目の前に現れたティファに鼓動が激しく加速する。
 夜風に冷やされた身体が一気に沸騰してしまうかのような思いを持て余しつつ、クラウドはゆっくり立ち上がった。






人魚姫の恋 番外編 第二王子の恋 6







 月明かりに照らされたティファは幻想的な美しさを纏っていた。
 無意識に身体が彼女へ引き寄せられるように、クラウドはゆっくりゆっくりと近づいた。
 あと3歩の距離で立ち止まる。
 深夜にもなると夜風が冷たく、心身を震わせるほどなのにクラウドは少しも寒くは感じなかった。

「…久しぶりね、クラウド」

 ようやっと、聞きたかった彼女の声が自分に向けられる。

「…あぁ、久しぶりだ」

 絞り出した声は情けないほど掠れていたが、ティファは笑わなかった。
 ただ微笑んで自分だけをその瞳に映してくれるのが、クラウドの胸を奮わせた。

「元気だった?」
「…あぁ…。ティファは?」
「私は元気だったよ。見ての通りね」
「…そうか…」
「…うん」

 それっきり、優しい沈黙が2人の間に落ちる。
 もっともっと、もっと言いたいことがあったはずだった。
 第二王子としての執務の合間、ずっと彼女のことを探していたのだから。
 ティファの事を探している間、彼女と再会出来たときのことを沢山沢山思い描いた。
 それなのに今、こうして願いが叶ったというのに思い描いた言葉や仕草が何1つ出てこない。

 何を想像したんだっけ?
 何を言いたかったんだっけ?

 クラウドは頭の片隅で思い出そうと努力してみたが、意識の大半が目の前の彼女に引き寄せられるのをどうしても止められずにいた。
 少しでも彼女から意識を逸らしてしまったら、2度とこうして話しが出来ない気がしたのだ。

「クラウド…とても立派になったわ」

 暫しの沈黙の後、ティファは微笑を湛えたままそう言った。
 クラウドの心臓が一際大きく跳ねる。

「…ティファも…」

 なんとか搾り出した言葉はたったそれだけ。
 言いたかったことの4分の1も言えてない。

 ティファも綺麗になった。
 見違えた。
 こんなに素敵になっているとは思わなかった…。

 胸の中ではこんなにも彼女への賛辞に溢れているのに、カケラほども言えていない。
 だが、クラウドの言葉にならなかった賛辞が聞こえたかのように、ティファははにかみながら目をそっと伏せた。
 匂い立つような女性としての魅力。
 クラウドの全身が粟立った。

 思わずもう一歩、彼女に近づきそうになる。
 それをクラウドはなけなしの理性で押し止めた。
 もしも彼女へもう一歩だけでも近づいたら、きっと自分はティファを滅茶苦茶にしてしまうだろう。
 華奢なその身体を思い切り抱きしめて、艶めいている彼女の唇を感情のままに奪って……そして…。

 そして、彼女という存在をハイウィンド王国からも、バレンタイン王国からも掻っ攫う。

 だから…これ以上前に出てはいけない。
 ティファに近づいてはいけない。
 彼女は、この国の第一王子の妻になる女性なのだから。

 胸に太い杭が打ち込まれたような激痛が走る。

 そう、ティファはザックスの妻になるのだ。
 それも…今日。
 あと数時間後には彼女は純白のドレスに身を包み、兄に嫁ぐ。
 自分が触れられない彼女にザックスが触れる。
 一瞬、その姿を想像して激しすぎる嫉妬に駆られた。

「 ! 」

 はにかんだまま、目を伏せているティファにバレないよう、クラウドは小さく細く、息を繰り返した。
 拳を強く握り、彼女に手を伸ばさないようにする。
 そして、必死になって魅惑的過ぎるティファの顔から視線を引き剥がした。
 彼女のドレスの裾をじっと見つめる…。

「この前は……すまなかった…」
「え?」
「ティファが…ティナとしてエアリスと一緒にいたとき…」

 彼女が首を傾げて自分へ視線を戻した気配を感じながら、それに合わせて顔を上げないように理性を総動員させる。
 ティファは少しだけ苦笑したようだった。

「良いのよ、だってあんな怪しい恰好してたら誰だって警戒するもの」
「それでも!……最低だった……すまない」

 明るく笑って自分の犯した罪を軽くしようとしてくれたティファに、クラウドは強い口調で遮ると目を逸らしたまま深く頭を下げた。
 頭の上で、ティファが息を呑んだのが夜気を通して伝わってくる。
 震えるようなティファの吐息が髪にかかるような気がして、指先が彼女に触れたいとチリチリした。
 それを無視してクラウドはゆっくり顔を上げる。
 ティファの顔を見る直前、グッと唇を引き結んで激情に駆られてとんでもないことを口走らないよう、己に戒める。

