結局、エアリスは海に帰らなかった…。






人魚姫の恋 5







「エアリス、どうしたんだ?目が腫れてる…」

 翌朝。
 朝食の際、クラウドが心配そうに声をかけた。
 昨夜、散々ザックスの胸の中で泣いたせいですっかり瞼が腫れ上がっている。
 どうごまかそうか…と思案していると、
「クラウド。お前ってほんとに野暮。あのな、記憶のない女性が不安に思って泣くくらい普通だろ?」
 背後から呆れかえった声で助け舟が出た。
 ザックスの言葉にクラウドは疑うことなく、ほんのり申し訳なさそうな顔をした。

「そうだな…すまない」

 エアリスは慌てて首を振った。
 振りながら、昨夜のことをまざまざと思い出す。

 ザックスにクラウドの傍にいて欲しいと懇願されたこと。
 それを拒んだこと。
 そして…。

 昨夜、散々泣いた後、エアリスを大事そうに抱えて部屋まで送ってくれたザックスの逞しい腕と広い胸の温もり。

 それを思い出して頬がカッと熱くなる。

「お?大丈夫かエアリス?調子悪いか?」

 エアリスの心情など思いもよらないのだろう、ザックスはキョトン…と首を傾げるようにして顔を覗き込んだ。

(誰のせいだと思ってるの!?)

 いささか気分を害しながらブンブン!と首を振ってさっさと自分の席に着く。
 ザックス、クラウド兄弟王子が不思議そうに顔を見合わせたが、それ以上突っ込んで聞くような野暮なことはしなかった。
 その様子をチラッと見ながら、エアリスは面白くない気分でいっぱいだった。

 自分だけが意識しているのだろうか…。
 昨夜、あんなに泣いてしまったというのに。
 おまけに、最後は優しく部屋まで抱き上げて運んでくれて…。

 改めて思い出し、ますます血が上る思いがする。
 なんとも言えない感情をごまかすように、やや乱暴にナイフとフォークを使うエアリスに、両王子のみならず執事や侍女たちも不思議そうな…、困惑したような顔をした。


 *


「ザックス殿下、クラウド殿下、国王がお呼びです」

 家臣の1人がそう伝えたのは朝食後間もなくのことだった。
 2人揃って「「 げっ 」」と呻く。
 家臣はその呻き声を完璧なまでに無視し、
「お伝えしましたぞ。今すぐです」
 念押しすることを忘れずに一礼して去っていった。
 動作に無駄がない。
 両殿下に呼び止められたり、『急用が出来たから召しに応じれない』など、言い訳される隙が全くない身のこなし。
 流石はヴィンセント王の家臣なだけはある。
 有能さ加減が、この一瞬で窺えるというものだ。

「…」
「…」

 ザックスとクラウドは暫く食堂のドアを呆然と見つめていたが、おもむろに顔を見合わせた。
 そして…。

「「 じゃんけんポイッ! 」」

 唖然とするエアリスの目の前で、壮絶なじゃんけん争いに突入した。
 中々勝負のつかないじゃんけんに呆然とするエアリスに、侍女の1人がクスクス笑いながら耳打ちした。

「ああやって、緊張をほぐしておられるんですよ。今、呼びに来られたリーブ大臣によるお召しのときは、必ずといって良いほどザックス王子とクラウド王子にとって、聞きたくない内容ですから」

(……なにそれ…)

 エアリスは呆れたように熱戦を繰り広げている兄弟を見た。
 自分の父親に会うのにそんな気合を入れなくても…と思う。
 まぁ、クラウドにとって正確には『おじ』に当たるようだが…。

「じゃ、エアリスは適当にゆっくりしてて」

 うな垂れたクラウドの背を押しやるザックスに微笑みかけられながらエアリスは笑い返して手を振った。
 ドアが閉まった後も、なんとなく目が離せなくて見つめていると、侍女にクスクスと笑われた。

