渇 望

 

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いつもは涼やかな音色のドアベルが、突然けたたましく店内に鳴り響いた。

シンク下の棚からボウルを取ろうと屈み込んでいたティファが、カウンターの下から驚いた顔を覗かせた。

「デンゼル!?」

学校から帰宅したデンゼルが、後ろ手にドアを閉めそこに背中をつけたまま はぁはぁと肩で息をしながら立っていた。

「どうしたの!?そんなに慌てて」

デンゼルは、額に汗を滲ませ、怯えたように見開いた目をティファに向けた。

尋常でない彼の様子に、ティファの鼓動は急に大きく鳴り始め、慌ててカウンターを回るとデンゼルに駆け寄った。

両肩に手を置いてティファが顔を覗き込むと、整わない呼吸の合い間に掠れた声でデンゼルが呟いた。

「…あいつ、やっぱり少し、おかしいよ」

 

 

 

その男が最初にデンゼルに話しかけてきたのは、およそ一ヶ月前のことだ。

「やあ、デンゼル、今帰り?」

下校途中、向かいから歩いてくる若い男にそう声を掛けられた。

二十歳そこそこの、何処にでも居るごく普通の風貌の男がデンゼルに笑顔を向けていた。

見覚えの無い顔だったが、セブンスヘヴンの客なのだろうと思ったデンゼルは、うん、とだけ答えて歩調を緩めることなく通り過ぎた。

数歩過ぎてからなんとなく振り返ると、男はデンゼルの後姿を見送るように立ち止まってこちらを向いていた。

少し面食らったデンゼルは、それでも軽く頭を下げて足早にその場を後にした。

それから一日おきぐらいに、その男とすれ違うようになった。

その度に男は一言二言、デンゼルに声を掛けてくる。

「良く会うなぁ」「今日も元気だね」「慌てて転ぶなよ」

デンゼルは短い返事や会釈で応えてはいたのだが、振り返ると必ず最初の時のように立ち止まってこちらを見ている男の姿に どこか異様なものを感じていた。

相変わらず店で顔を見かけることのない素性の知れぬ相手に、デンゼルが警戒心を解く事は無かった。

 

そして今日の下校途中にも男が現れた。

「やあ、デンゼル!」

いつもと違い背後から掛けられた声に、デンゼルは一瞬ギクリと身体を強張らせた。

「あのさ、ちょっと聞きたいことがあるんだ」

男は小走りでデンゼルに追いつくと横に並んで歩きながら、親しげに肩に手を置いた。

「何?俺急いでるんだ」

馴れ馴れしい態度にわずかな嫌悪を感じながら、そっけない口調でデンゼルが言った。

男は気にする様子もなく続ける。

「あのさ、お母さんは…優しくしてくれる?」

「え?」

質問の意味が理解できず、デンゼルは男を見上げた。

男の口元にはうっすらと笑みが浮かんでいるが、瞳は不思議な鋭さを持ってデンゼルを見下ろしていた。

それは妙にアンバランスな表情だった。

「だからさ、ティファさんの事さ。君の母親代わりなんだろう?」

デンゼルは瞬時に悟った。

(コイツの目的は、ティファなんだ。俺からティファの情報を色々聞き出したいんだ…!)

怒りで頬が熱くなるのを感じた。

(誰が、お前なんかに)

「関係ないだろ!」

男の手を払いのけて、デンゼルは走り出した。

「あの人は僕の母親なのに!」

「…!?」

背中に投げつけられた言葉にデンゼルは困惑した。

(なんだって…?何を言ってるんだ?)