 顔を上げた。

 ティファは…今まで見たどの女性よりも美しく微笑んでいた。
 薄茶色の瞳が薄っすらと潤んでいるのも、頬がほんのりと色づいているのも、それなのに月明かりのせいで青白く彼女の肌が光っているのも…全部が美しい。
 気がついたら引き結んでいたはずの唇が微かに緩んでいることにクラウドは気づかない。
 ティファはフッとクラウドから視線を逸らした。
 憂いを感じさせるその仕草に、別の意味で胸に痛みが走る。

 もしかしたら…彼女も少しは自分のことを覚えてくれていたのだろうか…?と、淡い淡い、期待が生まれた。
 自分に都合が良すぎると分かっている。
 だが…。
 こんな夜更けに結婚を控えた姫君が、婚約者ではない男と会っている。
 このことが意味するところは…?
 もしかして…本当に万が一、億が一の可能性は…ないのだろうか?

(ダメだ……ダメだ、変な期待なんかするな!)

 しかし、1度生まれてしまった期待は、己の中にある願望を食って急速に大きくなる。
 そしてその期待と願望を止めるには目の前のティファはあまりにも美しく、そして無防備だった。
 供の者を1人もつけず、薄いドレスだけを身に纏った姿で真夜中にこうして外にいるとは…。
 姫君ではなくとも若い女性がすべきことではない。
 それなのに、ティファはこうしてクラウドの目の前に立っている。
 眠れないから夜風に当たりたくて庭を散歩していたというだけなのかもしれない。
 しかし、先客としてクラウドがいたのだ、常識で考えれば気づかれないようにそっとその場を後にするべきなのに、こうしてティファはわざわざ自らその姿を現した。

 へんな期待をするなと言う方が…無理なのだ。

 この場合、ティファはクラウドに全てを奪われても文句は言えないだろう。
 クラウドが己の感情の赴くままに行動したとして、責められるべきはティファになる。

(…ティファは……俺相手なら絶対に大丈夫だって思ってるのか…?)

 それだけ信頼してくれている…とすれば喜ぶべきことだ。
 だが、同時にとても悲しい、苦しいこと…。
 自分を異性として見てくれていないことになるのだから…。
 少しでも異性として見てくれているなら、こんな風に無防備ではないはず…。
 いや、むしろ異性として見ているが故の行動だったら?

 同じ考えがグルグルと脳内を廻る。
 時間にしてほんの数秒だったはず。
 ティファが表情を変えないのがその証拠。

「クラウド……本当に素敵になったわ」

 感嘆のため息と共にそう呟いたティファに、最後の枷がぶち切れそうになる。
 口を開いたら最後、
『全部捨てて、俺と一緒にここから遠くへ行ってくれ』
『ザックスではなく、俺を選んで欲しい』
 愚かな台詞の数々が溢れてきてしまいそうだ。
 だから、クラウドは何も言わない。
 何も言えない。

 そんなクラウドをティファはジッと見つめた。
 そして、微かに震えている唇をためらいがちに開く。

「クラウド……もしも…、もしも…明日……」
「……ん…?」
「…明日……」

 彼女が何か重大なことを言おうとしているのだとイヤでも分かる。
 明日…とは、結婚式のことだろうか?
 ズキリ、と心が新たな傷口を受けた。
 それを表に出さないよう、懸命に耐える。
 しかし、ティファはそれっきり言葉を続けることはなかった。
 一際強く吹いた夜風に身体をブルリ…と震わせると、己の肩を抱きしめるようにして首を竦めた。

「寒くなったね。風邪引く前に…帰るわ」
「ティファ」

 言いたいことを飲み込んで逃げるように背を向けたティファへ、クラウドは咄嗟に手を伸ばした。
 ハッと互いに息を呑んだとき、クラウドは彼女の腕を掴んでいた。
 今の今までティファに触れないよう自分を抑えていたというのに、それをあっさりと覆してしまった己の行動。
 衝撃を受けたのはティファを掴んだクラウドか、それとも掴まれたティファか。
 触れたその部分が燃えるように熱い。
 2人して互いの顔を至近距離でただただ見つめる。
 紺碧の瞳に…、薄茶色の瞳に映る互いをただただ見つめ…。

