「可愛い甥が無事で本当によかったわ〜!!」
 キャハハハハ〜!

 その笑い声に、バスルームのドアにかじりついていたエアリスは、ゾワッと背筋を泡立たせた。







人魚姫の恋 6







 シーッ。
 人差し指を立てて口に当てたザックスに、エアリスはコックリと頷いた。
 もとより、声は出ないのだが慎重に慎重に、足音を忍ばせて隣の部屋…、つまりクラウドと『招かれざる客』へと続くドアへにじり寄る。

「ここ、クラウドの部屋と俺の部屋との続き間なんだ」

 そう告げながら、続き間でもある浴室のドアへ、ザックスも耳を当てた。
 なにやら耳障りな笑声が聞こえてくるが、不快感という感情に突き動かされてドアを蹴破るわけにはいかない。
 そんなことをしたら、意を決したクラウドの気持ちを踏みにじることになる。

 エアリスは歯軋りしたい思いを必死にかみ殺して、ドアの向こうへと意識を集中させた。

「スカーレット伯母上、これを…」
「まぁ、すごいじゃないクラウド、キャハハハ!やっぱり、『バレンタイン王国』は羽振りが違うのねぇ」

 なにやらジャラジャラという音がする。
 おそらく金貨だろう。
 ザックスの瞳に殺気が混じるのを見て、エアリスは肝を冷やした。

「それにしても、本当にお前が無事で良かったこと!船から投げ出されたって聞いたときは心臓が止まるかと思ったのよ〜!」
「……流石、情報が早いですね」
「当然よ。お前が海に投げ出されてからもう一週間が経つじゃない。こんなに時間が経ってるのに知らないはずがないでしょう?」
「…伯母上の屋敷からここまで来るのに3日はかかるかと思いますが…」
「キャハハハ、えらくつっかかるのねぇ、クラウド」

 耳障りな笑い声を織り交ぜながら話すクラウドの伯母に、エアリスは苛立ちが急速に加速するのを感じた。
 バレンタイン王国の第二王子というクラウドから、甘い蜜を吸い取っているのだ、この伯母は。

(だから…)

 先ほどザックスが『通すな』とリーブに命じた理由が分かった。
 クラウドに、誇りを持て、と言った理由も。

 どのような経緯があってクラウドが一国の王家に養子として迎えられたのか、まだ良く分からないが、そのせいでクラウドはあの『スカーレット伯母上』とやらに金をせびられている。

(きっと、王子様がお金を渡すことを拒否したら、『王子の伯母』という権威を振りかざしてやりたい放題するんだわ。だから、渡さざるを得ないのよ)

 一瞬のやり取りでそこまで見破ったエアリスは、怒りで我を忘れそうになった。
 足の痛みも忘れてドアを蹴破り、踏み込みたくなる。
 しかし、自分に密着するようにしてドアに耳を寄せているザックスの存在がかろうじてその暴挙に出ることを抑えてくれていた。
 エアリスよりも強い怒りを覚えて震えている第一王子。
 ザックスは怒りで荒い息を繰り返していたが、エアリスの義憤に燃える瞳に気づいてニッ…と笑った。
 そして、ドアをそっと開き、ほんのわずかな隙間から覗き込む。

 よくは見えないが、クラウドと似たような金髪をくくり上げた女性がふんぞり返って椅子に腰掛けているのが見えた。
 その前に、クラウドが硬い表情で立っている。
 視線は伯母を見ていない。
 少しうつむき加減で床を睨み付けている。

「…あのバカ…」

 思わずザックスが呻いた。
 ザックスの怒りの理由、それはきっと、『惨めな顔をするな』と言った彼の言葉をクラウドが果たせていないからだろう…。
 俯いて硬い表情をしているクラウドは、伯母に弱みを握られているただの幼い子供のように見えた。

(もう…!クラウド王子、しっかりしなさいよ!!)

