あぁ…。
 きっと…こっち。

 こっちに『いる』。
 この先で……私を待ってる。
 私に何が差し出せるか分からないけど…。

 この先で…私を待ってる。


 早く行かなくちゃね。

 これが、本当に私がクラウドにしてあげられる最後のことなんだから…。



Fairy tail of The World 52




 腐った水の臭い。
 それとも、澱んだ空気の臭いなのか、その場所は酷く胸が悪くなる腐敗臭で満ちていた。
 路地裏にいくつかあるポッカリと出来た空間。
 廃材やガラクタ、それに転がってきたのであろう紙切れ。
 それらがぽっかり空いたその場所に差し込む月光に照らされて妙に明るく浮き出ていた。

 積み上げられた木箱の上に、彼女はいた。

 片足を立てて木箱に乗せ、立てた膝の上に片肘を乗せて…。
 闇の中で真っ直ぐティファを見ていた。
 表情は…分からない。
 スッポリとフードに隠された彼女は、月光によって闇から微かにその存在を切り取られたかのように浮き出て見えた。


「お久しぶりですね」


 涼やかなその声音。
 ティファは驚かなかった。
 なんだかそんな気がしたのだ。
 この路地裏に足を踏み入れた瞬間から、なんとなく……彼女…『ミコト様』が『女帝』だと思った。
 思った…というよりも感じた…と言ったほうがしっくりくるかもしれない。


「うん…久しぶり…」


 気の置ける友人に対するように、ティファは微笑を浮かべて応える。
 そのままゆっくりと歩みを進める。
 一歩一歩、確実に噛み締めるように……。

 あと数歩で手を伸ばしたら届く距離というところで、ティファは足を止めた。
 真っ直ぐ見つめてくる彼女から一度も視線を逸らさずに…。

「私……お願いがあってきたの…」
「知ってます」

 ティファは自分の予想していたその言葉を彼女が口にしたことに、思わず小さく笑った。
 彼女は僅かに小首を傾げ、
「おかしかったですか?」
 抑揚のない口調で訊ねる。

「うん、だって想像通りの答えだったんだもん」
「そうですか」
「うん」

 目の前の存在は、確実に自分をこの世から抹消してくれる。
 ティファに全く焦りも、不安も、恐怖も無かった。


「じゃあ、何を差し出したら私のお願い、きいてもらえるの?」


 穏やかな顔をして己の存在を消してくれることを願うティファに、女帝はスッと手を伸ばした。
 その手は月光に照らされて青白く闇に浮かんで……とても美しくすら見えた。



「貴女の全て」

「魂の器であるその身体と…」

「貴女の魂…」

「そして、貴女の魂の力を左右するその強い心…」


「貴女という人間を創っている貴女の全てを私に下さい」


 ティファは笑った。

「そんな事で良いの?」

 そしてそっと一歩踏み出して彼女の手に己の手を乗せた。

「そんな事で良いなら喜んで…」



 そうしてティファは死神に己を差し出した。





 ゾワッ!!

 クラウドは全身に突如駆け抜けた悪寒に、思わず振り返った。
 何もない。
 特に警戒すべきものはなにも見当たらない。

 上空を見上げる。
 狭い路地裏の世界から見える空は、酷くちっぽけで、輝いている星と月がなんだかニセモノのように安っぽく見えた。

 ザワザワ…。

 心が騒ぐ。
 とてもイヤな感じがする。
 言いようの無い……焦燥感と喪失感。
 今にも、目の前にとんでもない現実が突きつけられそうな気がして、心が騒ぐ。

 クラウドは足を速めた。
 神経を張り巡らせて辺りを警戒する。
 少しでも何らかの気配が感じられたらそちらへ足を向ける為に。

 だが、先ほどから感じるのは取るに足らないチンピラの気配だけ。
 彼らはクラウドの物腰と異様に殺気立っている魔晄の瞳、なにより腰に帯びている武器に怯え、絶対に接触しないようにしていた。
 クラウドもわざわざそんな彼らを相手にはしない。
 ティファの行方を聞くことも少しは考えた。
 だが、何故だかそんな事をする気になれなかった。
 聞いても無駄な気がした。
 恐らく、彼らはティファを見ていないだろう…そう思った。
 なんとなく……この今通っている路地裏を、彼女は歩いていない…と思えた。

 ティファの匂いがしない……とでも言えば良いのだろうか?
 彼女がもしもここを通ったら、なんとなく気配が残っていると思ったのだ。
 そして、その根拠も何もない『勘』をクラウドは信じていた。

 そのまま足早に歩を進める。
 と…。

 ピクッ。

 クラウドのセンサーに何かが引っかかった。
 なにか……?
 なんだろうか……?
 彼女……に繋がるものかもしれないし、そうではないかもしれない。
 だが、何となく…本当に何となくクラウドはその路地裏にいくつもある曲がり角の一つが気になった。

 そろそろとそちらへ足を向ける。
 そっと手を伸ばして……『その空間』に触れた。


 バシッ!!!


