浜辺に着いたエアリスは、魔法使いから奪い取ったローブで身体をグルグル巻きにすると、小瓶の中身を一気に煽った。

「うっわ、マッズーーーーイ!!」

 思わず口元を押さえて吐き気をこらえる。

(あの魔法使い、薬じゃなくて毒をくれたんじゃないでしょうね…!?)

 あまりのマズさゆえか、それとも薬が効いていたのか。
 徐々に視界がぼやけ、意識が遠のく…。

(ごめんなさい、父様、ユフィ…マリン…)

 心の中で最愛の家族に詫びながら、エアリスはその場に倒れ伏した。







人魚姫の恋 3







 まだ明けきらぬ浜辺をゆっくりと歩く人影があった。
 だるそうな足取りはまるでやる気を感じさせない。
 朝焼けを楽しむ風でもないその足取りは、投げやりな雰囲気を醸し出していた。

 と、その足が止まった。
 慌てて駆け出す。
 だるそうな足取りからは想像出来ないような俊敏さで、一気に浜辺へ降り立つと、青年は倒れているエアリスを抱きかかえた。

 数回揺さぶるが意識を戻さない彼女に、金髪・碧眼の青年は大いに動揺し、辺りを見渡した。
 沖には船影もなく、浜辺に人の気配もない。
 悩むこと一瞬。
 青年はエアリスを軽々と抱き上げると、来た道を一気に駆け戻った…。


 そういうわけだから…。


(え……と、ここ…どこ…?)


 目を覚ましたエアリスは、見知らぬ天井、見知らぬ天蓋付きベッド、見知らぬシーツ、見知らぬ壁紙に囲まれ、目を白黒させた。
 ゆっくり身体を起こすと、自分が豪勢な部屋にいることが分かった。
 それは分かったのだが、この状況が分からない。
 部屋には自分しかおらず、説明してくれる者がいない。
 ならば…。

(誰か…いるかなぁ…?)

 部屋から出たら誰かに会うかもしれない。
 そう思って身体を捻ったその瞬間、下肢に激痛が走った。
 痛みのあまり鋭く息を吸い込み、慌ててシーツを剥ぎ取る。

(あ……)

 魚の尾びれの代わりに、白魚のような肌をした伸びやかな足が2本、そこにはあった。
 魔法使いのくれた薬はちゃんと効いたらしい。
 エアリスは嬉しくなって口元をほころばせた。
 と、自分の喉に手を当てる。
 声を出そうとしても声が出ない。

(あぁ…そっか…)

 声を対価としてこの足を手に入れた。
 足を手に入れられたことは素直に嬉しい。
 それがたとえ、動くたびに激痛が走ろうとも。
 しかし、声が出ないことがこんなにも悲しくて苦しいことだとは思いもしなかった。

(私…間違えたのかな……)

 大きな喪失感に目が潤む。
 冷静に考えてみれば、王子に会いたい、王子の傍にいてほんの少しで良いから思い出が欲しい、たったそれだけの感情で行動してしまったことが酷く愚かだったことに気づく。
 大体、王子というからには、謁見するためにどれほどの手間とコネが必要か。
 自分自身、王女という立場にあるのでそれがどれだけ大変なことか分かっている。
 分かっていたくせに、『会いたい』という気持ちですっかりぶっ飛んでしまっていた…。
 そもそも、仮に会えたとしても声が出ないのに一体どうやってコミュニケーションを取れというのか?
 ゼスチャーか?
 筆談か?

(筆談…って、こっちの世界の文字と私達の文字って一緒なわけ!?)

 考えれば考えるほど、愚かな契約をしてしまったことに気づかざるを得ない。
 情けなさ過ぎて涙がこぼれる。

 自分の愚かさを呪うあまり、ドアが開いたことも、誰かが入ってきたことも、その誰かが泣いている自分を見てギョッとしたことも気づかなかった。


「大丈夫か?どこか痛むのか…?」


 頭上から困惑しきりの声が降ってきた。
 ビックリして涙を拭く間もなく顔を上げると…。


(お、お…!)


「…大丈夫…か…?」


(王子さま!?)


