涙 3



 ユフィは目の前を歩く人影を見失わないよう、廃屋の梁(はり)から梁へと身を預けながら宵闇の中を進んでいた。
 忍たる者、夜目も利くよう訓練をしている。
 小さい頃、忍としての才能を発揮していたにも拘(かかわ)らずユフィは修行が大嫌いだった。

 ふと、その当時のことを思い出し、うっかり自分が今、目の前の直面している緊迫した状態を忘れそうになる。
 軽く頭を振ると、また梁から梁へと軽やかに身を滑らせ尾行を続ける。

 眼下を行く人影は、この闇の中を廃材に足を取られることも迷うこともなく、確かな足取りで歩を進めていた。
 ユフィの胸に、抑えようのない確信がこみ上げる。

 思えば3ヶ月前に見たあの女を否定しようとベッドで1週間、悶々と悩んでいた時間はなんとも無駄であった。
 否定など、出来ようはずもなかったのだ。
 女が使った武器は紛れもなくウータイの手裏剣。
 それだけではない。
 女を初めて見たあの瞬間、驚いたのは女が”アイツ”だったというそれだけではなく、女を庇うようにして自身へ向けられた身も凍るような”殺気の主”に覚えがあったからだ。

 そんなはずない。
 あるはずがない。
 あの”殺気の主”がそうであるはずがないのだ。

 その思い1つで、ユフィは女を初めて見たあの3ヶ月からこっち、WROの正式な任務以外にずっと女の居場所を探ってきた。
 居場所を探り当ててからはその動向を探り、己の中に浮かんだ1つの可能性を否定するためだけと言っても過言ではない独自の隠密行動にひた走った。
 その結果は散々だ。
 女が”あの女”であると裏付けていくものばかりをユフィの前に次々提示してくれていたのだ。

 WROの潜伏任務に着いてから初めての失態を晒してしまったあの瞬間に向けられた”殺気”はあれきりだった。
 しかし、女を探っている間、”殺気の主の気配”は絶えず付きまとっていた。
 ”殺意”を込めていない”気配”のみが、女の傍には絶えず放たれていて、その”気配”は、忘れようとしても忘れられない遠い過去からの声を思い出させた。
 女を眼下に見下ろしながら後を追っている現在(いま)も身に纏わりついてくる”気配・視線”はユフィを目に見えない鎖で縛り上げようとするかのようだ。

 そう、バレているのだ自分の行動は。

 まるで、『お前は全く成長していない』と、冷酷な言葉と共に”無能者”としてのレッテルまで貼ろうとしているかのように…。

 ユフィは唇をかみ締めた。

 まだ…まだだ。
 まだ勝負はついていない。
 忍が敗北する時は、己が仕えている組織や主が消されてしまった時だ。
 即ち、それはユフィにとってWROが壊滅したとき、あるいはWROのトップであるリーブが死んだ時以外ありえない。
 例え、ユフィが死んだとしてもリーブが、そしてWROが存在し続ける限り、ユフィは負けていない…。

 だから。

 女が足を止めた。
 行き止まりになったその建物の最奥で。

 行き止まりとは言え、天井にはまるで落石にでもあったかのような大きな穴が開いており、月光が惜しげもなく注いでいる。
 薄暗い廃屋の、その部分だけが妙に明るくて、自分が尾行していた女の姿を妙に神々しく浮かび上がらせていた。
 むき出しの鉄骨は、3ヶ月前にしでかしてしまった大失態のあの情景を思い起こさせるには十分過ぎる。
 勿論、今いるこの廃屋はあの建物とは別だ。
 神羅時代が崩壊した後、世界にはこの手の放置状態の建物が多くある。
 その建物に、ゴロツキが居座るようになるのも自然のと言えるかもしれない…。
 ガラン、とした寒々しい広大な部屋の窓ガラスは割れて中途半端に残り、月光を受けて鈍い色合いの光を反射させている。


「ねぇ、ちょっと。いつまでこんなくだらない追っかけっこしてるつもり?」


 突然、女が口を開いた。
 明らかにその言葉はユフィへと投げかけられている。
 これ以上、隠れているなど無意味…。
 ユフィは女の背後10メートルのところへ舞い降りた。

