「あ、えっと…」

 突然現れたエアリスに、ティナは狼狽しながら立ち上がり、きびすを返して駆け出そうとした。
 それを、慌てて引きとめようとしたエアリスが足の激痛によって派手に転倒した。
 ビックリして駆け寄ったティナは、鼻を押さえながら涙目になるエアリスにガッシリと捕まった…。






人魚姫の恋 8







「…あの歌…ですか?」

 ど派手に転倒して鼻の頭を打ちつけ、暫く悶絶していたエアリスだったが、ようやく痛みが引いてきてティファに質問出来るようになった。
 鼻の頭を打ち付けることがこんなに痛いことだと初めて体験したわけだが、そんなことに感慨深くなっている余裕などない。

 二度とこけない!
 鼻はぶつけない!

 と心に決めながら、痛みで震える手を叱咤しつつメモを書く。
 目を丸くしながら首を傾げつつ、ティナは、
「あの子守唄は、昔から歌われてるよ…?」
 と、戸惑いながら言った。
 その説明に対するエアリスの驚愕と言ったらすさまじかった。
 ギョッとしすぎて仰け反り、バランスを崩して危うく後頭部を打ち付けるところだった。
 寸でのところでティナがサッと手を差し出してくれたから助かったものの、なんとも驚くべき話だ。

 海底の世界にしかないと思っていた『子守唄』が、実は地上でもポピュラーな『子守唄』として歌われていたとは!

(このこと、お父様が知ったら卒倒するかもね)

 浅黒い肌の巨漢である父王を思い、エアリスは額を抑えた。
 そんなエアリスにティナはますます心配そうに表情を曇らせた。

「あの……そんなことも忘れてしまったの…?」
(…え…?なにが…?)

 そう思って小首を傾げる。
 ティナは困った顔をした。

「あの……『記憶喪失』なんでしょう?」
(………しまった……)

 冷や汗がドバーッ…と全身から噴き出す。
 自分で設定した『記憶喪失』というものをすっかり忘れていた。

 ブンブンッ!と勢い良く首を振って見せると、ティナは怪訝そうに眉を寄せた。
 引きつった笑顔でなんとか話題を変えるべく、エアリスは考えて…。

(そう言えば…)

 改めて芝生の上に座りなおすと、居住まいを正し、ティナへ深々と頭を下げた。
 狼狽するティナに、サササッとペンを走らせる。

 ―『昨日はごめんなさい』―

 たったその一言だけだが、ティナはエアリスの心を汲み取ってくれた。
 頭を下げたままメモを差し出したエアリスの手をそっと握り、顔を上げさせた。

「ううん、良いの。あの場合、知らない女が大切な人の傍にいたら誰だって警戒するもん」

 困ったような、寂しそうな笑顔を見せながらそう言ったティナに、エアリスはニッコリ笑ってうんうん!と頷いた。
 が!

(『大切な人』って…!?!?)

 言葉が脳に浸透するや否や、エアリスはガッチン!と固まった。
 頬がカーッと赤くなる。
 ティナは笑った。

「だって、あんな風に怒って、守っておられた王子様の姿見たら、誰だってすぐに気づいちゃいますよ」

 エアリスは、わたわたと手を振り、首を振った。

 そりゃ、クラウド王子に惹かれてイカの魔法使いと取引をして人間界に来るという暴挙に出るほど、彼に惹かれているし、一週間ばかり一緒に過ごすことによってますます彼に惹かれていったことは事実。
 しかし、自分がそうであったとしても、王子にとって自分が同じ意味での『大切な存在』ではないと思う。
 勿論、そうであったとしたらとても嬉しいのだが…。
 それに…。
 今、エアリスの心にはもう1人、確実にその存在を大きくしている人がいた。

(うぅ…私ってほんっとうに気が多い、不埒な女だったんだわ…)

 クラウド王子の兄、ザックス。
 もしも、ザックス王子がこの世にいなければ間違いなくクラウド王子一直線になっていただろうし、だからこそ、今のティナの言葉は天にも舞い上がるほど嬉しかっただろうし、ティナの言葉通りになるよう頑張ろう!と思っただろう。
 だが…。

 ごちゃごちゃ色々と考えながら、必死に手と首を振るエアリスに、ティナはますますニッコリ笑った。

「そんなに慌てなくても、誰にも言いませんよ。まぁ、お城の皆にはすでにバレてるとは思うけど」

 茶目っ気たっぷりにそう言った。
 エアリスは真っ赤になって否定しようとして…。
 気がついた。
 ティナの笑顔に翳りがさしていることに。

(なんで…?)
 なんでそんな風に、寂しそうに笑うの?

