「くそっ!どこ行った、ティファ!」

 大きなバイクのエンジン音が妙に耳に響く。
 こんな夜更けに近所迷惑以外の何者でもない。
 だが、掻き立てられるようにクラウドは愛車を走らせた。

 魂が千切れ、心が今にも死んでしまいそうな顔をしていたティファが瞼の裏に焼きついている。

「ティファ!」


 ポツリ…。


 低い雷鳴と共に頬に冷たいしずくが当たった…。







瓦解の音が聴こえる…。7







 ― 『私……エニスのことも……愛してるんだもの…』 ―





 ティファは、先ほど己が口にした言葉を何度も何度も頭の中で反芻させながら、闇雲に走っていた。


 とうとう言ってしまった…。


 自分の中に生まれていた感情。
 気づかないように心の奥底に、小さな箱へしまいこんで鍵をかけていた感情。
 気づいたら、自分が壊れてしまうことが分かっていたからこそ、無意識にしまいこんでいた『真実』。

 なんと言うことだろう…!
 この自分が!
 クラウド以外、誰も『異性』として見たことなどない自分が!!
 たとえ、クラウドに浮気をされたとしても、自分は絶対に他の男性に心を奪われることはないと自負していたこの自分が!


「サイテーよ…、ティファ」


 ジクジクと傷が痛む。
 素足に出来た傷と、心の傷と…。

 今までの人生で、己を嫌悪したことは何度かあった。
 だが、これほどまでにおぞましく感じたことはない。

 なんということだろう…!
 本当に…なんということだ!!

 エニスの前で、クラウドに抱きしめられてしまった。

 彼の安堵したような表情の奥深くに覗いた、焦がれんばかりの自分への想い。
 スカイブルーの瞳に宿った言い知れない切なさの色。

 あの時。
 パニックになってしまったティファを落ち着けようと、クラウドがしっかりと抱きしめてくれたあの時。

 ティファの中を駆け巡ったものは…。



 エニスの前で抱きしめないで!!



 クラウドを拒絶する強い思い…。

 それが、三重にティファを苦しめていた。

 クラウドを裏切ってしまったという大罪。
 エニスを新たに傷つけてしまった大罪。
 そして…。
 二人の気持ちに応えることが出来ない滑稽で愚かな自分という、存在。

 一番愛しているのは勿論、クラウド。
 だが、これまでの人生であり得なかった、『二番目に愛しい男性(ひと)』が生まれてしまった。
 そして、そのあり得なかった存在が生まれてしまったことに対し、激しい嫌悪を己に抱く一方で、どうしても二番目を切り捨てられない!と心が悲鳴を上げているのだ。

 今。
 こうして雨に打たれることが出来るのも、『あの日々』を乗り越えたお陰。
 クラウドがいないという『空白の日々』を埋めてくれる存在があったからこそ!
 とてもじゃないが、切り離せない…。

「サイテーよ…ティファ…」

 ポツリ。
 呟いたのをきっかけとするように立ち止まった。
 いつの間にか、真っ暗な夜の空から雨が降り注いでいた。
 ティファは空を見上げ、まるで今の自分のようだ…と思った。

 星明り一つない、真っ暗な空…。

 自分に『幸せと言う灯り』は相応しくない。
 むしろ、この夜空のように、灯り一つない真っ暗闇が相応しい…。

 走っていたから熱くなっていた身体も、降り注ぐ冷たいしずくにすっかり冷やされ、悪寒を感じさせる。

『このまま…雨と一緒に大地に溶けてしまえたら…!』

 情けなさ過ぎる弱い自分に、ティファは力なく座り込んだ。
 地面に出来た水溜りに身を沈めるように…。

 ガチガチ…と、歯が鳴る。
 寒くて…凍えそうなのに…。


 ― 『助けて』 ―


 救いを求めて、気づいたらエアリスの教会にたどり着いていた。

 それなのに…。


「ふふ……『助けて』だなんて……よくも言えたわね、ティファ…」

 たった先ほどまで魂が救いを求めて悲鳴を上げていたが嘘のようだ。
 この孤独で、寒い環境こそが、己には相応しい…。


 ― 『『『ティファ!』』』 ―


 久方ぶりに会った親友の悲鳴のような呼び声と、耳の奥にこだまして離れないクラウドとエニスの呼び声が絡み合う。


「もう……ダメなんですよぉ…」


 嘲るように唇を歪め、ティファはそのまま気を失い大地に突っ伏した。
 そして、ゆっくりと目を閉じる。
 あっという間に全身濡れ鼠だ。
 ティファは哂った。

 このままこうしていれば、少なくとも朝を迎える前にはどうにかなっているだろう……と。
 今、最愛の人達がどれほど心配してくれているかちゃんと分かっている。
 だが、どうしても自分が許せなかった。
 生きて贖罪の道を選ぶという選択肢が微かに脳裏を掠めたが、すぐにそれは彼方へと消えた。
 一体、どうやって償っていけば良いのかさっぱり分からないのだから…。
 生きてさえいたら何らかの形で償うことが出来るかもしれない。
 しかし。