 クセのあるツンツンした金髪に、吸い込まれそうな紺碧の瞳。
 会いたい、会いたい、というただその一心に突き動かされたエアリスの目の前に、その王子が心配そうに立っていた。
 しかも、至近距離で。

 あまりの出来事に硬直するエアリスに、王子はますます困惑したようだ。
 ウロウロと視線をエアリスの顔から身体、足先まで滑らせるともう1度エアリスの顔に戻った。

「医師の話しでは、特に外傷はない…ということだったが、どこか痛いか?」

(ほ、本物…!?)

 低いテノールの声は、エアリスが想像していた以上に心に響く優しい声音で、彼女はますますこれが現実のこととは思えなくなった。

(そ、そうよ。魔法使いの薬のせいで願望がそのまま『素敵な夢』になったんだわ!お、起きないと!!)

 ゴンゴンゴン!
 突然自分の頭を殴りだしたエアリスに、王子はギョッと目をむいた。
 慌てて彼女の手首を掴んで止める。

「おい、なにやってる!?大丈夫か、頭が痛いのか!?」

 力強い男の手。
 父王とは違う男の手にこうして触れられることは初めてのことだった。
 一気に血液が顔に集中する。

 カーッと真っ赤になったエアリスに、王子は自分自身混乱しながらも、ゆっくり話しだした。

 自分が打ち上げられた浜辺に早朝の散歩に出かけたら倒れていたエアリスを見つけたこと。
 身元が分かるものを身に付けていなかったので、ひとまず城に連れてきたこと。
 医師に診せた結果、水を飲んでいる等々の問題は特にないから、目が覚めるまで休ませるように指示を受けたこと。
 そうして、この部屋は開いている客間であること…。

 その一つ一つをゆっくりと丁寧に、膝を着いて視線を合わせ、説明してくれた。
 エアリスは王子の言葉を聞きながら、夢見心地だった。
 まさか、会いたいと願っていた王子に拾われるとは!

(これって、もしかして『運命』!?)

 バクバクバク。
 やかましいくらいに心臓が脈を打つ。
 王子の言葉は一つ残らず記憶に残したいのに、心音がそれを邪魔する。
 ボォッと聞き惚れているエアリスに、肝心の王子はますます心配そうな顔をした。
 なにしろ、話をしている間、エアリスは何も言わないのだから。

「その……俺の声、ちゃんと聞こえてるか?」

 夢見心地だったエアリスはハッとして大きく頷いた。
 ちょっとだけ安心した王子だが、また少しだけ怪訝そうに眉根を寄せた。

「じゃあ…その、名前、聞いても良いか?それにどこから来たのか…、どうしてあそこで倒れていたのか…」

 エアリスの顔からスーッと表情がなくなる。
 そう…。
 自分はもう、しゃべれない。
 何も言えない。
 伝える術(すべ)が…ない。

 目を伏せてゆっくり首を横に振ると、王子は軽く目を見張った。

「お前……声、出ないのか?」

 コックリ。
 頷いたエアリスに王子はノロノロと立ち上がり、
「いいか、そのままそこにいろ。今、医師を呼んでくるからな!」
 そう言い残して慌てて部屋から駆け出してしまった。

 ポカン…とその背中を見送って間もなく、どやどやと人の気配が近づいたかと思うと、王子を先頭に白衣の集団がドドッと部屋になだれ込んできた。
 その光景に思わずビックリして身じろぎする。
 途端、生まれたばかりの足に激痛が走った。
 顔をしかめ、足を庇うようにして身を伏したエアリスに、医師と看護師たちは取り囲んだ。
 そして、自分たちの主であるはずの王子をポイッ!と部屋の外の放り出すと、エアリスの診察に取り掛かったのだった。


 *


「なぁにやってんだ、クラウド…?」

 廊下でポツン…と待たされている王子…、クラウドに黒髪・碧眼の青年が呆れたような声をかけた。
 対してクラウドと呼ばれた王子は青年を見ることなく、
「診察中だからって追い出された」
 どことなく拗ねたように答えた。

「はっは〜ん、まぁそりゃ仕方ないわな。婦女子の診察を見学させてもらえるはずないし」
「…アンタが言うとなんで全部卑猥に聞こえるんだ…?」
「失礼なことを言うな。それから『アンタ』じゃなくて『兄上』だろ?」

 ガシガシガシッ!