 ティナはフイッと顔を背けるようにして空を仰いだ。

「あ〜、それにしてもほんとにいいお天気ですよねぇ」

 顔を背けた、とバレないように、とってつけたような空々しいその笑ったままの横顔。
 エアリスはいつの間にかティナににじり寄るように前のめりになっていた姿勢をゆっくり、ゆっくりと元に戻した。
 2人の間に少しだけ距離が出来る。
 それが、とても遠い距離に感じられて、エアリスは寂しくなった。
 同時に、『あぁ…そうか…』とも思った。

 彼女は…。
 ティナは…。

 クラウドが好きなのだ。
 クラウドが言っていた通り、彼の幼馴染なのだ。

 どうしてこの城に今になって現れたのかは分からないが、それでも7年も前の彼のことを変わらず想っていた彼女に強い衝撃を受ける。
 エアリスには、そこまで惹かれる相手はいなかったし、そんな長い時間離れてても想い続ける『恋心』を抱いたことがない。

(羨ましい…)

 同じ女性として、一途な気持ちを抱き続けられる相手と巡り合ったティナが。
 そして…。

 とても申し訳ない気持ちに襲われた。

 昨日、クラウドに不振人物扱いされたとき、ティナは硬直したままピクリとも動けなかった。
 あれは、一国の王子に不振人物扱いされた恐怖心からではなかった。

 想っていた相手に敵視されたことゆえの激しい衝撃から身じろぎ1つすら出来なくなったのだ。

 どれほど辛くて、悲しくて、苦しかったか、今なら少し分かる。
 エアリスは手に持っていたペンをぎゅっと握ると、メモにペン先を当てて…。

 結局何も書かずに、力なく膝の上に戻した。
 何を書いたらいいのだろう?
 クラウドがティナの正体に気づいたかもしれないということ?
 それとも、ティナが今、この城に来た理由を問うべき?
 何しにこの城に来て、何を見たかったのか?
 クラウドに会いたいだけなら、それこそシャルア博士にお願いして堂々と『幼馴染』として再会させてもらえば良かったのだ。
 それに…。

(王子は……、ティナが『もしかしたら幼馴染かも』って言ってた。ということは…。ティナって名前は…偽名)

 名を騙り、城にやって来た理由ってなに?

 じっと、ティナの横顔を見つめる。
 不自然に大きなめがね、ひっつめたお団子頭、ピッチリと横わけして留めた前髪。
 それらが、クラウドに『幼馴染』としてバレないための『変装』なのだとようやく分かった。
 どうりでダサい格好をしているはずだ。
 めがねを取っただけであんなに美人だったのだ。
 恐らく、クラウドも一目、まともなティナを見たらすぐに気づいただろう。
 少なくとも、クラウドはエアリスに抱いている感情とはまた違うものをティナに抱いている。

 その事実を認めてしまうのは胸がちくちくと痛んだが、それでも目の前で寂しそうに笑っている横顔を見ることの方がうんと痛い。

 エアリスは自分がどうしたら良いのか分からなかった。

「ごめんなさい、もうそろそろ時間だから私、行かないと」

 エアリスを見ないまま、ティナは明るくそう言うと立ち上がった。
 自然、座ったままのエアリスは見上げる形になる。
 陽光のせいでティナの表情は見えない。
 ティナの声はどこまでも明るかった。

「また…会えると嬉しいな」

 少し躊躇うように言ったティナに、エアリスはなんだか泣きそうになりながら何度も頷いた。
 ティナはゆっくりと顔を向けて…笑った。
 その笑顔が翳っていたように見えたのは、逆光のせいだけじゃないだろう。

「良かった、ありがとう。あんなにイヤな思いをさせちゃったから、きっともう、会いたくないって思われただろうなぁ、って思ってたからすごく嬉しい」

 まさに自分が心配していたことをティナも心配してくれていた。
 それでもエアリスは、それを素直に喜べないくらい、複雑でなんだか焦燥感にも似た感情に支配されていた。
 何度も頷いて見せたが、きっと自分の顔は情けないくらいにみっともなかっただろうと思う。
 ティナは笑ったまま、
「じゃあ、またね、エアリスさん」
 そう言い残して小走りに去っていった…。

