Fairy tail of The World 9




 ペタ…、ペタ…、ペタ………。

 WROの医療施設。
 その広い廊下を、何かが…ポタポタ雫を垂らしながらゆっくり歩いている。
 それを誰かが見ていたら卒倒するか……恐らく青くなった警備員が飛んできただろう。

 しかし…。
 時間は深夜。
 広く大規模なその施設にいるのは、限られた数の看護師と、当直中の医師、そして僅かな警備員。
 そして…。


 死が迫った者の家族と近しい友人達だけ。


 その広い廊下を、ひたすら『それ』はたった一つの部屋に向かって歩いていた。

 ペタ…、ペタ…、ペタ………。


 薄暗い廊下を、その足音はある一室に近付いている…迷いなく。



 その一室では、まさに今……。
 確実な『死』が訪れようとしていた。





「ティファ!」「ティファ、ダメだよ!!目を開けてよ!!!!」
 子供達の悲痛な呼び声が室内に響く。
 クラウドはそんな子供達を両腕に抱きかかえながら、半ば悪夢を見るかのような思いで愛しい人の顔を眺めていた。

 信じられない…。

 それが彼の本心だった。

 自分よりも彼女の方が先に星に還る事になるとは、夢にも思わなかった。
 あの忌まわしい星痕症候群に罹って以来、無意識に自分の方が彼女よりも先に還る事になると思っていたのだ。
 それなのに…。
 現実は何と残酷な事か!!

 そんなクラウドと子供達の姿を、ヴィンセントの隣でシェルクが悲しみで顔を歪めながら、唇をかみ締めていた。



 目の前でベッドに横たわるティファの顔が、どんどん土気色になっていく。
 ナースコールは……もう押していない。
 子供達が押そうとしたが、それをバレット以下、仲間達が押し止めた。
 もう、これ以上彼女を苦しい『生』に縛り付けておく事を誰もが望まなかった。
 役に立たない投薬治療。
 それをする為には、彼女の腕に針を刺し、点滴を施さなくてはならないのだから…。
 たった一日で、彼女の細く、白い腕には点滴の針による痣が出来ていた。
 何とも痛々しいその痣に、仲間達は悲しみで濡れる瞳を向け、暗黙の了解でこのまま静かに見送る事を決めた。
 顔には酸素マスク…。
 それを外す事は出来ない。
 それだけでも……仲間達は堪らなかった。

 子供達は非難するような……縋るような眼差しで自分達を押し止める大人を見上げたが、一様に深い悲しみを刻んだその表情に……黙って従うしかなかった…。



 ピッ…………ピッ…………………ピッ…ピッ……ピッ…………。



 心電図から流れる音が、徐々に緩やかに……不規則になっていく。
 血圧が下降の一途を辿り、呼吸も喘ぐように顎を動かして行うような状態になっていた。


 クラウドは、このまま己の呼吸も止まってしまうかのような錯覚に襲われていた。
 ティファの呼吸と同じ。
 彼女の苦しい息遣いが、そのまま自分のものになっているようだ。
 あまりにも悲しみが強く……襲ってくる恐怖が大き過ぎて……。
 このまま、彼女の呼吸が止まってしまったら……。
 その瞬間に自分の呼吸も止まるのだと……本気でそう思える。

「クラウド…」
 ユフィがそっとクラウドその背に触れた。
 そのまま、少しでも彼の悲しみを拭えるように………ユフィ自身の悲しみをごまかすように……。
 クラウドの背をさする彼女の手が、微かに震えている。
 ユフィの視線の先には、ティファの土気色の顔。
 仲間達も、彼女の最期のその時をただジッと黙って見つめていた。
 ひたすら嗚咽を堪え、涙をこぼさないように……。
 いつも寡黙で無表情な青年でさえ、眉間に深いしわを寄せてティファの『死』を見つめていた。
 そして、彼の手は自然に隣で小さく震えているシェルクの肩を抱き寄せていた。
 シェルクも、ヴィンセントに身体を預けながら、ギュッと拳を握りしめ、『その瞬間』に耐えられるよう、浅い息を繰り返していた。

