孤独だった王子が、孤独から開放されて少しして、隣国のお姫様がお城にやってきました。
 王子は、その姫を見て驚きました。
 彼女こそ、自分が打ち上げられていた砂浜で助けてくれた人だったからです。
 王子は姫に夢中になりました。
 夢中になって、浮かれてしまって、大切なモノがすぐ傍にあることを忘れてしまいました。
 忘れたまま、王子はその姫と結婚するよう勧めた父王の言葉に嬉々として従いました。

 結婚式の前夜。

 王子は久しぶりに砂浜で救った乙女と話をしました。
 乙女はまだ口が利けないままだったので、ずっと王子の言葉に頷くだけでした。

 笑って頷くだけでした。
 だから、王子は気づきませんでした。
 お姫様との結婚で頭がいっぱいだったので、乙女が張り裂けそうな思いで王子の言葉を聴いていることに…気づきませんでした。

『わたしは本当に幸せだ。お前が城に来てくれてから良い事ばかり。きっと、お前は私を荒波の中から救い出してくれたあの乙女と同じ、私の幸運の女神なんだな』

 乙女は…。
 にっこりと微笑むだけでした。






人魚姫の恋 16







 衝撃の告白をザックスが小船で波間を漂いながらエアリスにしている頃。
 バレンタイン城ではちょっとした騒ぎになっていた。

 ―『父上、母上。今日(こんにち)まで愛し、慈しみを持って育てて下さった大恩に報いぬまま、飛び出したる不孝、なにとぞご容赦を…。』―

 から始まる文面を残し、この国の次の王となるはずだった頼りがいのある第一王子が失踪してしまったのだから。
 広間には重臣が集められ、物々しい雰囲気をかもし出していた。
 その中を、クラウドは少し遠い目をして『王子』として椅子に腰掛けていた。

(全く……我が従兄弟ながら思い切った奴…)

 昼間、エアリスを部屋に運んでからのことを振り返って苦笑が頬に浮かびそうになり、慌てて顔を引き締めることもう数回。
 こんな緊迫した中で1人、緊張感を欠いた態度でいるなど第二王子としての自覚が足りなさ過ぎる!と糾弾されてしまう。
 今、重臣たちの反感を『これ以上』買うわけには行かなかった。
 なにしろ、自分はこれから『第一王子』の地位を手にしなくてはならないのだから。
 今日までずっと『本当の兄弟』として愛し、守ってくれた『兄』への恩返しをするため、絶対に『第一王子』の地位を手にして『時期国王』となり、後顧の憂いを絶ってみせなくてはならないのだ。
 ただでさえ、『第二王子』という地位を手にしている境遇を不満に思っている者たちが沢山いるのだ、これ以上、余計な敵を作るわけにはいかない。

(まぁ、どうせ反感また買っちゃうし、敵を作っちゃうんだろうけど…でも…もうそろそろ頑張らないと…な。今までのアイツに報いるためにも)

 そう…ここが踏ん張りどころだった。

 ティファの笑顔をそっと思い浮かべ、うるさい自分の心臓を宥める。
 スーッと息を吸って……立つ。
 そして、あ〜でもない、こ〜でもないと喧々諤々(けんけんがくがく)な重臣たちを前に沈痛な表情をしているヴィンセント王の前へゆっくりと歩みを進めた。

 重臣の1人が気づき、口を閉ざす。
 もう1人も気づいて視線を釘付けにする。
 重臣のその様子に気づいて、もう1人も視線をめぐらせ、何事か!?と食い入るように『それ』を見る。
 もう1人、もう1人…。

 やがて、広間の全員が第二王子の奇行に気づいてシーン…と押し黙った。
 クラウドは全身に突き刺さる視線を感じながら、黙ってヴィンセント王の前で膝を突き、頭を垂れていた。
 ヴィンセント王はただ黙ってクラウドを見つめている。


「父上…、どうかご寛恕を持って兄上をお許しくださり、その気持ちをお汲み取り下さいませ」


 重臣たちに衝撃が走った。
 クラウドが、初めてよどみなくヴィンセントを『父上』と呼んだ。
 これまで、養子という枷により、どこか薄い壁を創り続けていた王子が、初めてその壁をよじ登ってこちら側に来てくれた。
 これを驚かずにいられようか?
 それに、クラウドの言った言葉自体がもっと衝撃だった。
 要するに、ザックスの出奔を認め、『第一王子』という任から解放せよ、と言っているのだ。
 ということは、第一王子がいなくなる=第二王子であるクラウドこそが第一王位継承者になってしまうことを指している。
 言い換えると、クーデターのようなものではないか?
 これまで、バレンタイン国はザックス王子を第一王位継承者として立ててきた。
 それを、どこの馬の骨とも知らない女によって覆されてしまったことになる。