『このまま消えてしまったら、二人は『私の死』以外に苦しむ理由はないわよね…』


 生きていたら。
 きっと、もっともっと、クラウドを傷つけ、エニスの心を弄ぶことになる。
 幸い、二人には自分の気持ちはまだ気づかれていないだろう…。

 ならば!!

 このまま、消えてしまった方がうんと良い。
 ティファ・ロックハートが死んでしまったという事実は、二人の心を酷く傷つけるだろうが、それも時間が経てば癒されるはず。
 それに…。


『私は…愛される資格なんか……ないんだから……』


 二人の青年に強く心を惹かれるなど、あってはならない。
 禁忌を侵した罰は『死』以外考えられない。

 打ち付ける雨に、体温が急速に奪われる。
 冷たい大地に頬を寄せ、ティファは哂いながら意識を手放した…。


 いや…。


 手放そうとして…。


 ピク。


 頬に振動が伝わってくる。
 何かが近づいているのだ。
 段々と近づくその物体に、ティファはノロノロと顔を上げた。
 遠くがぼんやりと光っている。
 光が二つ。
 車のヘッドライトだ。

 このままここに横たわっていると、確実に轢かれるだろう。

 ティファは迷った。
 どうせ死ぬつもりなのだから、このままここにいたら良い…。
 だが、運転手の人生はどうなる?
 人を轢き殺してしまったとなると、その先の人生、一生涯重い十字架を背負うことになる。

 ティファは達した結論に眉を顰めながら、ノロノロと身体を反転させた。
 水溜りの中をゴロリ…と転がったせいで、全身がくまなく泥まみれになる。
 車のヘッドライトはティファに近づき、ティファは眩しさから目を逸らした。
 そして、一瞬、不安に駆られる。
 もしも、運転手が自分に気づいて車を停めたらどうしよう…?
 ティファはその可能性に溜め息を吐き出した。
 そうなったらその時だ。
 足の傷は酷く痛んで、運転手を払いのけて逃げることは叶わない。
 なら、大人しく…、『モノ』のように身動きさえしなければ、見つかることはないかもしれない。
 見つかったら見つかった時だ…。

 色々とシミュレーションを立てている間に、ヘッドライトはティファを照らし、スピードを殺さずにそのまま走り去った。

 ベシャッ!

 車が泥を跳ね飛ばし、ティファの横っ面に景気良くかかる。
 口の中に入った泥を吐き出し、ティファはホ〜ッ……と、安堵の溜め息を吐き出した。


 見つからなかった。


 脱力して仰向けに大地に横たわる。
 真っ暗な空には、時折稲光が走って空を引き裂いている。
 とても…幻想的に感じるのは、自分の環境が特殊だからだろうか…?

 自然のシャワーを浴びながら、ティファはゆっくりと目を閉じかけて…。


 ピク。


 またもや振動を感じる。
 しかも今度は、

 キュキュキュキューーーッ!!

 という、タイヤの悲鳴付きだ。

 確認する暇もなく、ティファの目の前に先ほど通り過ぎた車が急停止した。
 ヘッドライトに照らされてティファは顔を顰めながらゆっくりと上体を起こした。
 逆光で良く見えないが、誰かが慌てて運転席から飛び出してくる。

 一瞬、脳裏に『私、ちょっと酔いを醒ましてるんです、気にしないで』という、陳腐な言い訳が浮かんだ。
 だが…。


「ティファさん!何してるんですか、こんなところで!!」


 ティファは息を飲んだ。
 耳に飛び込んできたのは、紛れもなく先ほど自分の秘めたる想いに気づかされた相手で…。
 今、最も会いたくない存在の一人だった…。

 考えるよりも身体が先に動いた。

 たった今まで、じわじわと死ぬために力なく横たわっていたと言うのに、エニスから逃げ出そうと全身に力が走った。
 勢い良く立ち上がろうとして、両足裏に激痛が走る。
 前につんのめって転倒し、泥水を派手に被った。
 だが、そんなことに気をとられることもなく、ティファはもう一度足に力を入れた。
 その間、僅か数秒。
 そして…。