「ッ…!!」

 手が見えない何かに弾かれる。
 ビリビリと痺れるような痛みに思わず顔を顰める。
 目を眇めて(すがめて)その空間を見つめるが、何もない。
 目に見えない…なにか…。
 そのなにかの先には……。


「この先か…!」


 目に見えない張り巡らされたものを斬るべく、愛剣を抜き放つ。

「おおぉぉぉぉおおお!!!」

 渾身の気と力を込めて振り上げ……、振り下ろす。


 キィィィーーーン!!


 澄んだ音を奏で、あっさりと大剣は折れた。
 あまりの呆気なさに絶句する。
 目の前には依然として変わらない闇がある。
 そして、その先に続いている暗い道も…。

 それなのに…。


 バシッ!!


「…ック……!!


 見えない何かに阻まれ、一歩も先に進めない。
 折れた剣を今度は振り上げて投げ飛ばす。


 バリバリバリバリ!!!!


 電流のようなものが走ったかと思ったら、ボトリ…と、ボロクズのようになって愛剣は地に落ちた。

 全身から汗が噴き出す。
 無理にでも突進しようものなら、恐らく待っているのは……死。
 だが、これで確実だ。
 この先にティファがいる。
 ここまで強力な結界の意味は、それ以外考えられない。

「くそっ!!」

 毒づきながら、腰に帯びているもう一本の剣に手を伸ばす。
 残りの一本。
 普段の複合剣はフェンリルに収納したままだ。
 かさばってスムーズに動けないので、収納したままだったのだが…。

「持ってくれば良かった…」

 思わず口をついて出た愚痴。
 クラウドは両脚を広げ、上体を屈めて渾身の力が出せるよう……戦闘態勢に入って………。


 空を切るような鋭い一閃。


 目には何も見えないので、空振りすべきその剣が…。


 バリバリバリバリ!!!!


 振り切る手前で空中で電流のようなものに絡められている。

 ギリリ…。

 クラウドの口から歯軋りが漏れ聞こえる。
 渾身の力を振り絞っているのに、結界に亀裂が入る手ごたえがない。
 それどころか、今度はクラウド自身にまで結界の効力が働いてきているようで、段々圧迫感を感じるようになった。
 このままでは、黒こげか圧死だ。

 グググ…。

 押し戻されそうになるその剣を、腕を、力をなんとか堪える。
 地面に靴がめり込んでいく。
 ズッズズッ…と、押されながら精一杯踏ん張るクラウドの靴の踵には、いつしか土の小山が出来ていた。


 ここで…。
 もしも……もしも負けたら?
 結界如きで負けるようなら……。
 ティファを救うなど、夢物語、ただの絵空事…。

 絶対に助けるだなんてありえないということに他ならない。


「く……っそぉ……」

 ティファ…。

「こんなものくらいで…」

 ティファ。

「負けて…」

 ティファ!!


「たまるかーー!!!!」



 バリバリバリ……バシーンッ!!!

「うお!!」

 結界が破れたその衝撃で、クラウドは思い切り吹き飛ばされ、背後に合った壁に背中を強かに打ち付けた。


 ゲホゲホッ。

 地面に両膝を着いて激しく咳き込む。
 気が遠くなるほどの衝撃。
 だが…、こんな所で足止めを食っている場合じゃない。
 翳む視界に頭を数回振って…。

 クラウドは立ち上がった。
 真っ直ぐ前を向く。

 結界の解けたその先にあったのは…。


「え……」


 クラウドは目を見張った。

 漆黒の闇。
 漆黒の闇から生み出されたとしか思えない丸い…ガラス球。
 いや、もしかしたら、巨大なマテリアなのかもしれない。
 そのマテリアらしきものの中にあるのは…。


「ティファ!!」


 何も…何も見えない。
 ティファ以外には何も……。
 だから。


「遅かったんですね…」

 ティファへと駆け出したクラウドは、彼女の入っているマテリアらしきものの傍らの木箱の上に、女性が腰掛けていることに全く気が付いていなかった。
 ハッと、顔をそちらへ向け、反射的に手にしていた剣を『ミコト様』に向ける。

 月光によって闇から顔半分斜めに切り取られたかのように白く浮かんでいるその女性は、生気というものを全く感じさせなかった。
 クラウドの胸に、憎悪が込上げる。

「ティファを返せ」

 底冷えするような静かで冷たい声音。
 仲間達ですら聞いたこともないその口調に、ミコト様は全く動じた様子はない。

「彼女は望んでここに来たんですよ」
「ティファを返せ!!」

 激した怒鳴り声にも全く動揺しない。
 身じろぎすらしない。
 能面のように無表情に見えるのは、フードで顔が覆われていて…月光によって片目しか見えないせいだろうか?

