「それで、一番姉さまに言いたいこと…って言うか、お願いしたいことがあるの…」 いつにない真剣な顔をしたユフィに、エアリスはイヤな予感が急速に広がるのを感じた…。 人魚姫の恋 9「エアリス、大丈夫か?」 本日もう何度目か。 侍女にも、ザックス王子にも、そしてまた今、クラウド王子にも心配され、エアリスは作り笑い浮かべた。 昨夜、妹姫に告げられたことが頭から離れない。 ―『姉さまが飲んだ薬にはもっと恐ろしい副作用がある。今は、まだ足が痛いだけで済んでるけど、薬を飲んで一週間が経ったら急速にその痛みは増していく。歩いていなくても、動かさなくても痛み続けるようになる。その痛みがやがて、心臓に大きな負担となってしまって、姉さまは……近い将来、死んでしまうわ…」 ユフィの言葉が脳に浸透するのに時間がかかった。 しかしユフィは、エアリスが納得するのを待つ時間がなかったらしい。 矢継ぎ早に現状を告げた。 「いい、姉さま?このままだと、確実に姉さまは死んでしまう。それは私たちがどんな対価を払おうと避けられないことなの」 肩を強く掴んでユフィが顔を覗き込んだ。 エアリスは、悪い夢を見ているかのように虚ろな瞳で見つめ返す。 ユフィはエアリスを揺さぶりながら必死になって話を続けた。 「姉さまが死なないで済む方法はただ1つ!姉さまが人間になりたいと願った相手の心臓の血を浴びること…、それしかないの!」 今にも泣きそうな顔で、必死に現状を理解させようとした妹姫のその言葉。 エアリスはすぐ理解できなかった…。 何を言われたのか? その言葉の指す意味がなんなのか? 理解できない。 理解したくない。 だけど…。 (……クラウド王子を……私が……殺すの……?) 心の中で呆然と妹姫に問うたエアリスの声が聞こえたらしく、ユフィはグイッと目をこすった。 涙を男顔負けの『かっこよさ』で拭うと、躊躇いなく大きく頷いた。 「そうだよ。姉さまの心を掴んで、海底の世界では考えられない暴挙に出させた人間の『命の源でもある心臓の血』を浴びないと、姉さまは死んでしまうの。だから……だから……!」 お願いだから、帰ってきて…。 私たちや、海のみんなのために…。 ユフィの血を吐くような懇願の叫びが耳にこだまする。 エアリスは、自分がどうやって城に戻ったのかも、いつの間に、朝を迎えたのかも覚えていなかった。 ただ覚えているのは、妹姫たちが去り際に渡してくれた『ナイフ』のことだけ…。 ―『ねえさま、これには魔法がかかってる。これで姉さまの心を動かした人間の心臓を抉り取って。このナイフは、麻痺を起こす作用があるから、刺された瞬間から痛みも…、苦しみも…、恐怖もその人間から取り去ってくれる。これで、少しは殺される人間にとっても慰めになるだろうから…』― 慰めになる。 ユフィはそう言った。 だが、それがどれほどの意味を持つだろう? クラウドを失ったら、ザックスをはじめ、国王、王妃、そして、『ティナ』がどれだけ深い悲しみと苦しみを味わうか。 それ以前に、クラウドの命を自分の手で断ち切る行為を起こせるか? いや、無理だ。 そんなこと、己の命がなくなるとしても無理な話し。 だが…。 (ユフィ…、マリン…、デンゼル…) 浜辺で久しぶりに会った大切な人たちを思い出す。 エアリスが、そんなとんでもないことなど出来ないと分かっててなお、懇願した3人の姿。 3人の姿はそっくりそのまま、海底に生きる『民(たみ)』の声だ…。 なら、自分はその声を聞かなくてはならない。 自分は…、海底王国を治めるポセイドン一族の長子なのだから。 人間の世界で考えてもクラウドはとても大切なポストに位置づけられている人間だ。 