「僕のお母さんを返してくれよ!」

追い縋るような男の声に今にも捕らわれるのではないかという恐怖心が湧き起こった。

それは今まで対峙した事のない、得体の知れない恐怖だった。

振り返らず、デンゼルはひたすら走った。

 

 

暖かいココアが注がれたマグカップを両手で抱え一口飲むと、デンゼルは ほうっと息をついた。

顔色がまだ青い。

ティファは隣に座って、デンゼルの肩をしっかり抱いていた。

「酔っ払って絡む客とか、怒鳴る客には慣れたけどさ、ああいうのは…怖いよ。何をするか分からない」

肩に置かれた男の手――その手が自分の細い首筋に伸び、薄笑みを浮かべながら力を込めていく…

そんな想像さえしてしまうほどの狂気を、デンゼルはあの男の瞳と投げかけられた叫びから感じたのだ。

「…そうね」

いつもは強がりを言うデンゼルが素直に恐怖を吐露するほどの事態に、ティファの身体は怒りで震えた。

ティファを 『僕の母親』 と言う男。

デンゼルがそう感じたように、おそらく精神的にどこか壊れた人間。

同情はする。でも万が一、子供たちに危害を加えるつもりなら容赦はしない。

大切な子供たちに…。

ティファはハッとして顔を上げた。

「マリンは…」

デンゼルより先に帰宅したマリンは、友達と公園に行っていた。

「マリンはそいつと会った事無いんだ。俺と下校時間が違うし。でも…」

でも、の先に続く考えは二人とも同じだった。

デンゼルに拒絶された男は、次にマリンに接触するかもしれない。

「迎えに行こう!」

デンゼルが立ち上がると同時に、ティファも弾かれるように席を立っていた。

が、次の瞬間、店のドアが開いた。

「ただいまー! あれ…?どうしたの二人とも?」

ほ〜っと力が抜けたように椅子に腰を下ろすデンゼルとティファを見て、マリンは首を傾げた。

 

 

クラウドの帰宅は閉店後だった。

本当は家族4人で話し合いたいところだったが、明日も学校があるため子供たちは休ませた。

クラウドがいつものように、シャワーを浴び食事を済ませ一息ついたあとで、ようやくティファは昼間の事件を話した。

話を聞きながら、クラウドの眉間にみるみる皺が寄った。

「…それで、しばらくは私が子供たちを送り迎えしようと思うの…でも、その男をこのまま放っておくのもどうかな…」

異常な男の影に怯えて外出もままならないようでは、子供達も参ってしまう。

「野放しにはしておけないな…」

クラウドはそう言ったあと、険しい視線をカウンターテーブルの上に落とし腕組みをしたまま黙り込んだ。

どうにかその男を自分が捕まえて、二度と家族に近づかないよう、判らせる。

だが精神的に問題があるとしたら、果たしてどこまで脅しが通用するのか。

やはりリーブに相談して…だが不審者というだけでWROも男を拘束はできないだろう。

…いや、あれこれ心配するのは、とにかくその男と対峙してはっきりとした身元を掴んでからだ。 

「俺が動く。ティファは…家に居てくれ」

ティファは眉を寄せた。

「私は大丈夫よ。腕は鈍ってないわ。クラウドは仕事があるでしょ?」

「仕事どころじゃないだろう」

「でも、いつその男が現れるか分からないのよ?ずっと仕事を休むつもり?」

「構わない」

「………」

不満そうなティファの視線を受け止めて、クラウドは困ったように肩をすくめた。

「ティファの腕を疑ってるわけじゃない。正直に言うと……嫌、なんだ」

「嫌って、何が?」

「そいつの目的はティファなんだろう?」

「多分。だから、私が…」

「だからこそ、だ。得体の知れない男が何処からかティファを見ていると思ったら…胸が悪くなる」

そう言うとクラウドは目を逸らした。

「…クラウド」

じっと覗き込むティファの視線からますます顔を背けて、クラウドはぼそぼそと続ける。

「俺が、子供たちの送り迎えをする。怪しい男が現れたら俺が捕まえて締め上げる。ティファは…ここに居てくれ」

ティファの口元がほんの少しほころんだ。

自分だって子供たちのために動きたい。じっと家で手をこまねいているのは性に合わない。

でも、クラウドが心配するその理由…自分を男の目に晒したくないという嫉妬とも取れる気持ちが、嬉しかった。

「…わかったわ」

ティファはカウンターの上で軽く握られているクラウドの手にそっと自分の手を重ねた。

「ありがとう、クラウド」

「…いや」

クラウドは、重ねられたティファの手に視線を落として、なんとなくばつが悪そうな表情を浮かべる。

顔を上げてその青い瞳にティファを映した時には、ようやく照れたような微笑を見せた。

 

 

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