「私が呼び寄せたのではなく、アナタが彼女をここにこさせるようなことをしたんじゃないですか」
「な…!!」
「私が罠を張ったとでも?」

 全く抑揚のない声音は、話すことすら億劫で目の前で激昂しているクラウドにも興味がない…と言わんばかりだ。

 対するクラウドは今一番、自分にとって痛いところを突かれ、反論する言葉が見つからず、黙り込んでしまった。
 言い返したい。
 相手が女であろうがなんだろうが、思い切り殴りつけて……その存在をこの世から消してやりたい!

 そう…思うのに。

 ― アナタが彼女をここに来させるようなことをしたんじゃないですか ―

 たった一言がクラウドの動きを封じ込んだ。


「あぁ、そう言えば……」
 やる気を全く感じさせない声で、何かを思い出したらしきことを口にしたミコト様と呼ばれている女性は、木箱の上からスッと地面に下りた。
 流れるようなその動作は、上流階級の人間のように洗練されていて、敵であるというのに思わず目を見張るほど優雅だった。

「貴方とはお会いするの、初めてですね」

 フワリ…という表現が実に似合う動作で、優雅に片腕を広げ、もう片方は胸に手を当てて腰を折る。

「初めまして、ミコト様と呼ばれている者です」

 おかしなその自己紹介に、クラウドの眉間にシワが寄る。

「自己紹介するなら、『呼ばれている者です』とかではなく、本当の名前を名乗ったらどうだ」

 他に言ってやりたいことは山ほどあるのに、口に出来たのはちんけな皮肉だけ。
 クラウドのやりきれないほどの自己嫌悪を知ってか知らずか、ミコト様は淡々とした口調で返した。

「名前は大切なんですよ。ですから、そう簡単に教えることは出来ません」
「……なんだそれ……」
「でも、やっぱり私が貴方の名前を知ってるのに、私の名前を知らない…っていうのは…フェアじゃないですか?」


「ねぇ、そう思います?」


「クラウド・ストライフ」


 ゾクゥッ!!!

 全身に悪寒が走る。
 名前を呼ばれただけなのに、とんでもない力を感じた。
 殺気……ではない。
 闘気……でもない。
 殺気でも、闘気でもないのに……。
 名を呼ばれた瞬間、クラウドは自分の『死』が見えた気がした。

 殺気も闘気もなく……彼女は人を殺せる。

 そんな言いようの無い恐怖がジワジワと心を侵食する。
 クラウドの眉間から鼻筋を通って頬へ、冷や汗が流れる。

 ガチガチに固まったクラウドに、ミコト様は全く無関心なのか、嘲笑も冷笑もしない。

「クラウドさん、私がティファさんを狙ってるのはもうご存知だったと思います」
「……ああ……」
 突然のその言葉に、なんとか声を押し出して返答する。

 ミコト様の目は真っ直ぐクラウドに向けられている。
 真っ赤な…紅玉の瞳。
 漆黒の長い髪。
 真っ白な顔。

 どれもが非現実的に思えるほど美しい。

「それなのに、どうして彼女がここに来るという選択肢をしなくてはならないほど、彼女を追い詰めたんです?」
「な…!?」

 カッと頭に血が上る。
 ティファを追い詰めた……。
 確かにそうかもしれない。
 だが、それは今のティファにはきっと受け入れがたいことだと思ったから。
 その『時』がきたら、ちゃんと紹介して、一緒に笑う事が出来る。
 そう思ったから、だから…!!

「私が張った罠は一つだけ。それ以外は……そうですね。彼女がここにいると貴方に教える為に結界を張ったくらいです」
「え……?」
「シャドウに襲撃されたのも、死に掛けたのも、彼女が『特別』だからです」
「…特別……?」

 ミコト様が言う『特別』と言う意味。

 それが非常におぞましいもののように聞えた。
 クラウドはミコト様とクリスタルの中にいるティファを見た。


 水球型のクリスタルの中で、ティファは穏やかな顔をして膝を抱えた状態で眠っているようだった。

 ここ数日の苦渋に満ちた表情がウソのように和らいだその顔。


 クラウドは己の中で何かが壊れていく音を聞いた気がした。




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