だが、彼には兄がいる。 ザックスがいる限り、クラウドの存在が彼以上に尊重されることは…悲しいかな、ないだろう…。 ならば…。 (やるしか……ないわけ……?) その日一日、エアリスは抜け殻のように過ごし、眠れないまま夜を過ごした。 そんなエアリスをクラウドもザックスも、侍女たちも心配してくれていたことは分かっていたが、どうしたら良いのか考えても考えても結論が出ない。 結局、晩餐も辞し、こうしてベッドに横になって過ごしてしまった。 いつの間にか、その夜も終わろうとしている。 空が白み始めているのに、エアリスの心は暗黒に包まれたままだった。 どうしても…、どうしても、クラウドを殺すなど出来ない。 だが、このまま海底王国を放置するわけにも行かない。 エアリスには妹姫が(ユフィ、マリン)2人いるが、それでも妹姫たちに任せて自分ひとり、幸せを求めることは出来なかった。 なぜなら、ユフィやマリンにはエアリスほどの『魔力』がなかったからだ。 この場合の『魔力』とは、海に関する自然界の力を操ることを意味している。 嵐を最小限に抑えたり、適度な高潮を生んだり…。 そうすることで、海底世界も、人間界も実は海の恩恵を存分に与えられているのだ。 ユフィやマリンにはそれだけの『魔力』がない。 エアリスはイカ魔法使いの失敗作を飲んで死ななかった…。 これだけでもエアリスの魔力が強いことを現しているといえよう。 恐らく、ユフィやマリンが同じ薬を飲んだら、今頃生きてはいないはず…。 だから、海底王国を平定するためには、エアリスの存在がどうしても必要だった。 (やるしか……ないんだよね……) ナイフを渡すさい、ユフィが言った最後の言葉がグルグルと頭をめぐっていた。 もう時間はないのだ、自分には。 ―『姉さま。姉さまが薬の副作用で死んでしまうのは……もう3日しかない。だから…、だから…』― 3日。 たった3日しかない。 その間、エアリスの心臓は足の激痛で信じられないほどの負荷がかかり、自由に動けることもままならなくなる。 ということは。 (私が動けて、クラウド王子を刺すことが出来るのは……) 恐らく、あと1日か…1日半。 今日の夜半まで…ということだ。 それが出来なければ、自分の心臓は止まり、元々海底世界の人魚である自分は、陸で死体になると泡となって消えてしまう…。 人魚の存在、海底の存在が人間に知られてはならない理由がここにあった。 昔、人魚は人間と近しい存在として共存関係だったことがあった。 しかし、人魚の恵みを受けられるのは、ごくごく一部の『漁業』を営む者たちだけ。 つまり、平民たちだけだった。 それが、いつの頃か貴族や王族の耳に入り、見目麗しい人魚を『観賞用』として『人魚狩り』が始まった。 人間になる薬を飲まないまま、人魚が長時間陸に上がっていると、その身体への負担は命をも奪った。 その人魚の最期を目の当たりにした人間は酷く驚いたらしい。 それはまさに、『海の泡のように消える』幻想的な瞬間だったからだ。 そして、おぞましいことにその『瞬間』がもっとも美しい、としてますます人魚狩りが酷くなったことがあった。 その当時のポセイドン王は、激怒した。 そして、親しくしていた漁村も含め、その王国を高潮でもって海底に引きずり込んで滅ぼした…。 それからだ。 人魚の存在も、海底に世界があることも知られてはいけない、という不文律が出来上がったのは。 エアリスは、幼い頃から繰り返し聞かされていたその昔話を思い出し、この一週間と少しを過ごした城での生活を思った。 決して…人間は酷い者ばかりではなかった。 