 そうして、クラウドはそっとティファを離した。

「ごめん…」
「……ううん」

 最後の会話はそれだけだった。
 ティファは、触れていたかもしれない唇を震える手でそっと触れ、瞳を揺らめかせながら背を向けた。
 後ろを振り返ることなく城へと消えた彼女の背を、クラウドはただ黙って見つめていた。
 そうして決意する。
 確信…と言っても良い。

「…ごめん、俺は……やっぱり諦められない」

 ティファの腕を掴んだ手をそっと開く。
 まだ彼女の腕の感触が残っているその手の平を、そっと唇に持っていった。
 ドクドクと、心臓が手の平に移動したかのような錯覚を覚える。

 目を閉じて手を唇に当てたまま深呼吸をすると、脳裏にザックス、ヴィンセント、ルクレツィア、そしてエアリスの顔が次々に浮かんでは消え、最後には恥らうように瞳を潤ませたティファが現れた。

 今日。
 彼女はザックスと式を挙げる。
 神の前で永遠の誓いを立てる。
 その席で…。


「…ごめん、ザックス…。ごめん……伯父上、伯母上…」


 そっと目を開け、クラウドは空を見上げた。
 月が変わらず淡い光を注いでいた…。


 *


 その日。
 2つの大国にとってとても重要で、後々の歴史に残る1日となるはずだった『結婚式』。
 それが…。

(……なんでこんなことに…)

 クラウドは軽い混乱状態にあった。
 理由は、あんなに悲壮な一大決心をしたというのに、あっさりと自分の努力を飛び越えた結果がやってきたことだ。
 そう、一大決心をしたのだ自分は!!

 7年も自分を我が子として慈しんでくれた養父母を…、可愛がってくれた兄を…、この国の人間を裏切る暴挙に出ることを選んだのだ。
 それは、誰よりも大切にしたい女性の心を掻き乱す行為だと充分理解していて尚、どうしても止められない激情によって突き進むことを良しとした結果だった。
 その行動を、決して簡単になど考えてはいない。
 凶行に出たその後は、死刑にされても良い。
 一生陽の差さない地下牢に閉じ込められても悔いはない…とそこまで覚悟していた。
 ただただ、彼女に自分の心を知ってもらいたかった…それだけ、その思いだけしかなかった。


 な〜の〜に!!


「「「「「 異議あり!! 」」」」」


 …。
 ……えぇぇええええ!?


 自分以外からも上がった『異議あり』にビックリ仰天。
 しかも、異議を唱えたのが本日の主役の1人、花嫁の親族であるシャルアからだけでも信じがたいのに、本日の主役2人からも上がったではないか、これを驚かずにいられようか?!
 しかも、一番声の高い『異議あり』宣言をした人間は突如、そこに現れたとしか言いようがない。

 新郎新婦であるはずの兄とその隣に並ぶ彼女を、次いで主賓席に座っていたシャルア博士を見て…最後に重厚なドアへ振り向いた。
 いやもう、一目見ただけでは『誰、アンタ!?』って言ってしまうしかない出で立ちだ。
 華奢な身体を覆っている黒いマントは足首まであり、頭の三角帽は少し大きそうだ。
 手には柄の長い杖。
 もう、一見して分かる。

「ハイウィンド国の『王室付き魔法使い』…か…」

 ヴィンセントの呟きが、どこか異世界の言葉に聞こえる…。
 生まれて初めて見る『王室付き魔法使い』は、クラウドにとって異様なくせに偉容だった。
 華奢なくせに、目には見えない圧迫感を感じさせる彼女は、足元に赤い獣を従わせて悠々と祭壇へ向かって歩を進めた。
 獣も少女の影のようにスーッと動く。

「ティファ姉さま、遅くなりました」

 一瞬、更なる驚愕の波がクラウドを襲った。
 それは会場にいる参列者も同様で、ティファは一人っ子では!?という囁き声がザワザワと広がる。
 その囁き声に反応して…というわけではないだろうが、シャルア博士がいささか大き過ぎるため息をついた。

「シェルク。事情を何も知らない人たちの前でいつもの呼び方をするな、とあれほど言っているだろう?」
「あぁ、そうでした。すいません姉さま、ついつい」

 全く悪びれない飄々とした態度の彼女…、シェルクにクラウドとどっこいどっこいくらいに驚いていたティファの父親、ハイウィンド国王が素っ頓狂な声を上げた。

「ついつい…じゃない。お前、今までどこに行ってたんだ!?」

 シェルクにとって、彼は最高権力を持つ国の主。
 どう出るのかみなの注目が集まる中、シェルクは小首を傾げるような動作で少し膝を屈伸させた。
 どうやら、彼女流の『おじぎ』らしい…。

