「そういうわけで、俺の逃亡計画は計画を立てる前に阻まれちまったんだよなぁ」

 空笑いでそう言ったザックスに、エアリスは何一つ言葉がなかった…。






人魚姫の恋 10







 ザックスの打ち明けたとおり、昼食後に婚約式が執り行われることとなった。
 その場に、何故かエアリスも列席を許された。
 どうやら、ザックス、クラウド両殿下の大切なお客人、ということで特別に参列することを許されたらしい。
 エアリスはとても複雑な思いで王と王妃の前に立つザックスを見つめた。
 王と王妃は、いつもの王の間、別名『謁見の間』で腰を下ろしている。
 そして、その両サイドには宰相のリーブと反対隣にクラウドが正装して立っている。
 何故か、王と王妃という重要ポストと同じ位置に、シャルア博士も豪勢な椅子に腰をかけていた。
 そのことをエアリスは少し疑問に思ったものの、それよりも目が引き寄せられるモノがあったので、深く考えることはなかった。

 クラウドは紺を貴重とした礼装に身を包み、いつもの彼よりもうんと素敵に見えた。
 しかし、エアリスの心はそんなクラウドよりも、無表情な『第一王子』としての顔をして立っているザックスに引き寄せられていた。

 やがて、重臣の1人が婚約者の準備が整った、と告げ、同時に大きなドアが開かれた。

 場がざわめく。
 ゆったりとした足取りで王と王妃、そしてザックスの元へ歩く美女に、誰もが目を見開いた。

 漆黒の髪を結い上げ、ティアラと髪飾りで美しく飾り上げ、凛とした茶色の瞳を真っ直ぐ前に…、ザックスへ向けて歩く美女。
 唇は自然な薄いピンクのルージュ。
 楚々としたその佇まいはまるで歩く大輪の花。
 スッと通った鼻筋、形の良い輪郭にすべての顔のパーツが程よくおさまっている…。

 ゆっくり、ゆっくり彼女は歩く。
 エアリスの前を通り過ぎたとき、フワリ、と香った彼女の香りにエアリスは心臓が飛び跳ねた。

(ティナ!?)

 大きなめがねをかけ、髪をひっ詰めてお団子頭にし、前髪までもピンで横わけにしてピッチリと留めていた彼女。
 その彼女がまさか、ザックスの婚約者とは!

 頭を強く殴られたような衝撃が走った。

 そしてそれは、王の隣に立っていたクラウドも同じだった。
 息を呑んで食い入るようにザックスの婚約者を見る。
 呆然としたその様子に、数人の重臣が気づいて不審そうに顔を見合わせた。
 クラウドの様子に気づいた者の中に、シャルア博士もいたが彼女は表情を全く変えず、淡々とした表情を崩さなかった。
 ティナはそのまま、ゆっくりとした歩調でザックスの隣に立ち、王と王妃を見上げるとスッと流れるような動作でドレスの裾を優雅につまんで一礼した。


「お初にお目にかかります。ハイウィンド王家、第一王女ティファにございます」

(ティファ…!?ティナじゃなくて!?!?)

 エアリスは混乱した。
 周りの参列者は、誰一人エアリスの混乱に気づかず、美しい王女に釘付けだった。
 ザックスですら、呆然と彼女を見つめている。
 紺碧の瞳が美しい女性をただ見つめている姿に、エアリスの心臓が悲鳴を上げた。

「ティファ姫、もうよろしいのか?」

 王の一言に、王女は頭を下げたまま答えた。

「はい。この城とこの国の温かさを十分拝見させて頂きました。ハイウィンド王家の者として、この国に嫁げること、誇りに思います。父や母もさぞ喜んで下さるでしょう」
「そうか。シド王とシエラ王妃はお元気か?」
「はい」
「それは重畳」

 王は隣に立っているザックスを見た。

「ザックス」
「はっ」

 声をかけられ、ザックスは視線を父王に移し、姿勢を正した。

「明日、ハイウィンド王と王妃がお越しになる。私と共にお出迎えをしろ」
「はい」

 有無を言わせぬ迫力に、ザックスはただ頷いた。
 怪訝な顔をしていたのだが、それはエアリスからは見えなかった。
 そして、見える位置に立っていたクラウドも、ザックスの隣に楚々として立つティナ、いや、ティファに目を奪われていたので全く気づかなかった。
 ただ、リーブとシャルア博士だけがザックスの怪訝な顔、そして、ティファの『王女』としての完璧な表情を見つめていた。
 その中、ヴィンセント王はまたもや口を開いた。