それを知ることが出来ただけでも幸せだった…そう思うようにしよう。 その思い出を胸に、海底の世界に帰ろう。 帰って、顔も知らない男の妻になり、長子としての務めを果たそう。 だけど! (クラウド王子を……殺す…) できない。 そう強く思った。 どうやったらそんなことが出来るというのか! そんなおぞましく、恐ろしいことをするくらいなら自分が死んだほうがマシだ。 しかし、自分は長子。 そして、妹姫たちにはない『魔力』を有するタダ1人のポセイドン王の血を引く者。 迷うことなく選択すべき道は決まっている。 それなのに…! と…。 ( ひっ!! ) 言葉にならないほどの激痛が両下肢を襲った。 痛みのあまり失神しそうになる。 ベッドに横たわっていただけなのに、この激烈な痛みは!? 眦から涙がこぼれる。 声は魔法使いへ対価として渡しているので悲鳴は出ないのだが、それでもエアリスは痛みに耐えるために唇をかみ締めた。 心臓があまりの痛みに激しく脈打つ。 ピクリとも動かせないほどの激痛は、時間が経ってようやく薄れ、そして消えた。 痛みが引いた後もエアリスは暫く動けず、荒い息を繰り返していた。 全身、汗でぐっしょりだ。 どれほど悶絶していたのか分からない。 時間の感覚が完全に狂った。 一分程度だったのかもしれない。 しかし、エアリスにとってその拷問のような時間は丸々一日も続いたかのように感じられた。 力なくベッドに横たわったまま、ボロボロと涙をこぼす。 本当にこのままでは自分は死ぬ。 命を永らえるためにはクラウド王子を殺さなくてはならない。 なんて酷い選択肢だろう。 (きっと……罰なんだわ…) 海底の掟を破り、海面に出てクラウド王子を見たことも。 彼に心惹かれたことも。 彼を助けたことも。 彼を追いかけて、魔法使いと取引したことも。 全部全部、間違いだった。 大罪を犯した罰なのだ、これは。 一時の私情に駆られ、王国の長子たる義務を放棄した。 その報い…。 殺さなくてはならない、クラウド王子を。 そう、自分に言い聞かせた途端、脳裏にこの城で過ごした短い時間が次々と浮かんだ。 ザックスにからかわれているクラウド。 イヤそうな顔をしながらも、それを受け入れているクラウド。 クラウドの伯母が押しかけてきたとき、厳しい表情で背に庇ったザックス。 国王と王妃のクラウドを見つめる自愛に満ちた眼差しと、それを受け入れてくれない寂しさを湛えた微笑み。 ティナの寂しそうな横顔。 そして…。 クラウドのために、どこにも行かないで傍にいて欲しいと言ってくれた真剣な瞳の…第一王子。 彼らから大切な人たちを奪い去る。 それも、酷く身勝手な理由で。 きっと、彼らは二度と心から笑うことが出来なくなるだろう。 ザックスの無邪気な笑顔は、二度とエアリスに向けられることはない。 ズキリ。 下肢ではなく、心が悲鳴を上げた。 エアリスは己の罪深さを今更ながらに痛感し、枕に顔を押し付けて泣いた。 どれほど泣いただろう。 静かにドアがノックされ、ゆっくりと誰かが入って来た。 しかし、泣き疲れていたことと、先ほどの激痛による体力・気力の消耗に顔を上げられない。 部屋に入った誰かがギョッとし、次いで慌てて駆け寄ってくる気配がする。 「大丈夫か、エアリス!どうした!?」 優しく、だが力強く両頬を包んで涙に濡れたエアリスを覗き込んだのは…。 (ザックス王子…) 今、一番会いたくなくて、一番傍にいて欲しい人。 そのことにエアリスは初めて気がついた。 駆けつけてくれたのがクラウドなら、エアリスは何が何でも、泣き止んで、 『足が痛くて…、つい』 とか、適当なことをメモして見せただろう。 