 ザックスと同じく、エアリスも思わず心の中で叱咤した。
 が…。
 次の瞬間、クラウドは顔を上げると淡々とした冷たい口調で言葉をつむいだ。


「伯母上、ここにはもう金輪際来ないで下さい」


 一瞬のしじま。
 ザックスもエアリスも、目を丸くした。
 スカーレットの表情は見えないから分からない。
 固まったという部分ではザックスとエアリスと同じだ。

「な、なにを言ってるのかしらねぇ、クラウドちゃんったら」
「伯母上、もう一度言います。二度とここに…、この『バレンタイン王国』に来ないで下さい」

 きっぱりと言い放ったクラウドに、スカーレットは勢い良く立ち上がった。
 そしてその勢いのまま手を振り上げる。

「伯母に向かってその口のきき方はなに!?」

 ヒステリックな怒鳴り声と共に、振り上げられた手が振り下ろされた。
 クラウドはその平手を甘んじて受けはしなかった。
 振り下ろされた手首を掴むと、至近距離で伯母を睨む。


「あの夜、伯母上が差し向けた刺客にザックスが突き落とされそうになったのはもう分かってる」


 ザックスとエアリスは息を呑んだ。
 顔を見合わせ、すぐ2人へと視線を戻す。

「アンタは俺をこの国の第一王子にしたいんだろうけど、そうはいかない。俺はあくまでザックスの従兄弟。それは養子として迎えられても変わらない事実。この国の正当な王位継承者はザックスただ1人だ」
「な…なにを…」
「しらばっくれても無駄だ。あの嵐の夜、部下を使ってザックスを甲板に呼び出しただろう。伯母上、アンタのお抱え占い師はよく当たると評判だったな。嵐が来る時刻にザックスを甲板に呼び出して、手下に突き落とさせたんだろう」

 ザックスが止めていた息を吐き出した。
 エアリスはあの夜、クラウドを助けたことを思い出していた。
 荒れ狂う海に翻弄される船。
 その船の甲板から叫ぶ人々の声。
 その声に、ザックスの必死にクラウドの名を呼ぶ声が混じっていた…。
 そうして…。
 翌日、クラウドを探しに来た人々の中で、彼に駆け寄り、抱きしめて無事を喜んだ青年の姿。

(…ザックス王子…)

 エアリスはザックスを見上げた。
 第一王子は目を見開いて硬直している。
 その紺碧の瞳は驚きだけではなく、怒りや悲しみ、苦しみがごっちゃにない混ざっていた。

 クラウドは続けた。

「ザックスの後ろを異様に付きまとう奴がいたから気になった。いつものザックスなら絶対に隙を見せないけど、流石にあの嵐では背後に注意が向かないだろうって考えたんだろ?」
 事実、その通りだったけどな。

 絶対零度の冷たい声音でそう言うクラウドに、スカーレットはワナワナと震えていた。
 覗き見している2人に背を向けているので表情は見えないのだが、狼狽していることは伝わってくる。

「キャ、キャハハハ、そ、それが本当なら、どうして国王や第一王子に言わないのさ!」

 至極もっともな追求に、それでもクラウドは表情をピクリとも変えなかった。

「そんなこと言わなくても分かるだろう?ルクレツィア叔母上のためだ」
「!!」
「自分の弟の妻の姉が犯罪に加担したと分かったら、叔母上の評判が落ちてしまう。国王である叔父上にも累が及ぶ。そんなこと、絶対にさせられない」

 きっぱりと言い放ったクラウドに、エアリスは熱いものがこみ上げてくるのを感じた。

(クラウド王子は……ちゃんと誇りを持ってる)

 思わず涙がこぼれそうになって、慌てて瞬きをした。
 そして、ふと上を向く。
 間近でザックスの横顔を見た。
 彼もまた、目を潤ませながら食い入るように自分の弟を見つめていた。


 その後。


 なんとか言い逃れをしようとするスカーレットを追い出したクラウドを見届けると、2人はそっと続き間である浴室を出た。
 きっと、クラウドは今、誰にも会いたくないだろう…と考えたのだ。
 自分の伯母が一国の王子を暗殺しようとした。
 そんな大きな苦しみを1人でこの一週間、抱えていたのかと思うと胸が詰まりそうになる。
 ザックスもエアリスも、お互い押し黙って昨夜、話をした噴水のベンチに腰掛けていた。

 2人の間を穏やかな風がそよそよと流れていく。
 やがて。

「はぁ…本当に参った」

 しみじみと言った風に、ザックスが空を仰ぎながら呟いた。
 その声はとても感慨深げでエアリスは釣られるようにしてザックスを見た。
 ほんの少し寂しそうに微笑んでいるように見えたのは気のせいだろうか…?