「明日、ハイウィンド王と王妃がご到着なさったらそのまますぐ、婚礼の式を挙げる」


 王の爆弾発言に、その場は騒然となった。
 ザックスもあまりの展開の速さにポカン…と口を開け、クラウドは大きく息を飲み込んだ。
 ティファ王女は変わらず微動だにしない。
 エアリスは、口々に賛辞を述べ始めた重臣たちに囲まれ、急にザックスが遠い存在になってしまったのを感じていた。


 *


「……エアリスさん…?」

 晩餐の後。
 部屋に1人でいるのも耐えられなくてエアリスは噴水のベンチに腰掛けていた。
 そよそよと夜風に頬を撫でられていると、昼間の衝撃が少しだけ和らぐような気がする…と、そんな感傷に浸っていた。
 そこへ戸惑いながらかけられた声は、一番会いたくなかった人…、ティファのものだった。
 ビクッと身を竦ませただけで、顔を向けることすら出来ずに硬直するエアリスの隣に、ティファはゆっくりした足取りで近寄り、腰を下ろした。
 フワリ、と夜風に乗ってティファのまとっている清浄な香りが漂う…。
 その香りまでもが恐ろしくて…、自分の中にわだかまっている汚いものを暴かれそうで、怖くて怖くて、エアリスは膝の上でぎゅっと手を握り締めたまま何も出来なかった…。

「ごめんなさい、びっくりしたでしょ?」

 苦笑交じりの謝罪。
 思いがけない言葉に驚いたが、それでもエアリスは自分の手を見つめるしか出来なかった。

「私もビックリ。まさか、こんな形で彼と再会するなんて思ってなかったし」

『彼』。
 ティファの言う『彼』が、クラウドを指していることに気づく。
 エアリスはそろそろ、と顔を上げた。
 寂しそうな横顔がそこにはあった。
 胸がチクリ…と痛む。

「私、彼がこの城に引き取られた、ってこと、ちゃんと知ってた。でも、まさか彼のお兄さんのお嫁さんになることになるだなんて、思いもしなかったわ…」
 ふふふ…。

 その微笑がとても寂しそうで、悲しそうで、エアリスの中にあった『わだかまり』が少しずつ氷解していく…。
 ティファは物言わぬエアリスに淡々と語った。
 まるで、これが最後…と言わんばかりに…。

「私ね。小さい頃は城下町で暮らしてたの。我が王家のしきたりで、10歳までは城下町で暮らして、民の心を肌で感じることが『英才教育』だったの。そこで…」
 クラウドに出会ったの。


 クラウドったらね。
 ほんっとうに乱暴者で、すっごく捻くれてて、いっつも1人だったの。
 でもね。
 彼、時々、とっても寂しそうで…気がついたらすごく気になる男の子だったわ。
 ある日ね。私が大切にしてた帽子が飛んでいっちゃって、沼の真ん中に落っこちたの。
 私、絶対になくしたくなかったから、1人で沼に入ろうとしたの。
 そしたら、クラウドがいきなり横から飛び出してきて、泥まみれになりながら帽子を取ってくれたの。
 それで、ビックリして何にも言えない私に、ぶっきらぼうに差し出して、何にも言わないまま帰っちゃった…。
 後で一緒に住んでた乳母に聞いたんだけど、クラウド、お母様にすっごく怒られたんですって。
 そりゃそうよね。
 沼ですもの。
 よく小さい子供がいたずらして入って、溺れたこともあるって話だったし、クラウドのお母様の立場に立ったら大切な息子がそんなことを!?ってビックリするでしょう?そうして、心配しすぎて二度としないように!って怒るのも当然でしょ?
 なんで沼に入ったのか、理由を聞き出すのも当然だと思わない?
 それなのにね…。
 クラウド、沼に入った理由、結局最後まで言わなかったんですって。
 乳母に『クラウドがどうして沼に入ったのか、いくら聞いても話してくれない。私の教育の仕方が間違ってたのかしら』って嘆いてらしたわ…。
 おかしいでしょ?クラウドったら、自分の不利にしかならないのに…、自分の『乱暴物』ってレッテルを剥がす機会だったのに、私の帽子のこと、言わなかったのよ。
 きっと、私が1人で沼に入ろうとしたことを乳母に怒られないために黙っててくれたのよね…。
 そのときに思ったんだ〜。
 将来、お嫁さんになるならクラウドみたいに、表には出さないけど本当はとても優しい『芯』の熱い人が良いなぁ…って。


 ティファの話はエアリスの心を掴むものばかりだった。
 時々笑いながら、懐かしみながら話してくれたクラウドの少年時代をエアリスは夢中で聞き入った。
 そして思った。