「ザックス王子はクラウド王子と違って社交的ですよね」

 その言い方になんとなくカチン…としながらも、エアリスは曖昧に微笑んで頷いた。
 侍女の言うとおり、クラウドは社交性に欠けている。
 だから、彼はいつまで経っても孤独なのだ。
 もっと自分に自信を持ち、堂々と胸を張っていかなくては…。
 望もうが望むまいが、王族として生きることになったのだから、それ相応の覚悟を決める『義務』がある。
 王女であるエアリスはそう考えて今まで生きてきた。
 だから、クラウドにもその姿勢を…と思ってしまった。
 それが、ひどく滑稽だと感じて俯く。
 今、自分がここにいることこそが、クラウド以上に『王族』としての責務を放棄した証ではないか…と思ったからだ。

 なにやら急に落ち込んだエアリスに、侍女は困ったような顔をして、
「デザートのおかわりはいかがですか?」
 と、声をかけたのだった。


 *


「エアリス…、俺は旅に出る」

(はい!?)

 エアリスは、突然部屋にやって来たザックスの一言に目を丸くした。
 彼の後ろには弟のクラウドもいる。
 2人とも、なにやら顔が青い…。

「ザックス……」
「慰めはいらないクラウド。俺は…俺は!!」
「…別に慰めはしないけど、『会ってから』決めても良いんじゃないか…?旅に出る云々は…」
「おまえ〜〜、他人事だと思って軽く言いやがってー!」
「イ、イタイイタイ、だから、髪が抜けるだろ!?」
「抜けるかこれくらいで!!そんな根性なしな髪ならいっそ丸ごと抜けてしまえ!!」
「なに言ってるんだ、支離滅裂だ!!」
「やかましいー!!」

 まったく状況が分からないが、王の呼び出しが2人の王子にとって非常に大問題な内容なことだけは分かった。

(あの侍女の言うとおりだったみたいね)

 今までこんな風に自分自身のことで取り乱しているザックスは見たことがない。

(まぁ、一週間くらいしかここにいないんだから、見たことがなくても当たり前なんだろうけど…)

 いつも、クラウドのことで一生懸命なのに、今日は自分自身のことで取り乱している。
 何を言われたのだろう?
 気にするな…と言うほうが無理だ。

 エアリスはギャーギャーと騒いでいる兄弟王子を見て、ユフィとマリンを思い出した。
 胸がチクリと痛むのを無視し、思い切り手をパチン!と鳴らした。
 途端、ザックスとクラウドはハッと我に返った。

「ご、ごめん、エアリス。なんのことか分かんないよな」
「…すまない…」

 シュン…、とうな垂れた2人に、ニコニコ笑いながらエアリスは自分が座っているソファーをポンポン、と叩いて座るように促した。
 ドッカ…、とザックスが隣に、真向かいに椅子を移動させてクラウドが座る。

 頭を垂らして心底『参った…』という様子のザックスに不安になる。
 いつも陽気な王子をここまで追い詰める内容とは一体なんだというのか…?


「…来週、俺の結婚相手が城に来ることになった」


 …。
 ……聞き間違いだろうか…。

 ギギギギギ…、とブリキのおもちゃのごとく、ぎこちない動きでクラウドを見る。
 クラウドは相変わらずの無愛想な表情の中に複雑な色を滲ませて頷いた。

 ギギギギギ…、と、ザックスに顔を戻す。
 前髪がハラリ、と顔にかかっているのでザックスの表情はよく見えないのだが、確実に追いやられていることは分かった。

(えっと……どうしたら良いのかしら…)

 結婚相手が城に来ることになった、とザックスは言った。
 ということは、今の今まで『婚約者』とか結婚相手の候補者が確定していなかった…ということなのだろう。
 前々から決まっていたことならここまで落ち込んだり、取り乱したりすることはないはず…。

 ザックスの状況は、まさにエアリスの状況と同じだった。
 だからこそ、ザックスの心境が痛いくらいに分かる。
 だから…。
 エアリスは自然とザックスの手を握っていた。
 そう、言わば2人は『同志』のようなものだ。
 驚いて顔を上げたザックスに、エアリスは眉尻を下げた悲壮な面持ちで瞳を潤ませていた。
 そして、ザックスの目を見つめて深く深く頷いた。
 言葉にしなくとも、
『分かるわ、その気持ち!』
 と言っているのがバッチリ伝わる。
 その瞬間、ザックスはハッとした顔をした。

「そうか……そうだったのか、エアリス!」

 握ってくれているエアリスの手を握り返すと、ズイッと顔を寄せた。
 クラウドが「お、おい、こら!」と慌てたが、2人とも耳に入らない。
 至近距離で見詰め合う。


「エアリス、キミも意に沿わない結婚相手がいて、旅に出たんだな!!」


 ドーーーン!!

