今の生活リズムに身体が慣れる。 心が慣れなくても身体が慣れるということは、その慣れたことによって考える時間が増えるということだ。 調理の下ごしらえがスムーズに終わった後や掃除の合間。 家事という名のつく、果てしなく続く役割の合間に出来た時間。 そして、この入浴の時間。 ティファには、いやでも考える時間が出来てしまう。 そうして、その度にティファは少しずつ底なし沼に沈んでいく自分を感じる。 クラウドがティファの気持ちを知りながら周りの意見に賛同したのは…。 『私のこと……好き……?』 数ヶ月前。 眠る彼に呟いた言葉。 実際には、それはもう1年半以上も前のことなのだが、今のティファにとってはまさに数ヶ月しか経っていない。 あの時。 クラウドはティファの気配を察して目を覚ましてしまった。 慌てて口をついて出てきたのは。 『マリンのこと…好き…?』 あの時、クラウドは『どう接して良いのか分からない』、そう言った。 だけど、本当に聞きたかった言葉はそうじゃない。 聞きたかった答えは別の質問に対してだった。 そして、その答えを今まさに、ティファはもらった気がする。 (私のこと……そんなに好きじゃないのね…) 不器用なクラウドのことだ。 もしもティファに対して好意の欠片もないならば、例え子供達を一緒に守っていく『家族』という建前を設けたとしても、一緒に住むことを良しとはしないだろう。 だが、結局はそれくらいのものなのだ…と、打ち沈んでいるティファは判断している。 子供達のことを優先するクラウド。 子供達を幸せにするには、クラウドが欠けてもティファが欠けてもいけない。 だから、クラウドはこうしてセブンスヘブンに帰って来る。 クラウドにとってティファとは、『幼馴染』『戦友』『仲間』。 その言葉以外の認識を持っていないに違いない。 決して、『恋人』でもましてや『妻』でもない。 『愛人』ですらない。 なんて辛い現実。 その辛い現実を僅か2週間ほど前の自分は幸せに暮らしていた、と仲間達は口を揃えたが、とてもじゃないが信じられない。 いや、ユフィ達の言葉を信じないのではない。 むしろ、ユフィとナナキほど、ウソに不向きな人間はいないと思う。 バレットとシドは一見、ウソが苦手ですぐにボロが出そうだが、彼らの場合はユフィ以上に積んできた人生経験があり、『曖昧』とか『ごまかす』とか『はぐらかす』とか…。 意味はどれも似たり寄ったりだが、そういう『渡世術』を持っている。 一般の人間より、それはとても幼稚なレベルだが、それでもユフィやナナキよりはマシだ。 ヴィンセントなどは『シラを通す』ことにかけては天下一品。 その彼が、 『ティファ…、お前は本当に幸せそうに笑っていた。それは保障する。まぁ、私が見る時は…だが…』 そう言って紅玉の瞳を優しく細めてくれた。 仲間達がそう言ってくれるのはとても嬉しい。 そう、嬉しい。 …嬉しい…はず…なのだ。 それなのに、胸に湧いてくる思いは…。 「……帰りたいな…」 ポツリ…。 呟かれた言葉は小さなものだったが、狭い浴室では意外と反響してしまい、ティファは少しだけドキッとした。 今の言葉、聞かれたかもしれない。 だが…。 「いっか…別に…」 また呟く。 独り言を聞かれたからと言って、もうどうでも良い。 もうそろそろ限界だ。 この2週間の生活はまさに息が詰まるものでしかなかった。 わざと明るく振舞うデンゼルとマリン。 極力仕事を減らして家にいるクラウド。 そして、無表情で無口なくせに、何か言いたそうな顔をして話しかけるタイミングを窺ってくるシェルク。 それら『家族』と称する者達の姿が、グルグルと頭の中を回る。 もう……限界だ。 ティファは立ち上がった。 湯船の湯が少々荒く波打つほどの軽い勢いで。 だが、それはティファの心の揺らめきや苛立ちを表しているようだった。 脱衣所で身体を手早く拭く。 髪もやや乱暴に拭いた後、衣服を身に着けてからドライヤーをかけた。 いつもはもう少し丁寧に髪が傷つかないよう気を配るのだが、そんなことに構っていられない。 もう限界! 苛立つ気持ちをそのままにブラシを持つ手に込める。 あっという間に乾いた髪。 乱暴に扱ったがためにヒリヒリと痛む頭皮。 だが、それが一体なんだと言うのか。 ティファはバスタオルを洗濯籠の中に放り込むと、大股で寝室に向かった。 ― ここに自分の居場所なんかない。 ― その気持ちでいっぱいだった。 デンゼルとマリン、果てはウータイの忍や寡黙なガンマン、義手の巨漢に赤い獣、シエラ号の艦長。 沢山の近しい人達が退院する前の3日間も含め今日までずっと聞かせてくれた。 失ってしまった1年半の出来事を…、詳細に。 だが、それが一体なんだというのか? ティファの記憶にはそれがない。 