どれくらい眠っていたのか。 ふと目を覚ましたとき、辺りはすっかり明るくなっていた。 人魚姫の恋 2眩しい陽の光が目にしみる。 エアリスは暫く顔を顰めながら手をかざしていた。 やがて、目が慣れてきて自分がどうして浜辺にいるのかを思い出し、慌てて青年を見る。 頬がほんのりと赤みをさしていることに心からホッとした。 そして、青年を守るようにしたまま眠っている妹姫たちに目を細めた。 こんなに優しく、強い妹たちを持てて本当に幸せだ。 心からそう思う。 エアリスは青年が助かったこと、そして妹姫たちへの愛情から、極々自然に歌を口ずさんだ。 ― 優しき者へ 神の祝福あらんことを 悲しむ者に 神の慰めあらんことを 命はすべて 神のいとし子 怒りを捨てて 手を取り歌おう ― 生前の母がよく歌ってくれた子守唄だ。 その歌声に、ユフィが…、そしてマリンが目を覚ました。 そして、自分たちがなにをしたのかを思い出し、青年の無事を確認して嬉しそうに破顔した。 そのまま自然とエアリスと一緒に歌う。 3人の人魚姫の歌声は、まるで助かった青年を祝福するかのように包み込んだ。 と…。 ピクリ。 青年の瞼が動いた。 姫たちはピタッと歌うのをやめ、青年が目を覚ますかどうかドギマギしながら顔を覗き込んだ。 ゆっくり…。 ゆっくりと瞳が開く。 霞みがかったその瞳は…、吸い込まれそうな青空の色。 澄んだ海底の色よりももっともっと、澄んだ色。 心奪われる…色彩。 エアリスのみならず、ユフィもマリンも息を呑んだ。 と…。 「! 姉さま、人が来る!!」 ユフィはパッと顔を上げると急いでマリンの腕を掴んだ。 エアリスも身を翻して海に向かう。 人間に人魚の存在を知られてはならない。 それが、海底の掟。 こればかりは、いくら自由奔放を信条としているユフィですら尊重している掟だ。 エアリスやマリンが慌てないはずがない。 慌てふためいて3人がどうにか浅瀬に身を沈めるのと同時くらいに数人の人間が青年を見つけて喜びの声を上げた。 「ここにおられましたぞ!!」 「ご無事だ!生きておられる!!」 「王子!お分かりか!?大丈夫ですか!?!?」 いっぺんに大騒ぎとなった浜辺を、岩礁の影で見守りながら3人は息を飲んで顔を見合わせた。 「「「 王子…って…! 」」」 どうやら自分たちが助けたのは人間の王子らしい、ということに驚愕しながら、駆けつけた1人の青年に抱きかかえられたのを見て、エアリスたちはホッとした。 王子を抱きかかえた青年は、半分泣きそうな顔をして王子の頬に手を当てたり強く抱きしめたりして喜んでいる。 「良かった…良かった!本当に心配したんだぞ!?」 歓喜の声が姫たちのところまで聞こえてきて、ユフィとマリンは照れ臭そうにニッコリ笑った。 「さ、帰ろう姉さま。早く帰らないと流石に父様に怒られるよ」 ニコニコ笑いながらそう言ってエアリスを振り仰いだユフィは目を見開いた。 エアリスの陶然とした横顔に息を呑む。 マリンはまだ小さいから気づいていないようで、 「姉さま方、大丈夫?」 と小首を傾げている。 エアリスは王子が大事そうに運ばれる姿を最後まで黙ったまま見つめていた。 ユフィはそんなエアリスに自分がとんでもないことに誘ってしまったことを思い知らされていた…。 * 「こぉの、バカ者どもがーー!!!」 宮殿に戻った3人の姫たちは、当然だがバレット王の怒りを買った。 そりゃそうだろう…。 宮殿に戻ったら思いっきり朝になっていたのだから。 朝、姫たちを起こしに来た侍女たちが、揃いも揃って姫の不在を王に伝えてしまったのだ。 姫1人につき1人の侍女。 