「じょ、冗談じゃありませんぞ!?」

 声を荒げたのは、ザックスに心酔している重臣グループの1人。
 第一王子派、第二王子派で派閥が出来てしまうのは、他の諸外国でも珍しくない。
 クラウドが正当な王位継承の血を引いていないことを日ごろから『取るに足らない存在』と小バカにしていた派閥だ。
 クラウドの発言なぞ、到底認められない。
 クラウドも彼らから反対の声が上がることくらい分かっていた。
 だが、だからと言って引くわけにはいかない、今回は!

 しかし、あえてクラウドは黙ったまま膝を着いたままだった。
 黙ったままのクラウドに、ザックス派の重臣たちがますます声高に反対を主張する。

「国王!確かにクラウド殿下はこの国の第二王位継承者。しかし、ザックス殿下とは違い、正当な王族の血を引いてはおられません!そもそも、ザックス殿下は今、少しばかり目先のことにとらわれて正常な判断が出来ないだけのこと。すぐにいつもの聡明さを取り戻されましょう!それなのに、クラウド殿下のこの仰りようは分を超えておりまする!即刻、捜索隊を編成し、ザックス殿下をお探し申し上げることこそが最善でございます!!」

 次々と賛成の声が上がる。
 それでもクラウドは何も言わずに黙ったまま、膝をついてじっと待っていた。
 一瞬の静けさはあっという間にそれまで以上の騒ぎに飲み込まれた。
 ザックス派が圧倒的に多かったが、中にはクラウドを立てる第二王子派もおり、猛然と抗議するザックス派の言葉を遮るように甲高い声でヴィンセント王へクラウドの言を聞き入れるように訴える。
 広間は割れんばかりの怒声で溢れかえった。


「黙れ」


 ゾクッ!

 顔を真っ赤にしてがなり立てていた者ですら一瞬にして蒼白になるほどの気迫。
 ヴィンセント王の静かな一言の中にこめられていた気迫に、一気に広間は静まり返った。
 罵声を飲み込み、振り上げていた拳を引っ込め、昇りきっていた血圧を一気に下降させて臣下たちは固まった。
 その真っ青になった臣下たちの前で、ヴィンセントはジッとクラウドを見つめた。
 見つめたまま、静かに口を開く。

「クラウド…。お前とザックスはどんな話をした?」

 エアリスが飛び出してからの事を指しているとちゃんと分かったし、想定の範囲内の質問だった。
 クラウドは最敬礼の姿勢のまま、ゆっくりと顔を上げた。
 その落ち着いた…、決意を固めた紺碧の瞳がヴィンセントの紅玉の瞳と重なる。


「…城内に水路を作る約束をしました」


 固唾を呑んで見守っていた臣下たちの耳に、その言葉はとても突飛に聞こえたが、ヴィンセント王は紅玉の瞳を僅かに揺らめかせて…。


「そうか」


 一言だけ。
 そのたった一言だけを返すと、唖然とする臣下たちの前でスッと立ち上がった。
 そして、跪いたままのクラウドを自らの手で立ち上がらせる。



「皆の者、この瞬間をもってザックスは廃嫡。代わりにこのクラウドを第一王位継承者にする」



 誰も異を唱えることを許さない王の厳命。
 言葉に出来ないほどの衝撃が走ったのに、誰一人『否』とも『是』とも言えない国王の覇気。
 震えるようにして広間の全員が一斉に最敬礼を取る。
 ザックス派の重臣たちも、王の宣言にあえなく屈し、深く頭を垂れるばかりだった。
 その光景に、クラウドは息を呑み、目を見開いているばかり…。
 まさか、こんなにあっさりと自分の言葉が聞き入れられるとは思っていなかった。

「期待してる、クラウド」
「………ち、父上…」

 ポン、と肩を叩かれてクラウドはハッと顔を上げた。
 そこにあった『父王』の優しい眼差しに、これまでずっとザックスと変わらず愛されていて、期待されていたのだと確固たるものとして感じることが出来た。