『現在(いま)』のティファは誰がなんと言おうと、一番信頼していた人間に裏切られ、治る見込みのない病を負った孤児を懸命に守ろうと必死に足掻いて…、足掻いて…、足掻く日々を送っているのだ。 だから、間違っているのはティファの気持ちではなく、周りの人間の押し付けとも言える態度。 寝室にはものの数秒で辿り着いた。 そのまま勢いを殺さず、かと言って大きな物音を立てないように気を使いながらローチェストの引き出しを開ける。 手当たり次第に現金、着替えを掴み、スポーツバッグに詰め込んだ。 そして、それを肩にかけて…。 ゆっくりとバッグを下ろした。 襲ってきた熱狂は、襲ってきたときと同じ速度で急速に去って行った…。 このままこの場所を出て行くことは出来る。 逃げ出すことは出来る。 そんなの簡単だ。 今は陸路も海路も結構交通の便が良くなっている。 それに、ティファの記憶よりも更に1年半も現在は時が進んでいるのだから、もっと便利になっているだろう。 それこそ、クラウドやWROのリーブの目を逃れて潜伏することなどわけはない。 だが…。 それで今、目の前に突きつけられている問題が解決するのか…? 答えは…考えるまでもない。 『ノー』だ。 冷静さを失ったまま、家出して何になる? 確実に子供達を傷つけるだろう。 それこそ、数ヶ月前に家出したクラウドの時と同じように。 いや、もしかしたらそれ以上に傷つくかもしれない。 自分達の接し方が悪かったのだ…と、己を責めてあの小さな胸を痛めることになるだろう。 それに……シェルク。 彼女もきっと、無表情な仮面の下で酷く傷つくことになる。 いくらシェルクの存在が未だに受け入れられないティファでも、シェルクがティファのことを大切に思っていることくらいはとっくに分かっていた。 だからこそ、シェルクの存在が受け入れられないのかもしれない。 自分は知らないのに、知らない人間から大切に思われ、傍にいられることは意外と心痛になる…。 それに……、クラウド。 クラウドもきっと、己を責めるだろう。 家出をした経験があるクラウドだからこそ、家族から離れなくてはならないほど追い詰められた心境を誰よりも感じ取り、己を責め苛(さいな)むはずだ。 ズルズルと、力なく床に座り込む。 本当はわかっている。 仲間達や子供達の方が今のティファが抱えている思いよりも正しいということくらい…。 だが、それをどうしても受け入れられない。 受け入れられない理由は、記憶が戻らないというだけじゃない。 実は1度、退院してから店を開けたことがあった。 もしかしたら、日常生活の生活の一部であるセブンスヘブンを開いてみたら、記憶が戻るかもしれないと思っての行動。 退院当時は、これでもまだ、周りの皆をこれいじょう悲しませまいと前向きに努力しようとしたのだ。 だから、店を営業する案を渋ったクラウドや子供達をティファは、 『記憶が戻るかもしれないもの…』 そう言って、説得した。 結果は…。 見ての通り。 いや、それ以上にサイアクだった。 * 『ティファちゃん、怪我したって聞いたけど大丈夫かい?』 『えぇ…なんとか…』 『流石だねぇ。それならさぁ、どうしてクラウドの兄ちゃんまでここにいるわけ?』 渋りに渋ったティファの案を受け入れると同時に、クラウドは自分も店を手伝うことに決めていた。 そのため、ティファは記憶にないクラウドは、店を普通に手伝うようになっていたのだろうか…と思っていた。 だが、そうではないことがこの客の一言でわかってしまった。 口ごもるティファに、客は小バカにしたような笑みを顔に張り付かせる。 『ま、そりゃ怪我したって噂がエッジに広まってたからな。少しくらいは大切にしてる、ってとこを見せとかないとマズイんだろうよ』 『え…?』 『ティファちゃんには、やっぱり幸せになってほしいからなぁ』 含みのある言葉と、眼差しをクラウドの向けた客。 その客に、ティファは心が激しく揺さぶられた。 今のは一体何を示しているんだろう…? もしかして、クラウドは家出をしている間に何か…もしかして、他の女性のところに…? でも…、デンゼルもマリンもそんなことは言ってなかった…。 ううん、でも…もしもそうだとしても、子供達もリーブ達もそんなこと…話せない……ね。 それよりも、もしかしたら私が記憶を忘れてしまったのがクラウドや皆にとってラッキーなこと…? そうだとしたら…。 私は……なに…? 必要とされている私は……一体なに? そして、客の意味深な仕草をきっかけに、『そう言えば…』とティファは振り返る。 振り返ってしまった。 振り返らなければ気づかなかっただろうに振り返ってしまった。 だから、1つのことに気がついた。 クラウドがティファに触れないということに。 いやらしい意味でのことではない。 本当に触(ふ)れない、触(さわ)らないのだ。 ティファの身体の一部にでも触れないよう、微妙な距離を保って傍にいる。 