 部屋に聞えるのは、心電図のモニター音と子供達のすすり泣く声。
 そして、ティファの喘ぐ息遣い。


 もうそこまで。
 彼女に『死』という闇の帳が下りるまで……もう………。




 ガラリ…。




 重く苦しい空気が、ドアの開いた音と共に揺れる。
 クラウドとティファ以外の全員が、ビクリと身体を震わせてドアを振り返り……。
 ギョッと身を竦め、息を飲んだ。



 ペタ……ペタ……ペタ……。



 ポタ、ポタ、ポタ、ポタ……。

 裸足のまま頭のてっぺんからつま先まで、びっしょりと濡れた状態で部屋に入ってきた『彼女』に、一瞬クラウド以外の全員の頭が真っ白になる。
 ティファを失う恐怖心が、そっくりそのまま、『彼女』の突然の登場に対する驚愕にすり替わった。





「ア……アイリ……お姉ちゃん……?」


 マリンが絞り出すような声を出した。
 その言葉に、ユフィ達はハッと我に返った。

 目の前に突然現れた女性は、ティファの身に着けている病院着に包まれていた。
 それだけで彼女が入院患者だと理解出来る。
 しかし、何故びしょ濡れなのか…?
 しかも、何故ここに来たのか…?
 ティファの臨終を見届けようとしているのか…?
 それとも……さ迷い歩いた結果、ここに辿り着いたのだろうか……?

 ゆとりをもたせた作りになっている病院着が、びっしょり濡れて彼女の肌にピッタリと張り付き、華奢なラインを浮き彫りにさせていた。
 髪から垂れる雫は、部屋の外から延々と続いている。

「お、おい……お嬢さんよ……大丈夫か……?」

 おずおずとシドが声をかけたが、アイリは全く見向きもしなかった。
 部屋に足を踏み入れた時同様、彼女の視線は真っ直ぐベッドに向けられている。
 そして、ノロノロとした歩みは部屋に入った瞬間から全く緩む事無く……躊躇う事無く……フラフラとしながらゆっくりとティファの元へと向けられていた。


 そのあまりにも異様な状態の彼女から、言い知れぬ抗い難い力を全身で感じる。
 英雄達は、いつもなら絶対にありえない事をした。
 つまり…。
 アイリの行く手を阻む事をせず、彼女の妨げにならないよう身を引いたのだ。

 子供達はただただ、呆然とベッドの傍らに突っ立って、近付いてくるアイリを見上げた。
 そして……二人は見た。

 魔晄に染め上げられた紺碧の瞳に、今まで見た事がなかった『意志の力』が宿っているのを…。



 WROの医療施設で治療を受けるようになってから、アイリの状態は格段に良くなった。
 フラフラしていた足取りは、今でも少し危なっかしいが以前に比べてしっかりしてきている。
 食事も、自らスプーンを取って、料理を掬い、口に運ぶ事が出来るようになっていた。
 なによりも彼女の周りにいる者を喜ばせたのは、彼女が自ら手を差し出したり、時折視線を合わせられるようになった事だ。
 魔晄に染まった瞳が、頼りなげに……でも自分の顔を見てくれているとハッキリ分かるようになった。
 そう言って、彼女の一番傍にいる紫紺の瞳をした青年が心から嬉しそうに話したのは、数ヶ月前の事…。
 子供達も、アイリの状態が良くなっている事を敏感に感じ、青年と同じ位喜んだものだった。
 それでも…。
 今、自分達の目の前にいるような……『強い力』を備えた眼差しを彼女が見せた事は一度も無かった。
 デンゼルとマリンは、近付いてくるアイリに気圧されるようにして、クラウドの両脇からそっと離れた。