 微かな着地音が女の耳に届いたのか、女はゆっくりと壁に向かっていた身体をユフィへと向ける。
 口元には笑み。
 意外にもその笑みは親愛の情と呼べるものだった。

 黙って対峙するユフィに、女は弧を描いた唇を開いた。

「久しぶりね…ユフィ」
「…3ヶ月前に会ったばっかだろ」

 自分の名を呼ばれた瞬間、ユフィは己の中を静電気のような微かな衝撃が走ったのを感じた。
 しかし、それをおくびにも出さずに女を睨みつける。
 女はそんなユフィを鼻先で笑いながら、
「相変わらず、口の汚い子ね」
 そう言って斜に構えた。
 ユフィの全身に力が入る。
 だが…まだだ。
 まだ、武器を手に取るのは早い。
 焦りのまま行動することは愚かだ。
 これ以上、失態を重ねるわけには行かない。

 ウータイの忍として。

「それにしても、ほんとに大きくなったわね」
「なんでアンタが生きてる」
「亡くなったお母様に生き写しじゃない、良かったわねユフィ。お父様に似なくって」
「1年前から断続的に起きてる無差別殺人や各地で起きてる幼児誘拐はアンタたちの仕業なんだろ?」
「それに、”忍”の腕も上がったじゃない?あんなに修行嫌いだったのにね。”あれから”頑張ったのかしら?」
「それから…WRO隊員たちへの襲撃……殺傷事件も…アンタたちの仕業だろ!?わざわざ非番の隊員を付け狙ってさ」
「でも、まだまだ甘いわよね。もう少し、忍耐力をつけないと」
「隊員の…その家族にまで手を出しただろ…!?まだ小さい子供もいたのに…」
「”忍(しのび)”は忍耐力がなにより大事なのよ?耐え忍び、数少ない好機を伺い、それが訪れた刹那のひと時も逃さない…、それが忍。いつも言われてたでしょ?ユフィ、アナタは忍耐力が足りないの」
「質問に答えな!!」

 ユフィはまるでかみ合わない会話に苛立ちを発したが、女はどこまでも余裕で、ユフィとの会話とも言えないやり取りを苛立つよりも、むしろ楽しんでいた。
 そうして、ユフィの苛立ちを煽ることに成功したことを黒い喜びでもって味わっているようだった。
 いや、実際味わっているのだ、この無駄とも言える言葉の応酬を。

 口元にほっそりとした指先を添え、嫣然とした笑みを浮かべる。

「ユフィ、あなた大きくなったようでいてもやっぱりまだまだ子供ね。いつまで経ってもあの頃のまま」

 揶揄するかのようにゆっくりとした口調で言葉を紡ぐ。

「あの頃のままね、可愛くて愚かなユフィ。自分の才能を過大評価し、周りの人間を過小評価する…。本当に愚かで可愛い、ちっちゃな子」

 一瞬、カッ!と頭に血が上りかけるがユフィは奥歯をかみ締めてその怒りをやり過ごした。
 肩を大きく上下させ、怒りを己の中から追い出そうとする。
 そう、今は怒りに我を忘れている場合ではない。
 それ以上に、自分には聞かなくてはならないことがある。
 この女から、確かめないといけないことがあるのだ。

「……アンタが生きてるってことは……まさか…」

 押し殺した声は僅かに震え、ユフィの心情を如実に物語っている。
 それを女はあざ笑うかのように…、ユフィの苦悩を心から愉しむように悦に入った笑みを浮かべた。
 その姿はまるで、獲物を前に舌なめずりする雌豹のようだ。
 いや、まさしく獲物に狙いを定めた獣だった。
 女は恍惚の笑みを浮かべるとユフィのほんの僅か斜め後ろの虚空を見つめた。


「えぇ、生きてるわ」


 瞬間。

 ユフィは全身に駆け巡った言葉に出来ないほどの悪寒にビクリッ!と全身を引き攣らせ、直後に右へと身を投げ出して”それ”をかわした。

 空気を裂く音を聞きながら二転、三転とコンクリートむき出しの冷たい床を転がる。
 両腕の力だけで跳ね上がると、ユフィは腰に携帯していた手裏剣を手に構え………固まった。