 うっかり泣きそうになる…。

 この優しくて大きな人を今まで真正面から見ようとしなかった自分の不甲斐なさに呆れると共に、これまでの『親不孝』を全身全霊をもって詫びていこう…、そう強く思った。
 グッとアゴを引き締めて決意も新たに強く頷いてみせると、今まで見せてくれたことのなかった柔らかな微笑みを向けられ、鼻の奥がツン…とした。


(……ティファはうまくやってるかな…)


 ザックスの想いを汲み取ってくれたこと。
 自分の想いを汲み取ってもらえたこと。
 初めて、『親子』になれた…という大きな喜び。
 そして、大役を果たすために一歩を踏み出せたと言う喜びと別室で『行動』しているはずの初恋の人を思い、クラウドはとうとう堪えきれずに微笑んだ。


 さて。
 初恋の人と思いがけず両思いになれたティファはと言うと…。

「お父様…お母様、謝って済む問題ではないことは重々承知しております。どうぞ、いかようにもご処分を」

 両親であるハイウィンド国王と王妃の前で跪(ひざまず)いていた。
 苦虫を噛み潰した顔で睨んでいる…かと思いきや、シド王は困惑しきりと言った体で、落ち着きなく座ったり腰を上げようとしたり、を繰り返していた。
 対して、隣で悠然と腰をかけているシエラ王妃は、ジッと愛娘を見つめた。

「ティファ姫。あなた、本当にクラウド殿下のことを…?」
「……はい…」

 消えそうなほどか細い声だが、精一杯の勇気を振り絞って頷いた娘に、シエラ王妃はホホホ、と扇子で口元を覆いながら笑った。

「そう、いつから?」
「……城下で暮らしている頃から……」
「は?ってことは、お前10歳くらいからずーっとってことか!?」

 娘の恋心を初めて聞いたシド王が素っ頓狂な声を上げて仰け反った。
 恥ずかしそうに真っ赤になりながらコックリ頷いた姫に、シドはあんぐりと口を開け、シエラ王妃はますます楽しそうに笑った。

「そう…。それなのに、姫の想いを知らなかったとは言え、想い人の兄に嫁ぐようにしてしまってごめんね、姫」
「…お母様…」

 潤んだ目で見上げた娘に、シエラは優しく微笑みながら椅子から降りると、やわらかく抱きしめた。
 腕の中の娘が愛しくてたまらない。
 黒髪を撫でてやりながら、
「本当に…、私たちは取り返しのつかない苦痛を姫に与えてしまうところだったのですね、ほんとうにごめんなさい」
 優しく優しく、かみ締めるように繰り返す。
 ティファの潤んだ瞳から一粒の涙がゆっくりと頬を流れた。
 母親のドレスにその涙が吸い込まれる。

「ふふ、まだ手遅れにならなくて本当に良かったこと。もしもあの誓いの場で、クラウド王子やザックス王子たちが異議を申し立ててくれなかったらどうなっていたかしら…?」
「そ、それだ!ま〜ったく、クラウド王子が異議を訴えたのは…、まぁ、十歩譲って分からないでもない。だが、主役である第一王子までもが異議を訴えるとはどういう了見だ!?バレンタイン王は有能な国王として近隣諸国だけでなく、全世界にその名を知られている名君のはずだ。それなのに、今回のことは我がハイウィンド国はもとより、バレンタイン国にとって甚だまずい大問題だぞ!?そんな国に、可愛い姫を嫁がせられるか!!」

 自分の言葉に段々興奮してきたのか、最後のほうは語気も荒く吐き捨てるように息巻いたシド王に、シエラが呆れたように目をグルリ…、と回した。

「まぁまぁ、王様。落ち着いて下さい。ティファがどうしたら幸せになれるかが一番重要なんですから」
「む…」

 今にも客室を飛び出さんばかりに興奮しているシドを抑えたのはシャルアだった。
 隻眼を細めて可笑しそうに笑っている。

「だがなぁ、そうは言うけど、こんなに大問題になってるっつうのに、今更『第二王子の嫁にしてやって欲しい』だなんて言えるか?わが国の威信の問題にも絡んでくるし、そもそも第一王子の妻として、と申し出たのはこちらだ。今更どんな顔をして『第二王子でよろしく』って言えるかよ…」