 クラウドは、自分の腕にあった温もりがなくなった事で、漸く部屋の空気が重苦しいものから『驚愕』へ変わっている事に気がついた。
 そして……。


「え!?」


 目の前にいる女性の姿にギョッとする。
 一気に悪夢から現実に引き戻された気分だ。

 アイリは、ベッドの周りにポッカリと出来たそのスペースに躊躇い無く入ってくると、そのままベッドに横たわるティファへ両腕を差し伸べた。
 そして…。
 シーツが……ティファが濡れる事を何とも思っていないのか…。
 そのまま、覆いかぶさるようにしてティファを抱きしめた。

 その光景は、まるで親鳥が雛を全ての災厄から守るよう………。
 アイリが、ティファに目前にまで迫る『死』から守るように見えたのは……恐らく子供達だけではない。
 英雄達もそのアイリの行為に、目を見開き、固まっている。


 背中に傷を負っている為、少し横向きに寝かされているティファの頬に、自分の頬をピッタリと押し付け、目を閉じている全身びしょ濡れの女性。
 いや……『女性』と『少女』の中間のようなその彼女の姿は、まるで……


「天使…みたい……」


 ポツリと呟いたマリンの言葉に、デンゼルは無言で頷いた。
 英雄達も…そしてクラウドも、マリンの言葉に反対しなかった。
 むしろ、まさしくその通りだと思っていた。


 華奢な身体をしたアイリが、土気色のティファをしっかりと抱きしめている姿は、まるで一枚の絵のようだった。
 神聖にすら見えるその光景に、誰もが息を飲んでジッと見つめている。


 ……と…。



 ピッ…………ピピッ………………………ピッ……ピッ……ピッ……。



 大きく一度、心電図から流れる音が乱れた。
 そして、それを最後に…。


「「「「ティファ!?」」」」


 見る見るうちに、ティファの顔から『死』が遠のいていく。
 土気色だった顔色に朱が差し、顎を使っての呼吸が自然な「スー…スー…」というものに変化した。
 そして、なによりも…。

「お、おい!」

 バレットが震える指で心電図を指す。
 モニターに映し出された血圧と酸素濃度は……正常値を示していた。


「うそ…」「マジかよ…」「…夢…じゃないよね…?」「…奇跡だ…」

 ユフィ、シド、ナナキ、ヴィンセントがそれぞれ驚きの声を漏らす。
 そして、いまだにティファを庇うようにしてしっかりと抱きしめているアイリを見た。


 どう考えても、アイリがティファを助けたとしか考えられない。
 アイリが来るまで、ティファにこの様な奇跡が起こるとは想像すら出来なかったのだから…。


「天使…」

 シェルクが畏怖の念を込めて呟いた。
 皆、目の前の奇跡に呆然としていたが、シェルクの言葉にそれまで抱えていた『負の感情』がスッと消え、代わりに言い表せない歓喜が胸一杯に広がった。
 あまりにもその喜びが大き過ぎて…。
 目の前で起こった奇跡が神聖で壮大過ぎて…。

 全身に鳥肌が立つ。

 英雄達はただただ、黙って歓喜の感情に浸っていた。
 そんな中、クラウドは泣きながら子供達に抱きつかれても尚、その『奇跡』を前に戸惑っていた。

 全てが夢を見ているようだ。
 ティファが死に瀕するほどの怪我を負った事も…。
 こうしてアイリがティファの命を救った事も…。
 ここに……病室に自分達がいると言う事も…。
 全てが……。

 嬉し泣きに咽ぶ子供達を抱きしめながら、クラウドはただただベッドに横たわるティファと、彼女を『死』から守るべく両腕にしっかり抱きしめるアイリの顔を見つめていた。



 しかし…。



 シェルクが例えた『天使』は、目を閉じたままティファを抱きしめ続け、動こうとしなかった。
 ティファの呼吸は今ではすっかり落ち着き、ただ眠っているだけに見える。
 それなのに、アイリは微動だにしない。
 それどころか、どんどん彼女の顔色は、先程のティファのように土気色になっていく。
 その彼女の変化に当然『奇跡』を目撃した部屋にいた全員が気付いた。
 息を飲み、別の恐怖に打ちのめされる。