ようするに、3人の侍女人魚の報告を聞いたバレット王はその場で失神しかけたという…。 その直後に戻ってきた姫たちに、王が怒らないはずがない。 いかに、子煩悩であろうともそれはそれ、これはこれだ。 シュン…と、うな垂れ反省するエアリス、マリンの隣でユフィ1人、違う理由でうな垂れていた。 しかし、そんなことを知る由もない王とその側近、家臣たちは、エアリスやマリンはともかく、ユフィまでもがしょんぼりとしている様子にざわめいた。 『芝居か?』『ユフィ姫、芝居をしておられるのか?』『いや…あれはいつもの芝居とはちと様子が…』 『『『 まさか、本当に反省しておられる!? 』』』 家臣たちの驚きはそっくりそのままバレット王と同じだった。 怒鳴りつけた手前、手の平を返したように甘いことを言うわけにはいかない。 動揺を悟られまい、とわざとらしく咳払いをすると、3人の姫に暫くの間、宮殿内からの外出を禁じた。 すごすごとそれに従う3人の姫が王の間からいなくなって暫し、シーン…と気まずい沈黙が下りた。 「あ〜…なんですかな。何をしに海面へ出られていたのか、それを聞いてからでも叱責は良かったかもしれませんなぁ…」 いつもはしきたり云々にうるさい宰相までもがそう言ってしまうほど、ユフィの落ち込み振りは家臣たちに衝撃を走らせた。 「な、何を言う!お前、いつも『しきたり、しきたり』言ってるだろうが!」 自分がまさにそう思っていたことを先に言われてしまった気まずさから、バレットは王としての威厳もそっちのけで『素』で怒鳴った。 怒鳴って……。 「……やっぱ…聞いてからにすりゃ良かったか……?」 シュン…とうな垂れたのだった…。 一方。 部屋に戻ったエアリスは、大きな真珠貝で出来た貝のベッドにゴロリ…と横になると、目を閉じた。 思い出されるのは、助けた青年…、王子のこと。 「…見たことないキレイな髪だったな…」 人魚にも金髪はいる。 だが、彼の金髪はもっともっと、澄んでいて美しかった。 そして、一瞬だけだが見えた瞳の色はとてもキレイで……。 整った鼻筋、形の良い唇。 魅惑的なあの寝顔。 そのどれもがエアリスの心を惹き付けて離さない。 助けるためとは言え、よくもまぁ身体を密着させられたものだ、と今になって猛然と恥ずかしさが襲ってきた。 恥ずかしさのあまり、ゴロゴロと寝返りを打って胸に手を当てる。 バクバクと自分のものではないかのように、心臓が脈打っている。 (こんな気持ち……初めて……) エアリスは生まれて初めて、異性に惹かれるという素晴らしい経験を味わっていた。 そして、その一方で自分がもうすぐ見たこともない人魚と結婚しなくてはならないことを思い出し、胸がつぶれそうなほどの苦しさのあまり顔を歪めた。 父王から話を持ちかけられたとき、とうとうこの時がやって来たか、と思った。 いずれはやってくるはずだった縁談。 優しい父が、ずっと抑えてくれていた家臣たちの意見。 もう抑えていられないだろうと、覚悟をしていた。 そして、父王から話し持ちかけられたとき、迷うことなく承諾した。 あの時は知らなかったから躊躇う気持ちなどなかった。 あの時は…、こんなに切なく、甘い想いを知らなかったのだから…。 温めるために抱きしめたとき、身体全部で感じた王子の鼓動を思い出すだけで胸がうずく。 こんなに気になる異性は知らない。 気づいたばかりの気持ちを殺して、他の男の妻になる。 そう…、それが長子として生まれた自分の役目。 だけど…。 「……イヤ……」 ポロッとこぼれた言葉に自分で驚いてハッと口を覆った。 しかし、もう遅い。 言葉にしたことで明確になってしまった。 イヤだ。 