 本当は…、この城に『花嫁』として嫁ぐことが決まったとき、淡い期待を持ったんだろう…と。
 第一王子ではなく、第二王子の花嫁として、この城に迎え入れられるかもしれない…と。

 しかし、ちゃんと分かってもいたのだ。
 未婚の第一王子を差し置いて、隣国の王女が第二王子に嫁ぐはずはない…と。

 だから、せめて。
 せめて、『ティファ』という『王女』からは見られない『本当のバレンタイン王国』や『国の人たち』を見たかったんだ。
 だから、シャルア博士の遠縁ということにして、ひっそりと入城した。
『ティナ』としてこの城に入り、彼女自身の本当の目で見て『嫁ぐ』決意をした。
 だから…。

 エアリスは握り締めていた手をそっと開くと、震えがちになる指に力をこめてメモを書いた。
 ティファは、エアリスの文字を目で追うと、フッと微笑んだ。

「そうね。国王陛下には、『もう十分です』ってお話したの。だから、結婚式は当初の予定通り、明日ということになったわけ」
 エアリスは首を傾げた。
 ザックスは確か、あと5日後に結婚相手が来る…としか言っていなかったはず…。
 ティファは目を丸くして笑った。

「きっと国王陛下がギリギリまで私に時間を下さるために配慮してくださったんだわ。それか、ザックス王子にギリギリまで教えないことで、逃避行されないようにしたのか…、どちらかよね」

 クスッと笑ったティファに、きっと両方だ、とエアリスは思った。
 釣られるようにして微笑む。
 ティファは少しだけ眩しいものを見るかのように目を細めた。

「やっぱり…エアリスさんは綺麗ね」

 …。
 ……。

 ティファの一言が脳に浸透するまで時間がかかった。
 浸透すると、当然のように真っ赤になった。

 いやいやいや!
 何を言っているのか、この王女様は!
 自分よりもむしろ、ティファ王女の方が綺麗でしょうに!!

 それを慌てふためいてメモすると、ティファは声を上げて笑った。

「エアリスさんって本当に謙虚ね」

 いやあのね…。
 謙虚じゃなくて事実を言っているんだけど……。

 呆けるエアリスにティファは微笑むと、立ち上がって思い切り伸びをした。
 その無防備な『王女でない姿』に、エアリスは彼女が城下町で育んだ『逞しさ』を垣間見た気がした。

「クラウドの傍にいる女性(ひと)があなたみたいな人で本当に良かった。私、それだけが心配だったの」

 ハッと息を呑む。
 月明かりに照らされたティファの横顔は、透き通るほどに美しく、そして儚げだった。

「クラウドのお父様とお母様が事故で急死された後、暫くは彼、スカーレットって伯母様のお世話になったことがあるのよ。でも、その人、こう言っちゃダメなんでしょうけど私、大嫌いだった。バレンタイン王国に嫁がれたルクレツィア王妃とは雲泥の差。ルクレツィア王妃の弟君がクラウドのお父様なんだけど、元々庶民の出だったクラウドのお父様は、姉君であるルクレツィア様が王妃となられた後も『僕がえらくなったわけじゃないから』って言って、ずっと庶民の生活を貫かれてたわ。それなのに、スカーレットは、実際にはルクレツィア王妃と血がつながっていない遠縁のくせに、えらそうにふんぞり返っちゃって…」
 とと、呼び捨てにしちゃった。

 茶目っ気たっぷりで口元に手を当てたティファが、本当は笑っていないことに気づく。
 エアリスはつい先日、クラウドを脅迫していたスカーレットという女を思い出した。
 鼻につくほど、腹立たしい存在だった。
 クラウドの凛とした『金輪際かかわるな』と言い放った言葉を思い出す。
 その姿を思い出して、エアリスは慌ててそれをメモにした。
 ティファの服の裾を引いてそれを見せる。
 ティファは服を引っ張られた一瞬、奇妙に身体をこわばらせたが、すぐに柔和な微笑をエアリスに向けた。
 奇妙に身体を強張らせた彼女に、エアリスはハッとした。
 メモを読んで、
「クラウド…すごいじゃない!やっぱりやれば出来るのね、クラウドは」
 そう喜ぶティファの姿にも心は晴れなかった。

(そうよね。ずっと好きだった人の傍に知らない女がいて、面白いはずないじゃない…)

 自分の迂闊さに心底嫌気が差す。
 それなのに、ティファ王女はどこまでも明るく接してくれるのだ。
 きっと、エアリスがクラウドの隣に立ってこの城で生きる日が来る、そう考えている。
 将来、一緒にこの城に住む者同士、仲良くしていきたい、という願いのようなものが込められているはずだ。
 だから、クラウドへの想いを真正直に話してくれたし、ケリをつける、という意味でもエアリスへ全てを晒してくれたのだ。

(そうじゃないのに…)

 そうじゃない。
 クラウドの心には、ずっとティファがいた。
 ティファの心にずっとクラウドがいたように。
 それをなんと説明したら良い?
 もう、明日に迫っているのだ、ザックスとの結婚は。
 想っている人の兄に嫁ぐ決意を固めた『王女』に本当のことを教えて、それが彼女の幸せにつながる?