 頭を抱えんばかりに困りきった顔をするシドに、シャルアがニッ…と笑った。

「まぁ見てて下さい。ティファはこの世界の至宝ともいうべき魂の持ち主。この世界の均衡をこれからも保つためには、『現在(いま)の状態の魂』の流れを受け継ぐ『魔力の強い子供』がどうしても必要ですからね。想う相手がいるのに他の男に嫁がせるだなんて苦痛を与えると、魂が弱ってしまうかもしれないんですから、そんなアホなことにならないようにしっかりと詰めをしなくては…ね」

『子供』という単語に、シエラの腕の中でティファは真っ赤になった。
 シドは『子供』という単語に気づいていないらしく、
「む〜…確かに好きな奴がいるのに他の男にってのは俺様もしたくはないに決まってるんだが…、だがなぁ…」
 腕を組んでウロウロする。
 シャルアが満足げに笑った、
 何故なら、シド王もシエラ王妃も、そしてこの場にいる側近たちもティファ姫が『どうすれば好いた人(クラウド)と結婚できるか』という考えにすっかり占められていたからだ。
 一国の王と王妃、重臣たる側近たちがこぞって1つの目標に心を傾倒させる。
 これ以上に強い『権力の底力』はないだろう。

(これでこっちは大丈夫。もう、二度とあんな思いはさせないからね…)

 赤い顔で、どこか幸せそうなティファを、シャルアは瞳を細めて見つめていた。


 一方。
 こちらは隻眼の美女の妹と赤い獣。
 暗闇の中、獣の尾に灯っている小さな炎だけを頼りに危なげなく海岸沿いを歩いている。
 いくらバレンタイン王国が治安が良く、しっかりとした街道が敷かれているといっても、船着場周辺以外にまでしっかりとした舗装がされていることはない。
 足場にはゴロゴロした石が転がり、つまづいて真っ逆さまに海に転落する危険がとても高い。
 しかし、1人と1頭は全く危なげなくずんずん歩いていく。
 そうして町の明かりがかなり後ろになってしまった頃、ようやっと足を止めた。
 辿り着いたのはあと一歩踏み出したら真っ暗な海に転落してしまう断崖絶壁だった。
 真っ直ぐ真っ暗な海の向こうを見つめる。
 潮風に好き勝手に全身をなぶらせ、足元でうねる波に動じることなく立つ姿は、海の精のようだ。

「ここら辺ですね」
「うん、そうだね」

 こっくり頷き合うとシェルクは懐から小瓶を取り出した。
 ふたを開けて中身を海に全てこぼした。
 星明りにそれはキラキラと輝きながら海に吸い込まれていく。
 中身全てを海に投入してから少しすると、宵闇の黒い海が月光を浴びてグネグネとうねり、ゴボリゴボリ、と空に向かって盛り上がり始めた。
 それは小山ほどの大きさになり、岸壁に立つシェルクとナナキから月明かりをすっぽりと隠してしまった。
 どう考えても超常現象であるのに、1人と1頭はまったく動じることなくその異常状態を淡々と見つめていた。
 やがて…。


「くぉら!!下賎な人間の分際で2度もこの俺様に魔法を使って呼びかけるたぁ、不逞な野郎どもめ!成敗してくれるわ!!」


 ただのチンピラ崩れにしか聞こえない罵声。
 シェルクとナナキは真っ直ぐ小山盛りに膨れ上がったその海神、ポセイドンの化身を見上げた。

「こんばんは。現ポセイドン王バレットさん。あなたの大切なお姫様のことで大至急ご相談があるんです」

 ビタッ。
 いきり立っていた海神が固まる。
 わなわなと小山盛りほどの体が震えているその姿は、次の瞬間には自分が食われてしまうかもしれない恐怖を煽られる。
 しかし当然のように1人と1頭はどこ吹く風といった様子で飄々としたものだった。

「まずは、こちらのお話を聞いてからそちらの意見をお聞きしたいのですがよろしいですね?」

 低姿勢な台詞なのに、上から目線の口調の魔法使い…シェルク。
 ナナキは微かに顔を引き攣らせた。


 *


 翌日、王子様は沢山の人々に祝福される中、隣国のお姫様と結婚式を挙げました。
 国民も、臣下も、両親である王様もお妃様も皆、王子様をお祝いしました。
 皆にお祝いされて王子様はとても幸せでした。

 でも。

 たった1人の表情だけが気になりました。
 王子様が助けた乙女でした。
 乙女は笑っているのに、泣いているように見えました。
 王子様はとてもとても気になりましたが、きっと仲良くしていた自分が結婚してしまったので乙女は寂しいのだ…と思い込みました。