 女の前に、いつの間にか男が立っていた。
 肩幅程度に足を開き、丁度戻ってきた巨大手裏剣を何の気負いもなくその手に収める。
 日に焼けた肌はすらりとして無駄が一切ない。
 精悍な顔つきは、記憶の中の彼の面影を残していた。
 しかし、少年と青年の狭間のひと時をユフィの前で過ごした男と同一人物のはずなのに、そう思えない…、信じたくない気持ちが抑えられない。
 ユフィの気持ちが揺れていることを男は正確に見抜いた。
 嘲笑することなく、ただ傲然とそこに立ち、見下すように口を開く。

「久しぶりだな、ユフィ」
「…リューガ」

 声が震える。
 ユフィの意思を無視して喉の奥がひくり、と引き付けを起こす。
 唇が戦慄(わなな)くのを抑えられない。
 いっそ、『滑稽だな』と言葉にしてくれた方がありがたい、と思えるほどの無様な自分を自覚する。
 言葉にしてくれたら、腹を立て、この躊躇いにも似た臆病な自分を吹き飛ばすことが出来るだろうに…。

 リューガ、と呼ばれた男はユフィから目を逸らせずに両目を眇めると、
「ふん…久しぶりにその名で呼ばれたな」
 特に感慨などない口調で淡々と言った。

「どうして…」

 ここにいる、と言いたいのか、それとも”生きている?”と問いたいのか自分自身でも分からないまま、中途半端に口を閉ざしつつ、身体の奥底からぞわぞわとした悪寒がこみ上げてくるのを必死にやり過ごす。
 この場にいることがどれほど自殺行為なのか、十分過ぎるほど分かっていた。
 今すぐ背を向け、逃走を図るべきだ。
 しかし、同時にそれが成功しないことも分かっていた。
 なにしろ、ユフィは少しも気づかったのだ、自分が尾行されていることに。
 目の前の獲物(ターゲット)を追うことしか頭になかったとは言わない。
 自分が尾(つ)けられていないか、常に周りの気配に気を配っていた。

 なのにこの有様だ。
 まんまと誘(おび)き出されて、窮地に立たされている。

 いや、心はずっと警鐘を鳴らしていたのに無視をしたのだ。
 この3ヶ月という間、ずっと女を独自に追いながら隙を伺っていたのに、全くと言って良いほど女は完璧だった。
 わざと姿を見せ、尾行しやすいように隙を作って偽の情報を掴ませようとしたことが何度有ったことか。
 その都度、ユフィは”きな臭い”ものを嗅ぎ取り、寸でのところで身をかわし続けていた。
 それなのに、今夜に限って女はいつも以上にユフィを引っ張った。
 尾(つ)けやすいように適度に歩調を強めたりして、尾行に警戒しているフリを演じていた。
 それが、この廃屋に入ってからパタリ、と演技をやめた…。

 その時点で引き返すべきだった。
 だが、どうしても出来なかったのだ。
 その理由が…目の前にいる。

「罠、と分かっていてここまで着いてくるとは、お前の好奇心は普通の人間ならば上昇志向と取られるかもしれん。しかし”忍”としては失格だ。危険を感じ取ったら即座に任務を中止し、身の安全を確保する。万が一、敵に捕まったならば、即自害する。敵に情報が洩れるのを防ぐために…」

「それが忍の鉄則だろう、忘れたのか?」


「ユフィ」


 饒舌に語った後、重々しく名を呼ばれてユフィは震える唇をギュッとかみ締めた。
 こみ上げてくるものが一体なんなのか、自分自身にすら分からない。
 ただひたすら、目に力を込めて男を睨みつけ、震えそうになる指先を拳に握る。
 怒鳴りつけて、その小憎たらしい冷たい仮面を引っ剥がしてやりたい。
 しかし、口を開いて出てきたのは、頼りなく、少し上ずった声だった。

「何でWROを狙う?」
「それを聞いてどうする?」
「アンタは…!アンタは…なんで…」

「ユフィ、お前は本当に変わらないな。己の中にない考えに対して『どうして?』『なんで?』とそればかり。相手の…、特に”敵”の考えを聞いてどうする?それでお前は自分が”こう取る”と決めた行動を変えるのか?」