 エアリスは書きかけた『真実』を結局書くことなく、ペンを置いた…。


「ありがと、エアリス。おしゃべりに付き合ってくれて」

 ニッコリ微笑んだティファは、完璧に『王女』だった。
 エアリスも軽く深呼吸をすると『王女』の顔でそれに応えた。

「また、これからも仲良くしてくれる?」

 コックリ。
 笑顔で頷いたエアリスに、ティファはホッとしたような息をついて、心から嬉しそうに笑った。

「良かった!初めて会った時からすごくすごく『お友達になりたい』って思ってたから、本当に嬉しい!」

 あぁ…。
 エアリスは心の中で感嘆のため息を漏らした。

 こんなに強い女性がいる。
 こんなにも心を強く持って、王女の務めを果たそうと己の本心を抱えながら前を向いている人がいる。
 それに比べて自分は…。

 差し出された手をエアリスはそっと握り返し、彼女の温もりに確かな強さを感じてうっかり泣きそうになった。

 どれくらい経っただろう?
 ティファが去ってからもエアリスは彼女が立ち去った方を見つめて動けなかった。
 足がズキズキ痛んだが、それ以上に心が痛かった。
 クラウドを想いながら彼の兄に嫁ぐ。
 嫁いだ後も、彼の目の前で彼の兄の妻として生きていく。

 生半可な気持ちでは絶対に受け入れられない生き様だ。

(私は…)

 部屋に置いてきたナイフをぼんやり思い浮かべる。
 あれでクラウドを殺し、その血を浴びなくては自分は死んでしまう。
 実質、海底王国を維持するために必要な魔力を有しているのは自分だけ。
 自分の血を引く王家の世継ぎを産むことがエアリスの使命。
 王女としての務めだ。
 初めて心惹かれた男性(ひと)を自らの手で殺さなくては、王女としての務めを果たすことが出来ないとは、なんと滑稽か。
 それもこれも、自分の浅はかさが招いたこと…。
 しかし、その浅はかさのお陰で素敵な人たちと出会えたことは決して無駄じゃない。
 無駄じゃないのだが…。

(どうしたら…良いんだろう…)

 本当にこのまま、クラウドを殺すか自分が死ぬかしか選択はないのだろうか?
 ほかの道は本当にない?

 クラウドもザックスも…、ティファもバレンタイン国王も王妃も皆が幸せになる道は本当にない?

(…どうして私、他の道がないのか探そうとしなかったんだろう…!)

 ユフィたちに告げられたことがショックすぎて、他の道を探すという『選択』をしなかったことにようやく気づいた。
 ウジウジと悩んでいるより即行動!がうりだったはずなのに、なんと無様なことか。
 エアリスは大きく数回深呼吸をした。
 このまま終わりになんかさせられない。
 初めて出来た『地上の友人』のためにも、心惹かれた人たちのためにも、そして自分を愛してくれている人たちのためにも、自分自身のためにも…。

(探してやる!)

 二択の人生なんかまっぴらごめん!
 もっともっと、人生に選択肢はあっていいはず!というか、あるはずだ。

 エアリスは空を見上げた。
 満天の星空にぽっかりと浮かぶ美しい月。
 海面を漂いながら見上げていた月と同じ月。
 その月光を浴びながらエアリスは誓った。

 絶対にクラウドと自分が生き延びる道を探してみせる。
 それも、明日中に!

 なんとも無茶なことだが、やってやれないことはない!
 やるだけやって、もしもダメだったら諦めもつくが、何もしないままだと死んでも死にきれない。

 ティファの凛とした姿に触発されたかのように、急にやる気がむくむくと膨れ上がった。
 そのまま、意欲満々で足を踏み出す。
 だから、すっかり忘れていた。
 歩くたびに痛む薬の副作用が強くなっていて、昨日までとは比べ物にならない激痛となっていたことを。


(いったーーー!)


 思わず心の中で悲鳴を上げ、エアリスは派手に転倒した。
 転倒するはずだったのに…。


「おお…、間一髪!」


 しっかりと抱き止めてくれたザックスにエアリスは目を丸くした。