 取り残されたエアリスは、自分の無力さに打ちのめされ、暫くぼんやりと芝生に座り込んだままだった…。

 だから。

「エアリス、こんなところまで来てたのか?」

 少しだけ息を切らせながらホッとした顔を垣根から出したクラウドに、言いようのないものがこみ上げてきて、言葉にならなかった。

「どうした、エアリス?」

 心配そうに小走りで駆け寄ってくれるクラウドが愛しい。
 ホッとした顔を見せてくれたのに、呆然としている自分を見て、また心配そうに眉を寄せてくれた彼が愛しい。
 壊れ物を扱うようにおずおずと触れてきた手の持ち主が愛しい。
 真っ直ぐ、澄んだ瞳を向けてくれるこの人が愛しい。

 だけど…。

 エアリスは泣きそうになるのを堪えるだけで精一杯だった。


 *


 ティナの切なさを湛えた横顔を思い出しながら、エアリスはベッドに横たわっていた。
 もう既に空には満月がかかっている。

 あの後。
 オロオロするクラウドにぎこちなく抱きかかえられて城に戻った。
 途中、ザックスに目を丸くされたが、彼は変にからかうこともなく、クラウドと一緒に部屋に付き添ってくれた。
 夕食を食べる気にはとてもなれず、城に来て初めてエアリスは晩餐を断った。

(ティナは…どうしてこの城に来たのかしら…?)

 シャルア博士に協力してもらってまで、自分の素性を隠してこの城に来た理由。
 エアリスは、その理由に気づきたくない気持ちがどんどん強くなるのを自覚していた。

(きっと……)

 その理由を知ったら、自分はとてもとても、辛い思いをする。
 それだけは確信出来るから不思議だ。
 それは、『女の直感』と呼んで良いのか分からなかったが、それでもエアリスには確信があった。
 気づきたくないけど、ちゃんと真正面から向き合わなくてはならない真実。
 そしてそれは、恐らくそう遠くない未来、待ち受けているのだとも感じていた。

 胸がざわついて眠れない。

 エアリスはそっと寝台を抜け出した。
 窓を開けると、とても澄んだ空気が夜を彩っている。
 星明り、月明かりに誘われるようにしてエアリスは窓から外に出た。
 途中、警備兵に見つかることもなく、辿り着いた先には……波止場。
 波が静かに寄せて返すその光景は、酷く懐かしい感傷をエアリスの胸に溢れさせた。

 海の世界を後にしてもう何年も経つような気がする。

 寄せては返すその漣(さざなみ)を、エアリスは時を忘れて見入っていた。
 どれほど経った頃だろう?
 ふと、月明かりがまぶしい海面に、何かがひょこひょこっと浮かび上がった。
 それは1つ、2つ、3つ。

 目を丸くするエアリスに、その影はあっという間に近づいてきた。
 輪郭がくっきりするまでに、それがなんだか理解する。
 エアリスは足の激痛も忘れて波間へと駆け出した。

「「 エアリス姉さま!! 」」
「 エアリス王女さま! 」

 可愛い妹姫と、海底宮殿の小間使い人魚だ。
 エアリスは3人をひしっ!と抱きしめポロポロと涙をこぼした。
 3人とも、エアリスに負けなくらいぎゅっとしがみつく。

「ご無事でよかった、姉さま!」
「エアリス…お姉さま〜!」
「エアリス王女さま、本当に…本当に良かった…!!」

 繰り返し、自分の無事を喜んでくれる3人に、エアリスは声にならない声で何度も謝罪を繰り返した。
 エアリスが声をなくした経緯を3人は知っているらしく、エアリスが言葉もなく涙をこぼしている理由を訊ねることはなかった。
 暫し、再会を喜び合う。
 やがて、感情の波が収まってきてユフィたちはエアリスが書き置き1つ残しただけで行方をくらませてからの状況を語って聞かせた。