 逆に訊ねられてユフィは言葉に窮した。
 息を呑むようにして口を閉ざしたユフィに、男は無表情のまま手にしていた手裏剣を胸の前に掲げた。
 同時に叩きつけられるほどの殺気に全身の筋肉が強張る。
 腰に帯びている手裏剣へ回したままの腕すらも動かない。

 まさに、蛇に睨まれた蛙。

 硬直しながら、それでも睨みつけることだけはやめないユフィの額から頬にかけて冷や汗がツーッ…と流れる。
 それを見つめつつ、
「それでも、”ウータイの忍”という誇りだけは捨てようとしない、その心意気は褒めてやる。あの頃のお前にはなかったのにな」
 嘲笑も、侮蔑も込めていない本物の称賛の言葉を口にした。
 しかし、殺気は緩むどころか身を傷つけんばかりに強烈になり、ユフィの身体から自由を奪い去る。
 男は掲げた手裏剣をゆっくりと構えると体重を片方の足へ移動させた。


「幼馴染のよしみとして、せめて苦しまないように殺してやる」


 言い終わるや否や、男は腕をまるで鞭のように振るった。
 空気を切り裂き、巨大手裏剣が真っ直ぐ眼前へと飛んでくる。

(避けなくては!)

 頭では分かっている。
 しかし、身体が動かない。
 ただの一投で殺されてしまうことを甘受するというのか、この自分が?
 ダメだ…!
 ダメだ、ダメだ、ダメだ、ダメだ!!

 やけに景色がスローモーションに映り、旋回する手裏剣の刃の一枚一枚までもが見えるようだ。

(くっそぉ…!!動け、このバカ!!)

 自分自身への激しい叱咤と共に、まるでそれが聞こえたかのように身体が大きく右側へと突き飛ばされた。
 自分が動いたのではない。
 突き飛ばされたのだ。

 驚愕のあまり、無様に床を転がりそうになりながらも何とか体勢を整える。
 片手を着いて倒立姿勢になり、大きく後方へと跳ね上がってから男と自分を突き飛ばしたものから距離を取ったユフィは、目を見開いた。
 自分が先ほどまで立っていた場所では、WROの隊服に身を包んだ誰かが男と武器を交わしていた。

「!?」

 激しい鍔ぜりの音が廃屋に響く。
 男の手にもいつの間にか刀が握られていた。
 対する隊員の手にはクレイモア。
 月明かりに照らされて浮かび上がった隊員の瞳は…紫紺。

 驚き、青年の名を叫びながら駆け寄ろうとしたユフィは、先ほどまで黙って男に場を譲っていた女に阻まれた。

「クレハ、邪魔すんな!!」
「邪魔?するわけないでしょう、邪魔なんか」

 言いながら女は手首を閃かせた。
 握られていたのは小太刀(こだち)。

 ユフィを真っ直ぐ睨みつけ、なんの躊躇いもなく振り下ろす。
 それをユフィは腰に帯びていた巨大手裏剣で防ぐと思い切り押し飛ばした。
 軽やかに後方へ飛び退ると、女は小太刀を持っていない手を懐に差し込み、プライアデスとユフィの双方へ向かって投げつけた。
 まるで弓から放たれた矢のようなスピードでクナイが飛ぶ。
 瞬間、ユフィは巨大手裏剣を持っていない方の手首を振るいつつ身を捩った。
 乾いた音と共にプライアデスの背中へ飛んだクナイが弾き飛ばされると同時に、ユフィもクナイをギリギリのところでかわした。
 頬に一筋、赤いものが走る。
 それを確認するまでもなく、ユフィは手裏剣を女目掛けて放ち、同時に自分も女へ向かって猛然と駆け出した。



「ほぉ、中々腕を上げたな」

 何戟かの打ち合いを経つつ、男は丁度プライアデスの背後で女と激しい戦いを繰り広げているユフィに目を眇めた。
 感心している言葉にあるのは、淡々と事実のみを評する色だけ。
 ツイ…とその視線を己と刃を交わしている隊員へ向けると一気に押し返す。
 力負けして”たたら”を踏みながら、それでもバランスを崩すことなく体勢を整えたプライデスに、男はその姿にも感心したように「ほぉ」と呟いた。