「あの晩、クラウドが言ったように俺、呼び出されたんだよなぁ」

 小首を傾げることで先を促す。
 ザックスは照れたように笑った。

「変だなぁって思ったんだよな。いきなり『相談したいことがあるから』って、クラウドの名前で手紙がドアの隙間から差し込まれたんだ」
 ポリポリ。
 頬を掻きながら照れ臭そうに笑う。
 エアリスは微笑んだ。

 きっと、クラウドが心を開いてくれた、と思って喜んだんだろう。
 だから嵐が酷くなっても、手紙に書かれた時刻の甲板に出たのだ。
 そこで、ザックスは海に突き落とされそうになって、助けに入ったクラウドが逆に海に落ちてしまった…。

 と、そこでエアリスは疑問に思った。

 この城にきてから持ち歩く習慣となっていたペンとメモを手に、浮かんだ疑問をサラサラと書く。

「『突き落とした犯人はどうしたのか?』ってか…。それがなぁ、あの時、もうすっごい嵐でさぁ、風と雨で周囲がよく見えなくてさ。おまけに船はめっちゃ揺れるし。んで、なんか背中に当たったかなぁ?って思ったときにはクラウドが俺の手を引っ張ってくれて、その反動で海に落っこちちまったんだ。もうそれで頭真っ白になって、なんにも分からなくなってさ。後を追って飛び込もうとしたけど、リーブに止められたんだ。だから、犯人は見てない。でも…」

 言葉を切ってザックスは城へ視線を流した。

「きっと、クラウドは犯人の尻尾を捕まえたんだろう。だから、あのババアが黒幕だって分かったんだ」
 おっと、『ババア』だなんて汚い言葉聞かせて悪い。

 笑いながらそう言ったザックスだったが、その笑いがとても寂しいものに聞こえてエアリスは胸が苦しくなった。
 きっと、ザックスは己を責めている。
 クラウド1人に、こんな重いものと対峙させてしまったことを。
 でも…。

「ん?」

 また、サラサラと文字を書いたエアリスにザックスは首を傾げた。
 そして、その書かれたものを読んで目を見開き、次いで泣きそうな顔で微笑んだ。

「あぁ…そうだと良いな…」

 ― 『ザックス王子の弟として、この国の第二王子としての誇りを持って戦ったんだよ。だから、これで良かったんだよ』 ―

 エアリスはニッコリ笑った。
 笑いながら涙でちょっぴり滲んだ瞳でザックスを見つめた。
 クラウドと同じ、優しい色をした紺碧の瞳を。

 そして、思わずにはいられなかった。


 このまま、この人たちの傍にいたい…。


 それが叶わぬ願いだと、痛いくらいに分かっていたけれど。


 *


 その後。
 執務があるというザックスは、エアリスを部屋に運んでくれようとしたが、やんわりと断った。
 まだ、なんとなく心が落ち着かなくて、この庭で時間を過ごしたかった。
 ザックスはエアリスの意思を汲み取って、
「じゃあ、ゆっくりしててくれ。もしも執務が早く終わるようならまた見に来るよ。そのとき、まだエアリスがここにいたら部屋に運んでやる」
 爽やかな笑顔を残して城に戻った。

 本当に…素敵な兄弟だと思った。
 王子という肩書きに胡坐をかくことなく、懸命に己の責務を全うしようとしている2人。
 それに比べて自分は…。

 そう思わずにはいられない。
 だが、どうしてもここを去りがたく思ってしまう。
 なんてわがままになってしまったのだろう?
 こんなに自分勝手に考えて行動したことは今までなかった。

(もしかして…、人間の足を手に入れるための薬に『わがままになる』って副作用があったんじゃ……)

 などと、バカなことまで考えてしまうくらい。
 だが、本当にもうタイムリミットだ。
 一刻も早く帰らなくてはならない。
 ザックスは一週間後に結婚相手が来ると言っていた。
 自分も結婚を控えている。
 そう…結婚。
 結婚しなくてはならないのだ。

(……)

 深いため息を吐く。
 そして、ふと気になった。
 ザックスの結婚相手とはどんな女性(ひと)なのだろう…と。
 誰にも分け隔てなく優しいかと思えば、鋭くつかなくてはならないところはちゃんと突く、王たる資質を持った王子。
 爽やかな笑顔、屈託のない態度、逞しい肢体。
 抱き上げられた時の安心感。
 それらを思い出しているうちに、どんどん脈が速くなり、顔が熱くなっていく。

(…うぅ…なんか私、気が多い女なの?…)