 父王が酷く取り乱し、半分錯乱状態になって大変だったこと。
 世継ぎを急かせた重臣たちも、口では『海底の王族の長子たる任務を放棄した』と責めてはいたが、その言動はとても弱々しくて、エアリスに対して自責の念が伺えること。
 そして…。
 案の定、捜索隊が結成されており、自分たちも実はその捜索隊の一員であること。
 この海域近辺はくまなく捜査網が敷かれていること。
 そして、これが一番重要なのだが…。

「姉さまがイカの魔法使いに相談に行ったことを見てた奴がいたのよ!」

 エアリスは息を呑んだ。
 確かに、魔法使いのところへ駆け込んだときは、書置きを残せたことが奇跡なくらいに追い詰められていた。
 だが、魔法使いの洞窟に入るところを見られていたとは思いもしなかった。
 何しろ、あまり良い噂のない魔法使いが住んでいる洞窟の近くは、海の生き物がほとんど寄り付かないのだから。
 クラウドを助ける直前に、外の世界へ遊びに行った帰り、洞窟近くを通って宮殿に戻ったのは、それが最短距離だったからで、普段なら自分も絶対に近寄ったりはしない。
 その『危険区域』に近づいたものがいるとは驚きだ。

 自分のことを棚に上げて、エアリスは驚いた。
 そんなエアリスに、マリンが困りきった顔をした。

「お姉さま、それでね…、すっごく言いにくいんだけど……」

 言葉を詰まらせたマリンに、寄り添うようにして傍にいたデンゼルが代わりに口を開く。

「あの魔法使い、実は死んだ母親を生き返らせようとしてるんだ」

(はい……!?)

 いきなり自分のことからかけ離れたその話しに、エアリスは目をむいた。
 デンゼルは続けた。

「それで、あのイカ魔法使いは、海に生きている者…、特に『力のある者』から『体のパーツ』を手に入れようとしてる。ちょうど、王女さまが『声』を対価にして魔法を受け取ったように…」

 息を呑んで、喉に手をやるエアリスに、ユフィが真剣な顔をした。

「だから、父様はあのイカ野郎が気に入らなかったんだ。死んだものを生き返らせるだなんて、世界の理(ことわり)に反してる。それを捻じ曲た暴挙に出ようとしてるんだ。しかも、魔法を求める者に差し出した対価以上のリスクを背負わせて…」

 リスク…?

 エアリスはその響きに不穏なものを感じた。
 ユフィは軽く深呼吸をすると、不安そうに見上げる妹姫の頭をエアリスを見つめたままそっと撫でた。

「あいつは母親を蘇らせるために必要な体のパーツを集めつつ、母親が生き返った際に飲ませる薬の効能を試してるんだ」

 ドックン。

 心臓が大きく脈打った。
 同時に、下肢の痛みがそれを主張するかのように鋭さを増す。

「姉さま、あいつは姉さまも含め、海底の生き物に『魔法』と称して『実験段階の薬』を渡してたんだよ」

 グラリ。
 視界が揺れる。

 今、ユフィは何と言った?
 実験段階の薬を渡してた?
 ということは…。

(わ、私を実験体にしてたってことーー!?!?)

 あ、あの……イカ野郎…!!

 エアリスは下肢の痛みとユフィのもたらした真実の衝撃、そして、イカへの怒りゆえにふるふる震えた。

(絶対…絶対、タダじゃ済まさないわ…!)

 憎たらしいすまし顔が脳裏をちらつく。
 やっぱり失敗作の薬を渡したんだ…!と腸(はらわた)が煮えくり返った。
 歩くたびにナイフで突き刺されるほどの激痛に見舞われるだなんて、とんでもない薬、いや、毒だ!!
 それを、大事な『声』と引き換えにいけしゃあしゃあと『対価』として要求するとは!

(私が海底に戻ったら絶対に追放してやるわ!ついでに、母親復活なんか出来ないようにその遺体を完璧に埋葬してやる!)

 固く心に誓ったエアリスに、マリンが怯えたようにデンゼルの腕にしがみついた。
 デンゼルもガッキン、と固まったが、こちらはマリンと違う理由だろう。
 みるみるうちに顔が赤くなる。
 それを視界の端で見ながら、
(なにを『少し早い青春ドラマ』してるのかなぁ、このお子様たちは!時と場合を考えろ!)
 などなど、イカ魔法使いへの怒りとは別に苛立ったのだった…。