「お前も中々のものだな」

 チャリ、と音を立てて刀を構える。
 一方、青年隊員の方は鋭く眼光を光らせながらも背後の戦いを気にして、目の前の敵のみに集中出来ないでいた。
 今回の”二重の尾行”は、リーブから命じられていたことではなく、独断行動。
 厳罰に処される可能性は高く、上司や同僚、そして部下からの信頼を根こそぎ失ってしまう大きなリスクを伴っている。
 だが、それでも青年は己を止める事が出来なかった。
 ユフィの様子がおかしいことは、隊員の中でもそんなに噂されているわけではない。
 一緒に任務に着いた隊員の極々一部のみの間で囁かれていた。
 その一部分の中に青年はいた。
 そして、つい昨日のことだ。
 WRO最高司令官であるリーブの元へ、仲間であるクラウド・ストライフが訪れたのは。

 プライアデスは確信した。
 リーブが何らかの処置を取るべく、行動に移ったのだと。
 それほど、ユフィは危険な領域に足を突っ込んでいると言うことになる。
 ならば。
 クラウドが自由に動けるようになるまでのほんの少しの間だけでもユフィをフォローしようと思った。
 誰にも相談せず、誰より信頼している従兄弟にすら打ち明けず、独り覚悟を決め、ユフィが怪しい行動に移ったその時、丁度自分の任務時間が終わったというなんとも恵まれたチャンスを逃すことなくユフィを尾(つ)けることに躊躇わなかった。
 だが、覚悟を決めた…とは言え、この状況にプライアデスは複雑極まりない心境へと追い込まれていた。

 まさか、ユフィの失態の原因が”幼馴染”にあるとは思いもしなかったのだ。
 ユフィのプライベートな部分に予想しなかったこととは言え踏み込んでしまった。
 しかし、同時に得心がいったのも事実だ。
 情に篤いユフィを知っていれば、3ヶ月前の大失態も納得がいく。
 そして、だからこそ青年は冷静ではいられない。
 ”幼馴染”という特別な存在に武器を向けるような状況からユフィを助けたかった。
 女に対峙したとき、そして男を前にしたときのユフィの姿から、ユフィにとって2人がただの幼馴染ではなく、とてもとても大切な位置を占めていることが分かる。
 分かるだけに、ユフィをこの戦闘から離脱させてやりたかった。
 ユフィをこれ以上、苦しめたくなかった。
 幼馴染がWROの…ひいては、自分の敵側だと知っただけでも苦しむには十分だというのに、こうして武器を交えるなど言語道断だ。

 だがしかし。

 息を止め、青年は後方へ飛んだ。
 それを一寸の隙間も広げることを許さない勢いで男が飛び、追いかける。
 まるで豹だ。
 狙った獲物をどこまでも貪欲に追い、仕留めるしなやかな獣。
 男の刀が一閃するのを視界の端に映し、咄嗟に手首を翻す。
 手首を伝って肩口まで重い衝撃が走り、思わず片目を瞑る。
 しかし、それでも眼光は緩めず、男の目から逸らさない。
 逸らしたら最後。
 背を向けたら最後。
 身体を真っ二つに斬られるだろう。

 それは強迫観念ではなく確信。

 この男に自分は勝てない。
 幾度も立ち位置を変え、武器を激しく打ち合わせ、隙を伺い攻撃し、何度も何度もユフィの元に駆けつけられる一瞬を作り出そうとする。
 それなのに、男はその都度残酷とも言えるほど的確、且つ上回った反撃、攻撃を繰り出してくる。
 認めざるを得ない。
 負けるつもりはないが、自分の力ではこの男を相手に勝利を収めることは出来ない。
 良くて…相打ち。
 しかし、相打ちになぞ絶対になってたまるものか。

 脳裏に薄茶色の髪を風に乗せ、紺碧の瞳を虚空に漂わせる”彼女”が浮かぶ…。

 鋭く息を吐き出し反撃に移る。
 足元の鉄骨を思い切り蹴って跳躍すると同時に手首を翻し、男の眉間を狙う。
 凄まじい剣戟の音が響き、弾き返されたが弾かれたその体勢のまま強引に身体を捻って振り下ろす。
 また弾かれる。