 最初はクラウドに惹かれていたくせに、昨夜、ザックスの真摯な姿を見てから彼にも惹かれている…ような気がする。
 いや、自分はそれでもクラウドのほうにこそ惹かれているのだ!と、半ば言い聞かせるようにして思い直す。

 1人でどれほどグルグルと考えていたことか。

 ふいに背後からガサガサ…という葉のこすれる音がした。
 かと思えば。

「う〜…ここ、どこ〜…?」

 という女の声がして、ひょっこりと声の主が顔を出した。

 お互い、人がいるとは思わなかったので、目を丸くしてしばし見詰め合う。
 風がヒュ〜〜…と2人の間を吹き抜け、我に返った。

「あ、ごめんなさい!」

 勢い良く頭を下げたのは、分厚い黒縁の大きなめがねをかけた女性。
 白衣を着て、黒髪をお団子にひっ詰めているその女性は、服の上からも分かるくらいのプロポーションをしていた。
 エアリスが何も言わないことにますます動揺したらしい。
「えと、本当にごめんなさい。昨日、来たばかりだから迷っちゃって」
 慌てて弁明を始めた。
 エアリスはブンブンと手を振ると、サササッとメモにペンを走らせた。
 一読して女性が申し訳なさそうな顔をする。

「そう…声が…」

 エアリスはニコニコ笑いながら、『気にしないで』と唇を動かした。
 ちゃんと伝わったらしく、女性はニッコリと笑い返した。

「あ、そうだ。自己紹介まだでしたよね。私、ティナって言います。この城の考古学のシャルア博士の従兄弟のハトコのそのまた従兄弟の娘です」

 エアリスはニッコリ笑いながら困惑した。

(えっと…従兄弟のハトコの…なんだっけ?)

「ようするに、遠縁の者です」

 エアリスの困惑を正確の読み取ったらしく、闊達にティナはそう言った。
 クスッと笑ってエアリスも自己紹介をする。

「へぇ、エアリスさんですか。素敵なお名前ですね!」

 手放しの賛辞にエアリスはくすぐったくなってまた笑った。
 年の近い女性にこうして親しく話しかけられるのはこの城に来て初めてのことだった。
 それに、気が合う。
 ティナも同じだったようだ、エアリスといつの間にかすっかり打ち解け、ベンチに腰掛けて話し込んだ。

「エアリスさんは記憶喪失なんですか?それって不安じゃないですか?」

 自然な流れでエアリスが今、この城にいる理由を話すとティナは心配そうに眉尻を下げた。
 エアリスは、海底で探しまくっているだろう家族や仲間たちを思い出し、胸が痛むのを感じながら寂しそうに笑った。
 ティナはすっかり同情したらしい。

「大丈夫ですよ!記憶喪失ってきっかけがあったら治るって言いますし!シャルア博士は考古学を専攻していますけど、医学にも通じていますからまた今度、聞いてみますね」

 優しいその言葉にエアリスは嬉しくなって頷いた。
 会ったばかりの他人にここまで優しくしてくれるティナという女性は本当に素敵だ…と思った。
 それにしても。

「…エアリス?なんです?」

 顔に手を伸ばして難しい顔をしたエアリスに、ティナは首を傾げた。

(なんでこんな髪型にしてるんだろう…。それに、めがねもこんなダサいものじゃなくて、もっと可愛いものが沢山あるでしょうに…)

 ティナは研究以外に興味がないのか、非常にその……ダサい。
 前髪も七分分けにしてヘアピンでピッチリと止めている。
 お団子にしている髪型も、顔半分ほどもある黒縁めがねも…非常に……ダサい。

(整った鼻筋…、それに……綺麗な茶色の瞳…)

 そっとヘアピンを取り、前髪を整えてやる。
 戸惑うティナにお構いなく、エアリスはめがねを取って息を呑んだ。

(うわ〜!美人〜!!)

 大きなめがねのせいで目が大きいのかと思ったが、そうではなかった。
 澄んだ茶色の瞳はとても温かく、吸い寄せられるかのようだ。
 軽く息を呑んだエアリスにティナは困ったような顔をした。

「あの…めがね、返して下さい」

 そう言って、めがねへ手を伸ばす。
 エアリスはブンブンッ!と首を横に振ると、そのままお団子頭に手を伸ばした。

(きっと、お団子頭をやめたらもっともっと綺麗なんだろうなぁ)

 わくわくわくわく。
 子供のように目を輝かせるエアリスにティナはオロオロとするばかりだった。