 片手でクラウド王子の肩を抱くと、もう片方の手で金髪を乱暴に撫でる。

「イタイイタイ、やめろ、このバカックス!!」
「誰がバカックスだ!『ザックス兄上』だろうが!」
「だ、誰が呼ぶか!!」
「呼ぶまで止めん!」
「止めろー!!」
「ヤ〜ダね」
「イタイって言ってるだろ!?ハゲる、ハゲる!!」
「だ〜いじょうぶだって。お前、髪の毛多いから多少ハゲてもバレないぜ」
「そういう問題か!!」
「そういう問題にしとけよ」

「…いい加減にしろ、バカ兄弟」

 兄弟仲良く(?)じゃれているところへ第三者が割り込んだ。
 その声に、ピタリ…と2人は止まるとピシッと姿勢を正した。

「父上、おはようございます」
「……おはようございます」

 ニッカリと笑ったザックス王子とは対照的で、言いにくそうに俯き加減で挨拶をしたクラウド王子に、黒髪の王は小さく溜め息をついた。

「クラウド、お前が連れてきた娘が意識を取り戻したと聞いたが?」
「……はい」
「それなのに、何故また、医師たちがかかりっきりになっている?」
「……声が…出ないようなので…どこか悪いのか…と…」
「声が?」
「……はい」

 ザックス王子と対していた時とは全く違う萎縮した姿に、王は苦い顔をした。
 視線をそらせているクラウド王子はそれに気づかない。
 ザックス王子は、やれやれ…と言いたげに目をグルリ…と回した。
 王はそれ以上、会話の糸口を探すつもりがないのか、ザックス王子へ話しかけた。

「それで、その娘はどこの出身だ?」
「さぁ、俺もきたばっかりで会ってないんですよ」
「そうか…。不審な点がないか見逃さないように」
「了解でっす!」

 王の最後の言葉に、思わず顔を上げたクラウド王子だが、既に王は赤いマントを翻して背を向けていた。
 歩み去る王に、結局声をかけることなくクラウド王子はフイッ…、とその背から顔を背けた。
 気まずい雰囲気にザックス王子は静かに苦笑した。
 弟の立場を考えると、父王に親しくなれないのは無理もないと思う。
 だが、それではこの城で…、この国で生きていけない。
 もっと強くならなくては。

(どうしたもんかなぁ…)

 顎に手をやりながら少しだけ自分より背の低い弟を見る。
 どちらかと言うと、他人に対してあまり興味を持たない弟が拾ってきた娘。
 その娘こそが、この弟を変えてくれるのではないか?
 など、ついつい都合の良い期待を抱いてしまう。

(ま、直接会ってみないと分からんな。父上の仰るとおり、他国からの間者かもしれないし)

 今のところ、この国は隣国と友好的だ。
 戦争をふっかけられる心配も、ふっかけるつもりもない。
 だが、のんびり構えていて一昔前のような戦乱が起こらないとも限らない。

(まぁ、目下の心配は…)

 医師たちの診察を受けているという娘のいる部屋のドアをジッと見つめる弟を、ザックス王子は温かく見つめた。


 王子たち2人が医師の許可を得てエアリスに面会できたのはそれからすぐのことだった。


 *


「へぇ、すっごいべっぴんさんだ!」

 エアリスを見たザックス王子の最初の一言。
 クラウド王子は素っ頓狂な声を上げた兄を完全に無視すると、医師の1人から診断結果を聞いた。
 結果…。

「特に異常はないようなのです。声が出ないのも、先天的なものとしか…。喉に炎症も見られませんし」
「……そうか…」

 どことなく落胆した様子のクラウド王子に、エアリスの胸がチクリ…と痛んだ。
 まるで、自分の声を聞きたかったと言われているかのような気持ちになったのだ。

(…ごめんなさい…)