 そうして…。

 王子様は無事に式を終えると、その日の夜は豪華な船の一室で結婚したばかりのお姫様と一緒に仲良く眠りました。
 翌日の朝、王子様はなんとなく目が覚めました。
 まだまだとても早い時間でした。
 隣では、結婚したばかりのお姫様が気持ちよさそうに眠っていました。
 お姫様を起こさないようにベッドから抜け出した王子様は、部屋のドアの前に一本の短剣が落ちているのに気づきました。
 どうして短剣などというものが落ちていたのか…?
 王子様はとてもイヤなものと感じながらドアを開け、ゆっくりと甲板に上がっていきました。

 外に出ると、水平線の向こうがようやく明るくなりかけていました。
 夜明けです。
 ふと、船の切っ先に人影を見つけ、王子様はゆっくりと近づきました。
 王子様の足音に気づいて、その人物が振り返り、王子様にニッコリ微笑みかけました。
 昇る太陽を背にしたその人物が乙女だと気づき、王子様もつられて笑いました。
 でも…。


「どうかお幸せに…」


 今まで口が利けない…と言っていた乙女が初めて声を聞かせてくれました。
 途端、王子様は自分がとんでもない過ちを犯してしまったと直感で感じました。

 あの嵐の中、意識が朦朧とする中、ずっと励ましてくれていた『女神』と同じ声…。

 慌てて乙女に駆け寄ろうとしましたが、乙女は朝日が昇ると同時にスーッと消えてしまいました。
 駆け寄った王子が見たのは、波間に浮かぶ潮の泡だけ…。
 悲しげに揺れるその泡は、呆然と見つめている王子の目の前で呆気なく潮に溶けて消えてしまいました…。
 王子様は、あの乙女こそが自分を嵐の海から救ってくれた『人魚』だとようやく気づいたのです。

 目の前で失ってしまった大切なモノの大きさに…。
 目の前で大切なモノを…、探し続けていた大切なモノを…、ずっと知らないまま、気づかないまま傷つけ続けていたことにようやく気づいた王子様は…。
 部屋のドアの前で拾った短剣を胸に激しく泣きました。


 そうして…。


 *


「エアリス、俺のこと、お婿にもらってくれる?」

 フリーズしているエアリスにザックスが悪戯っぽく笑った。
 エアリスはハッと我に返ると、混乱する頭をなんとか正常に働かせようとした。
 グルグル脳内をめぐるのは、ザックスをなんとか人間の世界に止めようとする説得の言葉の数々。
 しかし、その台詞たちはあっという間に消えてなくなった。
 悪戯っぽく言ったくせに、彼の目がとても真剣だったから…。
 決して口先だけではなく、遊び半分、面白半分でもないことが痛いくらいに分かったから…。

 エアリスは数回大きく深呼吸をすると腹に力を入れた。
 そう、もう彼は決めてしまった。
 こんな自分のために、大切なモノを全部捨てて自分を選んでくれたのだ。
 愛する国を、民を、両親を…そして、可愛い弟を…全部全部、捨ててくれたのだ。
 なら、そんな彼とずっと一緒にいられるように自分の出来る全てを賭けてみせるのが彼への礼儀であり、自分自身へのけじめだろう…?

 エアリスはザックスの瞳を見つめながら、ニッコリ笑うとコックリと頷いた。
 紺碧の瞳が大きく見開かれる。
 軽く息を呑んで、食い入るように見つめてくるザックスに、エアリスは言いようのない幸福感がこみ上げてくるのを感じた。
 そして、とても自然な流れで2人はそっと唇を重ねた。

 すると…。


 ドックン!


 エアリスの全身が大きく脈打った。
 ザックスはギョッとし、慌てて腕の中のエアリスを捕まえようと腕に力をこめた。
 エアリスはエアリスで、自分の身に何が起こったのか分からず、ただただ『変わってしまう身体』に恐怖を感じ、必死になってザックスにしがみついた。
 小さな小船が悲鳴を上げるように大きく揺らぐ。
 大海に浮かぶ小船は小さな木の葉と変わらない。
 2人はその頼りない木の葉の上に身を寄せている小さな生き物だ。
 あっという間に小船はひっくり返り、2人はもんどりうってまだ暗い海に投げ出された。
 激しい水しぶきを上げた後に残っているのは、とても頼りない小さな船が底を空に向けてプカプカ浮いているだけだった…。