一度など、ちょっと足元が見えなくてバランスを崩して転倒しそうになったティファを、クラウドは目を見開いて咄嗟に手を伸ばそうとして…。 結局、その手をそれ以上前に伸ばさなかった。 いつの間にか駆け寄ったシェルクによって抱きかかえられたお陰で、ティファは横転しなくて済んだのだが、その時のクラウドの表情が目に焼きついて離れない。 (どうして…!?) 心が悲鳴を上げた。 そんなに自分に触れるのがイヤなのか…。 そんなに記憶がなくなった自分は『汚らわしい』のか…。 記憶がなくなった自分は、もう『ティファ・ロックハート』ではないのか…。 辛そうに眉根を寄せて、目を逸らしたクラウドの姿。 シェルクが小さく、 「大丈夫ですか?」 そう声をかけてくれたのに、ティファはまともに返事をした記憶がない。 きっと、「ありがとう」とか「大丈夫よ」くらいは言ったと思うが、自信がない。 そのことを思い出した。 あの時は、あまりにもその事実が辛すぎて、シェルクがクラウドよりも近くにいたから、クラウドが助ける必要がなかったので彼はそれ以上前に踏み出してこなかったのだ、と思い込もうとした。 だが、そんなとってつけたような理由など、現実の前では儚い。 その証のように、客のたった1つの仕草で、欺瞞の仮面は脆くも剥がれさった。 そうして、ティファはその日、それ以上仕事を続けるだけの力を根こそぎ奪い取られ、気を失った。 今も店を営むことは出来ない状態が続いている。 クラウドも子供達もシェルクも、突然倒れたティファに全身を真っ青にすると慌てて閉店し、目を覚ました翌日、開口一番に店を開くことは控えるようにお願いした。 それはティファにとって願ったり叶ったりのお願いだったのだが、それを誰も知らない…。 (…誰か……、誰か…助けて…) ティファは冷たい床に座り込んだまま、いつの間にか頬をしとどに濡らしていた。 嗚咽を洩らすこともなく、ただただ、涙がホロホロと頬を伝う。 ティファには自分の存在理由が分からなかった…。 * 『クラウドさん、どうですか…?』 「……相変わらずだ…」 『…そうですか』 「……」 『お辛いでしょうが、今は辛抱の時です。一緒に頑張りましょう…?』 「…あぁ、そうだな。一番辛いのはティファだからな…」 『えぇ。その通りです』 「すまないリーブ、忙しいだろうに…」 『いいえ。そんなことは気にしないで下さい。私達は仲間なんですからね』 「あぁ、そうだな」 『それにしても…』 「ん?」 『クラウドさんの口から『すまない』だなんて言葉が聞けるとはねぇ。やっぱり、ティファさんは偉大な女性ですね』 「……リ〜ブ……」 『ハハ、冗談ですよ。では、明日は定期健診に一緒にいらして下さいね』 「あぁ、分かった」 『では、おやすみなさい。ティファさんによろしくお伝え下さいね』 「あぁ、おやすみ」 パタン。 クラウドは携帯を折りたたんで、深い溜め息を吐き出した。 疲れた。 本当に疲れた。 ティファが今の生活に全く馴染めていないのは言われなくても分かっていた。 だが、それを一体、どうやってフォローしてやれば良いのかが分からない。 何しろ、ティファの記憶は自分が家出した真っ最中に戻ってしまっている。 傍にいるはずのない人間の中でトップを争う位置にいるクラウドに出来るフォローとは一体なんだというのか…。 ―『クラウド、愛の力だよ、愛!!』― 拳を握り締めて力説したウータイの忍の言葉が耳に甦る。 ―『クラウド…。ユフィの言うことは極端だとしても、ティファにとってクラウドが一番力になれる人間だと思うんだ。だから、しんどいと思うけど頑張って…』― 隻眼の瞳を心配そうに細めた仲間のシュン、と垂れた耳を思い出す。 ―『クラウド、今はオメーがしっかりしてやんないとなんねぇんだからな!きばりやがれ!』― そう言って、巨漢の男は思い切り背中を叩いた。 その痛みを思い出す。 ―『クラウドよぉ…、まぁお前に器用なフォローが出来るとは正直思っちゃいないが、あんまり無理すんな?たまにはティファや子供達皆と一緒にどっか旅行にでも出かけてみても良いかもしれないぜ?そん時は遠慮すんな。シエラ号でどこでも運んでやっからよぉ』― ヘビースモーカーのくせに、ティファの記憶喪失にこれ以上悪影響が出るかもしれない!と、何か勘違いをしてティファの前では絶対にタバコを咥えなかった仲間を思い出す。 ―『クラウド』― ―『お前1人で抱え込まなくて良い。いつでも私達を頼れ。人は弱い。1人では何も出来ないのだからな』― そう言って、いつもはクールなその男が、ポン…と肩を軽く叩いてくれたことを思い出す。 「そうだな…。俺は1人じゃない…。そして…ティファも」 ふぅ…。 もう一度吐き出したその溜め息は、先ほどとは軽く、どこかほんの少しだけ前向きになれた。 そんな印象を与えてくれるものだった。 |