イヤだ、イヤだ、イヤだ! 見たこともない男の妻となり、その夫の子を孕み、産む。 考えただけでおぞましい。 逃げ出したい! 強くそう思った。 何かから逃げ出したいと思ったことはこれまで一度もなかった。 ポセイドンという王族の長子として生まれ、長子としての責務を果たすことになんの疑問も持っていなかった。 だが…。 (…せめて……せめて、もう1度だけ…、ほんの少しで良い。彼との思い出が欲しい) ほんの少しの時を、彼と過ごしたい。 その思い出さえ手に出来たら、あとはその思い出を胸に抱いてどんなことでも立ち向かえる。 エアリスはそう思った。 そう思うと、もういてもたってもいられなくなった。 感情に突き動かされたエアリスは、書置きを残して王宮を抜け出し、洞穴の前に立っていた。 そう。 父王が嫌っているイカの魔法使いが住むという洞穴に…。 王子は人間。 人間の彼の傍で過ごし、思い出を作るためには自分自身が人間にならなくてはない。 1日…、いや、半日だけでも良い。 人間になりたい。 強くそう思ったエアリスは、彼女が考えている以上に追い詰められていた。 自分がどんなに危険なことをしようとしているのか分かっていなかった。 だから…。 「ほぉ。人間にな…」 嘲るような微笑み、ぞっと底冷えのする声で自分をねめつけている魔法使いに、エアリスは全身の血が凍る思いがした。 だが、ここで気おされるようならば、きっとこの目の前のイカに魂を喰われてしまうだろう。 震えそうになる身体にグッと力を入れ、エアリスは睨むようにしてイカの青い瞳を見た。 どことなく、昨夜助けた王子の色に似ている…と一瞬思ってしまって慌てて否定する。 (こんなイカとあの王子様を一緒にするだなんて!!あぁ、本当にごめんなさい王子様、なんて失礼なことを…!!) 「…お前、今とても失礼なことを考えたな…?」 ゾッとするような微笑みが不機嫌なそれに変わる。 エアリスはギクッとしながら必殺『王女スマイル』を顔に貼り付けた。 「まぁ、なんのことですの?」 『王女スマイル』とは、その名の通り、『ポセイドン一族の長子たる者が執務のときに見せる微笑み』だ。 要するに作り笑いである。 イカはジト目で見たものの、気を取り直したのか、先ほどの薄ら笑いを浮かべた。 「それで、結婚間近の王女が本当に人間になって陸に上がるというのか?」 ……さすが魔法使い。 エアリスはイカの魔法使いとしての力に冷や汗をかいた。 自分の結婚が近いということは、トップシークレットで、今のところ宰相くらいしかしらないはず。 その情報をいとも簡単に手にするとは! (このイカならきっと…) 自分の願いを叶えてくれる魔法を使える。 エアリスは確信した。 固い決意でゆっくりと頷く。 イカは面白そうに笑みを浮かべた。 「いいだろう。その願い、叶えてやる」 イカの言葉にエアリスは一瞬、心が緩みそうになった。 だが、すぐに気を引き締める。 この魔法使いが、無償で願いを叶えてくれるはずがない。 断じて、そんなことはない! 歓喜の色が一瞬浮かんだ瞳が、すぐさま警戒したのをみてイカは笑った。 クックック…と笑いながら目を細める。 「察しが良い。当然、それ相応の対価をもらう」 「…対価…」 「そうだ。お前に施してやる『人間になる術(すべ)』は、上級魔法になるからな。それ相応の対価を覚悟してもらおうか」 エアリスが引き下がるのをまるで待っているかのような言い回し。 怯んで、『やっぱりやめます』と言うのを待っているようだ。 いや、待っている。 待っていて、『やっぱりやめます』と言ったその時、思い切りバカにして嘲り笑うつもりだ!! エアリスの中に、王子への想いとは別に、闘争心が湧き上がった。 