「お、おい……何か……顔色悪くねぇか……?」
「ちょ、ちょっと……お姉ちゃん…!?」
「アイリ姉ちゃん!?」

 バレットと子供達が慌てて濡れたままのアイリに触れる。
 ゾッとするほど冷えた肢体に、子供達とバレットは大きく目を見開く。
 驚き過ぎて危うく大声を上げそうになり、三人は息を飲んだ。
 バレットはアイリをティファから引き剥がそうとしたが、どこにそんな力があるのか頑としてアイリはティファから離れなかった。
 華奢な身体からは到底信じられない力に、全員が戸惑い、そして激しい焦燥感に駆られた。

 何故かは分からないが……。
 とてつもなく『危険』な香りがする。
 早く止めないと……!!
 その一心で、バレットはアイリの細腕を掴み、引き剥がそうと格闘した。

 ティファの命が助かったという幸福感に、一人浸りきれていなかったクラウドは、戸惑うばかりでその光景を見つめる事しか出来ずにいた。
 そんなクラウドを尻目に、仲間達と子供達が益々慌ててアイリをティファから離れさせようとしている。
 ところが、巨漢のバレットが……長い槍を軽々操るシドが……いくら引き剥がそうとしても、アイリはティファから離れなかった。
 その光景に、ユフィとナナキはオロオロとするばかりで、仲間達やクラウドへ視線を忙しく移している。


「まさか……」
 何かを察したのか、シェルクが息を飲んだ。
 皆の視線がシェルクに集まる。
 そして、そんなシェルクの隣にいたヴィンセントも、シェルクと同じ結論に達したらしい。


「ティファの『身代わり』に…!?」


 シェルクとヴィンセントは顔を強張らせてアイリを見た。
 その二人の言葉と表情に、子供達と英雄達、そしてクラウドもギョッとした。

 シェルクとヴィンセントの言葉で、それまでぼんやりと『夢うつつ』な状態だったクラウドは、我に返ると慌ててアイリの白く細い腕を掴み、彼女をティファから引き離そうとした。
 バレットがアイリの腰に腕を回して持ち上げようとする。
 ところが、どうした事かアイリの細い身体は全く持ち上がらない。
 まるで強力な磁石のようにティファに引っ付いている。

「おいおいおい…冗談じゃねぇぞ!?」
「ダメだよ、アイリちゃん!!このままだとアイリちゃんが死んじゃうよ!!」
「ああああ…ダメだったら!!ティファもアイリも死んじゃダメだったら〜!!!」

 シドとナナキ、そしてユフィが必死にアイリに訴える。
 それでもアイリは全く動こうとしない。
 いや…。
 聞えているのかも分からない。
 それほど、彼女は全く反応が無かった。


「アイリさん!ダメだ!!!」


 クラウドが半ば叫ぶように声を上げた。
 その時。


 カッとアイリの瞳が見開かれ、ガシッとクラウドの手を掴んだ。
 そのまま驚き固まるクラウドの左手と、ティファの左手を握らせる。



「絶対に……離さないで……」



 初めて聞く彼女の言葉に……。
 全員が驚愕する。

 そして…。



「ボルワ……ウワヒロ……ニュフウフダ……カサンモオユ……」



 謎の言葉をクラウドにかけた直後、アイリの魔晄の瞳から光が消えた。




 トサッ…。




 軽い音を立てて…。
 彼女の身体は…。
 皆の目の前で…。
 病室の床に………。



「「「「「「アイリ!!!!」」」」」」


 悲鳴のような声が病室を震わせた。



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