だけど…。 「エアリス…!?」 ザックスに頬を包み込まれた瞬間…。 紺碧の瞳に見つめられた瞬間に突き動かされた衝動。 エアリスはその衝動に身を任せ、ザックスにしがみついた。 しがみついて、その温かい胸に頬を押し付けて、エアリスは泣いた。 * 「落ち着いたか?」 優しく涙を拭われ、エアリスははにかみながらコックリと頷いた。 すっかり目は腫れ、とてもじゃないが恥ずかしくて顔を上げられない。 だが、ザックスはいつものようにニッカリ笑うと、 「お、良かった良かった。うん、エアリスは泣き顔よりも笑った顔のほうが良いからな」 くしゃくしゃとエアリスの頭を撫でた。 その手がとても大きくて温かくて、痛んだ心が少し、和らいだ気がする…。 しかし、それを認めてしまうには、自分の罪を忘れさせてしまいそうだという罪悪感に取って代わり、わざと拗ねたような顔をした。 そして、サラサラ…とメモにペンを走らせる。 「『こんな目が腫れてるのに』って…ぶっ!!」 吹き出したザックスに、エアリスは演技ではなく本当に拗ねると、枕でボカリ、と殴った。 それを甘んじて受けつつ、 「悪かった、悪かった。それでもやっぱりエアリスはどんな顔してても笑ったほうが可愛いって思うんだからしょうがないだろ?」 サラリ、と口説き文句に聞こえることを口にした。 ドキッと心臓がはねる。 真っ赤になりながら、またポカリ、と枕で殴るとエアリスはフイッと顔を背けた。 「なぁエアリス、食事に呼びに来たんだけど食べられそうか?」 ザックスの落ち着いた声音に、まだちょっと気恥ずかしくて顔を背けたままコックリ頷く。 そうか…。と、呟いたきり、すぐ動こうとしないザックスに、少し何かを躊躇っているものを感じ、そっと顔を戻す。 ザックスは今さっき、見せてくれた明るい表情から、少し苦いものを織り交ぜたものに変わっていた。 「その…食事の前に話しがあるんだけど…少しだけ付き合ってもらっても良いか?」 いつになく真摯な言葉。 クラウドの傍にいてやって欲しい、と言ってくれた時と同じ雰囲気。 エアリスは不安に襲われ、身体に力が入りながらもコックリと頷いた。 「実は…、今日の午後、俺の…結婚相手と正式に婚約式を行うことが急遽決まった」 息を呑んで目を見開く。 ザックスが何を言ったのか、正確に理解するまで時間がかかった。 そして、震える手でメモを書く。 「あぁ、本当ならあと5日後だったんだけどな。予定が早まった…と、今朝、父上に言われた」 エアリスは喘ぐような息遣いを繰り返しつつ、ザックスを見た。 彼の横顔は、とても寂しそうだったが、それでも一国の王子たる務めを果たすという決意を固めてもいるように見えた。 自分の気持ちを押し殺し、王子としての任を果たす。 誰に対しても分け隔てなく優しく、そして時に厳しい態度も取り、私情に流されない彼は、立派な国王になるだろう…。 (あぁ…だから私は…!) クラウド以上に彼に惹かれたのか…。 心を中々開いてくれない相手に、どこまでも惜しみない愛情を注ぎ、大切にするザックス。 弟を大切に思うからこそ、得体の知れないエアリスを当初、警戒していたザックス。 エアリスの存在を、クラウドが受け入れつつあるのを見て、最初の頃の態度を潔く謝罪したザックス。 クラウドを食い物にする彼の伯母に対し、怒りを抱きながらも最後まで弟の戦う姿を見守ったザックス。 そのどれもが心惹かれる。 そんな素敵な人の隣に、自分ではない誰かが立つ。 彼と一緒に生涯を共に歩む。 その女性(ひと)との正式な婚約が…今日! (これも……罰なんだわ…) エアリスは暗澹たる思いで、そう胸中で呟いた…。 |