このイカの思い通りになってたまるか!! 「では、その対価とは?」 引き下がらなかったエアリスに、イカは少し驚いた顔をした。 そしてまた、耳障りなクックック…という笑い声を洩らす。 (感じ悪い…!) 内心、憤慨するエアリスそっちのけで、イカは至極満足そうだった。 「ふふふ、本当になんて愚かな娘。いや、しかしこれは私にとっても母さんにとっても願ってもいないチャンス」 「母さん、これで母さんに声をあげられるよ」 ブツブツブツブツ、気味が悪いことこの上ない。 それに黙ってじっと耐えていたエアリスに、イカはいそいそと薬品棚に向かった。 そこには。 ……言葉に出来ないほど気色の悪い瓶やツボ、覗いたらそのまま喰い殺されそうな樽が置いてある。 どれもこれも、絶対に半径1メートルは近づきたくない代物ばかりだ。 その中の1つに手を伸ばし、イカは満足そうに何度か頷いた。 「うむ、良いできだ。これで良いだろう」 そして、薬品棚を気色悪そうに見ているエアリスに小さな小瓶を押し付けた。 手渡されたそれは、棚の中では一番まともそうな小さな茶色の小瓶で心底ホッとする。 「それを男を助けた浜辺で飲め。そうすると、お前の尾びれは人間の足となり、お前は人間になる。だが、これは覚えていろ。歩くたび、お前の足はナイフで突き刺されるように痛む」 ゲッ…。 エアリスは顔を歪めた。 歩くたびにナイフで刺されるような痛み…!? 一体、この世界で誰が好き好んで痛い思いをしながら過ごしたがるか…。 エアリスの反応はイカの想像の範疇だったようだ。 ニ〜ッと笑うと、 「やっぱりやめておくか?」 「いいえ!」 差し出された手から遠ざかるようにエアリスは身を引いた。 しっかりと小瓶を胸に抱く。 イカは満足そうに頷くと懐からもう1つ、別の小瓶を出した。 エアリスが見つめる前でそのふたを開ける。 「その薬の対価として、お前の声をもらう。良いな?」 「な…!?」 想像もしていなかったその対価に、エアリスはギョッとした。 「ちょっと、歩くたびに痛みが走るのが対価じゃないの!?」 「バカを言うな。それは薬の副作用だ」 「そんなとんでもない副作用がある薬の対価が『声』って酷すぎない!?もうちょっとマシな薬にしてよ!!」 「そんな都合のいい薬が出来るか!」 「アンタ、魔法使いでしょ!?ならなんとかしなさいよ、イカ魔法使い!!」 「今はそれしかない。それに私の名前は『セフィロス』だ!いらないなら返せ」 「う……」 エアリスは悔しそうに唇を噛み締めた。 が、結局はそれしか方法がないのだから…と諦め、セフィロスと名乗った魔法使いに促されるまま声を発した。 すると、全身からスーッと何かが抜けていく感触と共に、自分の口から金色に輝く煙のようなものが、魔法使いの手にしている小瓶の中に取り込まれていった。 「コレで良い。後は、お前が薬を飲むだけだ。だが、これだけは覚えておけ」 「?」 声を出そうとして、もうその声が出ないことに驚愕し、深い喪失感を感じているエアリスにセフィロスは言った。 「尾びれから人間の足になる。ということはだ、人間からしたら、お前は全裸に近い変態女と言うことになる。だから、ちゃんと羽織るモノを持って行ってから飲むように」 「 !? 」 全裸に近い変態女!! とんでもない羞恥心が襲い、エアリスはパニックになった。 パニック状態でセフィロスに襲い掛かり、魔法使いのローブを強奪すると一目散に海面目掛けて猛ダッシュで向かった。 「こ、この…、なんてことをするー!!」 魔法使いの狼狽した怒鳴り声を背後に聞きながら…。 |