「いい攻撃だな。だが…」

 淡々とした口調に乱れはなく、ゾッとするほど冷淡な声音が鼓膜を打った。
 言葉を中途半端に切ったかと思うと、男は唐突に刀を持っていない方の手を振りかざした。
 その手には…巨大手裏剣。

 手首を閃かせた瞬間、空気を切り裂く恐ろしいまでの音が耳元を走り去った。
 身の竦むような恐怖に襲われつつ、ハッと気づいて背後を振り返る。
 そして、プライアデスはその目にした光景に恐怖のあまり目を見開き、何も考えずに飛び出した。
 その青年へ男の声が冷酷に追いかける。


「集中力に欠けているな、お前は」


 完全に無防備になった背に灼熱が走ったのはその直後。
 目の前が一瞬、真っ赤に染まり呼吸が止まる。
 だが、飛び出した勢いはそのまま殺さず、丁度こちらに背を向けて女と鍔ぜりの戦いを演じていたユフィの背に向かってクレイモアを投げつけた。

 乾いた音と共に巨大手裏剣の軌道が逸れる。
 同時にユフィが己が身に迫っていた危険を察知した。
 クレイモアのお陰で致命傷になる部分への軌道は逸れたものの、勢いを保ったままの手裏剣を身を捩って避ける。
 そして…、彼女の大きな瞳がめいっぱいに見開かれた。
 口を大きく開き、言葉にならない悲鳴を上げる。
 プライアデスに駆け寄ろうとして女に完全に背を向けた。
 女はその一瞬の隙を見逃さない。
 ユフィの背中目掛けてクナイを放つ。
 いや、放とうとした。
 それを阻んだのはまたしても青年だった。

 空手になったはずの青年の手には一丁の銃。
 急速に霞む視界に本能でトリガーを引く。

 女の腕に一筋の赤いものが走り、女は思わず腕を押さえて体勢を崩した。
 ユフィが思わず背後を振り返る。

 青年が見えたのはそこまでだった。

 己の意思を完全に無視し、足が前に出るのを拒む。
 下肢を中心に全身の力が急速に抜け、ドクドクと背中を走る激痛までもがどこか遠くへ霞んでいくようだ。
 右手に握っていた銃が強い衝撃で弾き飛ばされた感触を最後に、プライアデスは完全に意識を失った。



 ユフィは完全にパニックになった。
 目の前で青年はまともに地面へ倒れこんだ後、ピクリとも動かない。
 背中の傷は決して看過出来るものではなく、宵闇の中にあるというのに床へ血溜まりが広がるのが見て取れた。
 青年にユフィは駆け寄ろうとするも、当然敵はそれを許さない。

「心配しなくても、お前もすぐ後を追う」
「…っ!リューガ!!」
「お別れだユフィ。俺たちがウータイを正しい道へ導く姿を、星の中から大人しく見ているんだな」

 男の言った言葉の意味を全く理解出来ないまま、ユフィは大声で叫びながら真正面から突っ込んだ。

 死んでしまう。
 自分のせいで死んでしまう!
 ダメだ、ダメだダメだダメだダメだ!!

 誰も死んだらダメだ!
 どうか!どうかどうかどうか、神様!!


 冷静さを失ったユフィのなんの策もない渾身の一振りは、あっさりかわされ体勢が大きく崩れ、前のめりに転倒しそうになる。
 その無様な隙を晒したユフィを、男の強烈な蹴りが襲った。

 鳩尾(みぞおち)への一発。

 激痛と共に息が詰まる。
 筆舌しがたい苦痛、悲しみ、怒り、そして絶望。

 それらが一瞬のうちにユフィの中に爆発的に膨れ上がって駆け抜けた。
 ごちゃごちゃになって噴出した感情を何一つ明確に出来ないまま、ユフィは床へ倒れこみ、身を丸めて悶絶する。

 急速に全身から血の気が引き、視界が暗闇に覆われる。


 最後にユフィが見たのは、目の前で硬く目を閉じたまま真っ白な顔をしている青年と、近づいてくる男の靴だった…。