 若干違うのだが、ほぼ正解のその一言にエアリスは目を見開いた。
 そして、何度も頷いてますますザックスの手を握り締める。
 ザックスは感慨深げに、
「そうだよな、いきなり『お前の結婚相手が来週来るから、しっかり務めを果たせ』だなんて言われて、『はい、分かりました』なんて言えないよな!?」
「言ってたじゃないか…」

 クラウドの突っ込みは完全にスルーし、ザックスは何度も何度も「うんうん、俺、エアリスの気持ちが痛いくらいに分かる!」と繰り返す。
 クラウドは面白くなさそうな顔をしていたが、ふと視線をエアリスに流した。

「なぁ、ほんとにエアリスも『意に沿わない結婚相手』がいるのか?」

 エアリスはハタ…と現実に戻った。
 すっかりザックスと意気投合していたので、自分が海底世界の王族である任務を放棄している状況を『仕方ないよね』と甘く考えてしまっていたことに気づく。

 のろのろとクラウドを見ると、躊躇いながらコックリ頷いた。
 クラウドは顎に手を添えて「うーん……そうか…」と呟くと思案顔になった。

「なんだよクラウド」
「…いや、もしもそうなら、今頃エアリスを探すために捜索隊が結成されてておかしくないな…と思って…」
「あ……確かに」
「でも、そういった動きの報告は今のところ聞かないな」
「そうだな…」

 エアリスはドキッとしてザックスからそっと手を離した。

(そりゃそうよねぇ…。捜索隊、結成されてても人間が知るはずないもんね…)

 そこの部分を突かれると非常にまずい。
 自分が人魚であることを真正直に2人に話したとしてもまず絶対に信じてくれないし、なによりも海底の掟によって人魚の存在も、『海底世界』があることも人間にバレてはならないのだから。

(こ、困ったな…)

 なんとか2人の思考を『自分の失踪=結婚相手からの逃避行』から切り離さなければ。
 焦るもののどうしたら良いのかさっぱりだ。

 と、ここで意外な助け舟がやってきた。

 コンコンコン。
 ノックの音がして、
「エアリス様、申し訳ありませんがこちらにクラウド殿下はお出ででしょうか」
 という、リーブの声がしたのだ。
 クラウドはリーブが自分の名を口にしたことでビキッ!と固まった。

 これ以上、何か大問題を聞かされるのだろうか…!?と、その顔に書いてある。
 ザックスも弱った顔をした。

「あぁ、いる」

 声が出せないエアリスの代わりに、クラウドが渋々返事をする。
 クラウドが立つのとドアが開いてリーブが姿を現すのが重なった。

「クラウド殿下。…大変申し上げにくいのですがお客様がいらっしゃってます」

 朝食の際、ザックスとクラウドを呼びに来たときと打って変わって、躊躇いながらそう報告するリーブにエアリスは首を傾げた。
 あまりクラウドに会わせたくない相手…という感じがするのだ。
 そしてそれは、間違いではなかったらしい。
 サッ…と険しい顔をしてクラウドが顔を背けたのだ。
 同時にザックスも素早く立ち上がると、クラウドを庇うように腕を引き、自分の背に回した。

 2人の変わりようにエアリスはただただ目を丸くするしかない。
 リーブは渋面で一礼すると、
「どうされますか?」
 頭を下げたまま問う。
 誰が来たのか、両王子には分かっているらしい。
 ザックスは厳しい声で、
「通さなくても良い。母上がどうせ相手をして下さっているんだろう?それだけで十分のはずだ」
 切って捨てるように言い放った。
 その冷たい声音にビクッと身を竦め、エアリスはザックスを見つめた。
 厳しい表情に相応しい凍りつくような瞳。
 背筋がゾクゾクするほどの威圧感。