「国王陛下。このたびはまことにご愁傷さまです」
「誰も死んどらんわ!」
「あら、私使い方間違いました?」
「めっちゃ間違っとる!わざとだろ、おめえ!!」

 国王らしくない台詞が飛び出す。
「あなた…」とシエラ王妃がそっとたしなめるそのやり取りが、何故だか奇妙にクラウドを現実に引き戻してくれた。
 恐らく、『これは夢じゃない』と思わせてくれる何かがあったのだろう…。
 しかしながら、そんなどうでも良いことを考え、分析してしまうこと自体が実は、とんでもなくクラウドが混乱している証拠だったりするのだが、やはりそれはクラウド本人には分からないことだ。

 シェルクは怒り心頭の国王や、放心状態の王妃たち、更には憮然として隣国の王室付き魔法使いをどうしたものか判断に困っているヴィンセント王を尻目に、その目の前をさっさと通り過ぎると、驚き固まっているザックスに一礼した。

「申し訳ありません。あなたの勇気を踏みにじる結果となってしまいましたか?」
「…え…?いや…そういうことは…」
「そうですか、それは良かった」

 あまりにもあっさり頷いた彼女に、ザックスが肩透かしを食らったようにガクッ…と半瞬脱力する。
 シェルクの関心は既にザックスにはカケラほども残っていないらしい、全くの無反応で彼の隣に立つティファへ視線を向けた。
 その瞳がシド王やザックスに向けられたものとは違い、温もりに満ちたものとなった。
 だが…。

「ティファ王女。良かったです、私が魔法を使うヒマもなかった」

 温かい目をして言った言葉がそれ。
 誰かがヒッ!と息を鋭く飲み込んだ。
(おいおいおい、魔法って…、一体どんな魔法を使うつもりだったんだよ!?)
 シェルクの爆弾発言にクラウドは心の中で鋭く突っ込んだ。
 しかし、当のティファは一瞬目をまん丸にしただけで、すぐに泣き笑いの顔になった。

「…シェルクったら…」

 ティファのその顔に満足したのか、シェルクはクルリ、と向きを変えた。
 視線の先には………クラウド。
 ひた…と見据えられてクラウドの心臓が跳ねる。
 無論、良い意味ではない、悪い意味でだ。

「あなたがクラウド王子ですか」

 遠慮の『え』という文字すら知らないのか、スタスタと目の前にやって来た彼女にクラウドは硬直した。
 下手なことを言ったらその瞬間にカエルにされてしまいそうな錯覚を覚えた。
 冷や汗がじっとりと背中のみならず、全身の毛穴から滲み出す…。
 と…。
 シェルクが怪訝そうな…、どこか残念そうな顔になった。

「クラウド王子…ですか、本当に…?」
「…そ、そうだが…どういう意味だ…?」
「ティファ姉さまの初恋の人と聞いていましたが、とてもそれに相応しい人には見えません。いつまで呆けてるんです?」
「は…!?」

 その衝撃は言葉には出来ない。
 シェルクがサラッと口にしたとても大切な言葉に、クラウドは冷や汗が一気に引っ込み、代わりに興奮状態のための汗が噴き出す思いだった。

「シェ、シェシェシェシェルク!?!?」

 慌てふためくティファをよそに、シェルクは遠慮もなくクラウドをジロジロ舐めるように見た後、
「姉さま、本当にこの人がクラウド王子ですか?」
 落胆の色も濃い声音でシャルアを振り返る。
 博士は隻眼の瞳を面白そうに細め、ゆっくり頷いた。

「シェルクの疑問はもっともだけど、残念ながらその人で間違いない」
「そうですか…」

 失礼すぎる2人のやり取りに、クラウドのみならずその場の全員が誰も突っ込みを入れることなど出来ない。
 シェルクは固まった人間たちに無関心を貫き、姉の返事に淡々と頷き返すと、もう言葉もない面々の前で小首を傾げた。


「まぁ、この大勢の中で『異議』を申し立てたことだけはティファ姉さまの初恋の相手として認めないでもないですね」
「シェルクーー!!」


 ティファ王女の悲鳴が騒然とする会堂にひときわ高く響き渡った…。