「なにやってるんです!」

 背後から思い切り抱きしめたエニスは、呆気なくティファの全身から力を奪った…。

 クラウドとは違う香り。
 クラウドとは違う腕の感触。
 クラウドとは違う温もり。
 クラウドとは違う吐息。

 その全てがティファを侵食する。

「本当に…なに考えてるんですか!」

 血を吐くような掠れた声。
 ティファの目から大粒の涙が零れる。

 そして…。

 ティファは初めて、クラウド以外の男性の腕の中で泣いた…。


 *


「さ、約束どおり、ちゃんと温まって着替えて下さい」

 そう言ってシャワーを勧めるエニスに、ティファは困ったように眉尻を下げた。
 どう考えても、エニスもずぶ濡れで風邪を引くには絶好の状態にある。
 だが、この目の前の青年は、簡単にタオルで頭を拭いているだけで、頑としてティファを先に温もらせると言い張った。

 どう贔屓目に見ても、青年の方がティファよりも体力がなさそうだ…。

 だが、結局ティファはおずおずと頷いて浴室のドアを開けた。
 青年の頑固さには勝てない、と思った。
 中に入る前にもう一度不安そうにエニスを振り返る。
 青年は苦笑した。

「大丈夫です、覗きませんから」
「そ!そんなことを心配してるんじゃ!」
「はい、分かってます。ティファさんがしっかり温もった後で僕も入ります」

 ニッコリ笑って真っ赤になったティファを見つめる。
 その表情は、先ほど青年が見せてくれた切羽詰った表情とはかけ離れている…。
 いつも通りの…、ティファの好きな微笑みだ。

 ティファはドギマギしながら、視線を逸らしてサッ…と浴室へと身を滑らした。
 完全にドアを閉める前に、エニスの軽い笑い声が聞こえ、ティファの心に灯りと後ろめたさの相反する感情を与えた…。

 WRO支部近くにあるアパートの浴室は、セブンスヘブンと同じくらいの広さだった。
 広すぎず…、狭すぎず…。

 ティファはゆっくりと浴室を見渡すと、その片付いている様子に目を細めた。
 実に青年らしい…と思ったのだ。
 これが、クラウドの一人暮らしだと、どこに何があるのかゴチャゴチャだろう…。

 そう思って…。
 ティファは己の心に新たな傷を作った。

 たった今、考えたことを忘れようとするかのように、ティファは手早く衣服を脱ぎ捨て、シャワーを浴びた。
 熱い湯はとても心地良く、全身の緊張感が抜け落ちてくれるようだ。
 それに伴い、足の痛みがいよいよ本格的になってきた。

 生きている証…。

 たった30分前に、死のうとしていたと言うのに…。
 ティファは哂った。
 己の滑稽さに…哂わずにはいられない。
 結局、自分は弱い。
 目の前に差し伸べられた手を握らずにはいられなかったのだから…。


 病院の窓を突き破って逃げ出したティファを、クラウドは追って飛び出した。
 その後、青年は病院に取り残される形になってしまった子供達をセブンスヘブンに送ってくれたのだ。
 そうして、その後にティファはエニスに発見された。


 降りしきる雨の中、強く抱きしめてくれた彼の腕の温もりを思い出し、胸がギュッと詰まる。


 あの後。
 我に返った青年は、己のしでかした不埒な行いを最敬礼でもって詫び、次いですぐにクラウドへ電話をかけようとした。


『待って、お願いだから!!』


 その腕にしがみ付き、クラウドへ連絡しないように必死になって頼んだティファを、エニスは困惑と躊躇いで大いに迷った。
 だが、結局はティファの願いを聞き入れ、こうして自分が寝泊りしているアパートへ連れてきてくれたのだ。
 必死に頼み込むティファに、尋常ではないものを感じたのだろう…。

 そして、彼女の条件を飲む代わりに彼が出した条件が…。


 ― 『ひとまず、僕のアパートでしっかりと温もって、足の手当てをさせて下さい』 ―


「…ふふ…、どこまでもお人よしで……バカ……なんだか……ら……」


 シャワーに打たれながら…。


 ティファは泣いた…。