 心の中でそっと謝る。
 と…。

「はじめまして、俺はこの国の第一王子、ザックス。クラウド、お前はちゃんと挨拶したのか?」

 最初はエアリスに向けて、後半はクラウド王子に向けて声をかけたザックス王子に、エアリスとクラウドはそれぞれハッとした顔をした。
 慌ててクラウドは軽く頭を下げ、自分は第二王子であることを告げた。
 エアリスもそれに釣られて頭を下げる。
 頭を下げ合う2人にザックスはカラカラ笑うと、ニッカリ微笑んだ。

「それにしても、キミ、どっから来たの?」

 椅子を寄せて勝手に座る。
 クラウドは咎めるような視線を送ったが、それを無視してザックスは話を続けた。

「声、本当に出ないわけ?」

 コックリ。

 俯き加減に頷いたエアリスに、ザックスは「ふ〜ん、そりゃ不便だなぁ…」とぼやきながら、ベッド脇のテーブルに置いていた紙とペンを手にした。
 そして、それをエアリスに差し出す。

「字は書けるか?」
「ザック…、兄上!」

 非難の声を上げた弟を、これまた華麗に無視してザックスはエアリスをじっと見た。
 口元は笑っているが、目が笑っていない。
 エアリスは背筋に冷たいものが走るのを感じた。
 第二王子であるクラウドは自分に同情的だが、この第一王子は完全に警戒している。

(……そりゃそうよね…)

 正体不明の人間を相手に無警戒でいられるほど、王族はお人よしではいけない。
 その点を考えると、第二王子はいささか軽率だったのだ。
 だが、それを批判する気にはサラサラなれないし、自分のせいでクラウド王子がまずい立場に立たされたかもしれないと思うと胸が痛い。
 震える手でエアリスはペンを取った。

 目を見張るクラウドと、ジッと黙って見つめるザックス両王子の前で、エアリスは自分の名前を紙に記した。

「へぇ、『エアリス』って言うのか」

 海底世界での言葉が通じてホッとしながら、コックリと頷く。
 だが、クラウド王子はますます動揺しているようだった。
 その表情に不安が胸いっぱいに広がる。
 対して、ザックスはどこまでも陽気だった。

「字が書けるってことは、そこそこ身分があるんだな。出身はどこ?」

 エアリスは息を呑んだ。
 この国では、平民で字が書ける者はあまりいないのだとその言葉で悟った。

(あぁ…だから…)

 だから、クラウド王子は驚き、困惑しているのだ。
 自分のことを、敵の送り込んだ間者だと思ったのかもしれない。
 エアリスは焦燥感に駆られながら必死に文字を綴った。

 震える手で紙を差し出す。
 ザックスは、エアリスの手が震えていることに気づいていたが、素知らぬフリをして読んだ。
 そして…。

「……あのさぁ、もう少しマシなウソ、つけないわけ…?」

 脱力してガックリ…と両膝に両肘を着き、頭を垂れたザックスの手からクラウドが紙を奪い取る。
 その目が文字を追うのをエアリスは祈るような思いで見つめた。
 クラウド王子の目がまん丸になり、次いで困ったような顔になるのに時間はかからなかった。

「……」

 黙って見つめられ、居心地が悪くて視線を逸らせる。
 気まずい沈黙。
 その沈黙を破ったのは、やはり…というかなんというか…。

「まぁ、とりあえずキミの主張する『記憶喪失』を信じることにするよ」

 驚いて顔を上げると、同じくクラウド王子もビックリして兄王子を見ていた。
 2人に見つめられ、ザックス王子はニッカリ笑うと、
「こんな可愛いお嬢さんを冷たい牢獄に入れるのもなんだしな。それに…」
 チラリ、と弟を見る。
 その目が、クラウド王子と同じ色だとその時エアリスは気づいた。
 温かく、弟を想う情で満ちた…紺碧の瞳。

「クラウドはどうやらキミを気に入ったらしいからな」

 途端、2人ともボンッ!と音を立てるようにして真っ赤になった。
 ザックスはカラカラと笑うとゆっくり立ち上がり、硬直する2人に茶目っ気たっぷりにウィンクした。

「でも良いか?『エアリス』って名前は俺とクラウドが考えてつけたってことにするんだぞ?仮にも『記憶喪失』の人間が自分の名前だけ覚えてましたってのも変だろ?」

 そう言い残して部屋を後にしたザックス王子が消えたドアを、2人して暫く見つめていたのだった…。