(この人は本当に……『王子』なんだわ…)

 国を守るために、王は時として非情にならなければならない。
 その天性の素質をこの人は持っている。
 エアリスはそれをヒシヒシと感じた。


「…俺の部屋へお通ししてくれ」
「クラウド!」


 招かれざる客人と会うことを告げたクラウドにザックスが勢い良く振り返った。
 瞳は冷たいままだが、クラウドを心配していることが痛いくらいに伝わってくる。
 クラウドはまだ自分の腕を掴んでいるザックスに微かな笑みを浮かべた。
「大丈夫だ……ありがとう」
 そう言って、そっとその手を離させた。

「では、そのように…」

 再び一礼してリーブがドアを閉めた。
 気まずい雰囲気が部屋を満たす。
 苛立たしげにザックスは大股で部屋をウロウロと歩き回った。

「無理して会う必要なんかもうないんだぞ?お前はちゃんと正式にこの国の第二王子として迎えられたんだ。そのことを忘れるな」
「あぁ…分かってる」
「分かってない!」

 カッ!と足を止め、大股でクラウドに詰め寄る。
 クラウドはそっと視線を逸らせた。
 ザックスはグイッとクラウドの顎を掴むと自分へ顔を向けさせた。

「お前、本当に分かってねぇよ!いつまでも惨めな顔してるんじゃない!アイツとお前は別の人間だ、お前は俺の弟でこの国の第二王子!それを誇りに持て!!でないと、いつまで経ってもアイツに食い物にされるだけだぞ!?」

 ザックスの言うアイツ、とやらが一体どういうつながりの人間かはさっぱり分からない。
 分からないながらも、クラウドが本当はザックスの『従兄弟』であることが関係しているのだろう、とエアリスはおぼろげに考えた。

 クラウドは激昂するザックスに目を細めた。
 肩から力が抜けていくのが分かる。

「大丈夫だ、ザックス。俺は……1人じゃないからな…」
「……この大バカ野郎……」
「はは、そうだな」

 クラウドはそっと顎を掴んでいるザックスの手を払うと、エアリスへ振り返った。

「すまないエアリス、驚かせて。俺はちょっと人と会うから、また後でな」

 そう言い残してクラウドはザックスの脇を通り過ぎ、ドアの向こうへと消えた。
 その背が、少しだけ小さく見えてエアリスの胸がザワザワと不安でざわめく。

「くそっ!」

 床を蹴りつけてザックスは忌々しそうに窓の外を見た。
 釣られてエアリスも窓の外を見る。
 いつの間にか、豪華な馬車が一台、止まっているのが見えた。

「あんな豪勢な馬車使うような金、持ってるはずないのに…!」

 ギリリ…。
 ザックスが奥歯をかみ締める音がもれ聞こえる。
 ここまで嫌悪感を抱かせる相手、というのは逆に興味をそそられるものだ。
 エアリスは心配でいっぱいになりながらも、この陽気な王子にここまで嫌われる客人というものを一目見てみたい、と思った。
 無論、クラウドのことも心配だ、非常に!

 その気持ちを言おうか言うまいか迷っていると、ザックスにいきなり抱き上げられた。

 声にならない悲鳴を上げ、反射的にザックスの首に両腕を回す。
 そうしないと落っことされそうだった。

「悪いな、エアリス。俺が夕べ、なんでキミにクラウドの傍にいて欲しいって頼んだのか、その理由を直接見てくれ」

 そう言うや否や、ザックスは部屋を飛び出した。
 エアリスを抱きかかえているとは思えないほどの軽やかな走りっぷりに、ただただ目が回りそうになる。
 幾人もの使用人、兵士、家臣たちとすれ違い、皆の唖然とした顔に見送られながら2人は大きな部屋の前に到着した。
 城の奥まった場所に位置するその部屋。
 ただの来客や一般兵は立ち入ることが出来ないその場所。

 今日まで来たことはなかったがクラウドの…、この国の第二王子の部屋だった。