― 『人生は驚きの連続だ』 ―

 この言葉を最初に使ったのは誰だろうか?
 その人物にクラウドはこう言いたくなった。


 まさに、アナタの言った通りだ!






人魚姫の恋 番外編 第二王子の恋 7







 とんでもない事件勃発となった『結婚式』は、当然だが中止となった。
 その後、主にシェルクを中心として話し合い(?)の場を設けた際、彼女はこう言ってエアリスに一礼した。


「初めまして、現ポセイドンの第一王女、エアリス殿」


 深緑の瞳を見開き、青ざめた彼女に両国王夫妻、ザックスたちの驚愕の視線が突き刺さった。
 その後、エアリスは反射的にザックスへ視線を流し、居た堪れなくなったのかその場を飛び出した。
 条件反射としてクラウドはその後を追った。
 ピッタリくっ付いてくる気配がするのでてっきりザックスかと思ったら、なんと長いドレスの裾を翻して走っているのは…ティファ。
 昔と変わらず活発な彼女に思わず頬が緩む。
 その間もクラウドは足を止めない。
 歩くたびに激痛が走るはずのエアリスにまだ追いつけないクラウドは、ティファと共に走っていることを『幸運が運んできた奇跡』として喜びながらも、エアリスを案じる気持ちにいささかも揺れは生じていなかった。
 あんなふうに取り乱して飛び出したエアリスの心境を考えると落ち着いて『幸せ』になんぞ浸れるはずもない。
 エアリスの『苦しみ』と、起こりうる『危険』を思うと焦燥感が競りあがる。
 クラウドの脳裏にこの先の見取り図が浮かんだのだ。

 前方にあるのは大階段。

 我を忘れたエアリスがこのまま走ると絶対にヤバイ!
 前方を走るエアリスの背はまだ小さく、クラウドは足に力を込めた。

 と…。

 真横を一陣の風が吹きぬけた!とか、なんかの小説に出てきそうな勢いで疾走した人影に思わず息を呑んだ。

「ザックス…」

 感心するような走りっぷりに、自分が必死になって走る必要はもうないかも…と一瞬気が緩んだ。
 その一瞬を突くかのように、エアリスがグラッ…とバランスを崩したのが目に飛び込んできた。
 心臓がギュギュッと縮み上がる。


「「 エアリス!? 」」


 思わず上がった悲鳴のような声は、クラウドとティファから。
 エアリスの身体は大きく仰け反って真っ逆さまに大階段を落下し、視界から消えてしまった。
 それをザックスが躊躇することなく後を追う。
 頭から真っ逆さまに階段の向こうへ消えてしまったザックスに、クラウドは思考が真っ白になった。
 兵士達の騒然とした声が聞こえる。
 大階段にクラウドが到着したのは、エアリスとザックスが落下してものの数秒程度だ。
 兵士たちが階段下に集まっている光景を前にして心臓が凍りそうになる。
 ザックスとエアリスの名を半分狂ったように呼びながら数段飛ばしに駆け下りるクラウドの後ろには、長いドレスの裾を翻してティファもピッタリくっついていた。
 クラウドに負けないほど軽やかな足取りで、クラウドに負けないほど真っ青になって階段を駆け下りる。

 ザックスにガッシリと抱えこまれて気を失っているエアリスの蒼白な顔に、2人ともサーッと血の気が引いた。

「ザックス…、エアリス!!」

 クラウドは我を忘れたように倒れる2人を囲んでいる兵士たちを掻き分け、駆け寄った。
 大声で名を呼ぶその声が震えている。
 声だけではなく、肩も、2人に伸ばされた腕も小さく震えていた。
 しかし、取り乱しながらもザックスとエアリスの顔色や呼吸状態を確かめつつ医師を呼ぶよう大声で指示するクラウドの真剣な姿は、ティファの目を惹きつけるには充分だった…。


「あ〜…うるせぇ……」


 ハッとして、クラウドはザックスの顔へ視線を戻す。
 ティファも兄弟王子の元へと駆け寄った。
 守るように2人を抱き寄せるクラウドの腕の中で、ザックスが片目を薄っすらと開けて悪戯っぽく笑った。
 その場の緊迫した空気がふわりと和む。
 全身で安堵のため息を吐いたクラウドの瞳が微かに潤んでいたのに気づいたのは、きっとティファとザックスだけだろう。
 しかし、2人ともそれには触れない。
 ザックスは「あ〜…痛かった」などぼやきながらゆっくりと身体を起こした。
 クラウドは身体を起こすザックスに少し慌てたようだったが、首をコキコキ回しながらあっけらかんとする兄に安堵の色を浮かべた。

「あ〜、大丈夫大丈夫。ちょっと脳震盪起こしただけだし、エアリスも大丈夫だろ。ギリギリ間に合ったから」

 兄が撫でた青白い頬のエアリスへと視線を転じ、クラウドは少し言葉を詰まらせた。

「……大丈夫なのか…本当に…?」
「あぁ、どこも打ってないと思う」
「……なら、どうして気絶してるんだ…?」
「ん〜…、なんか倒れる前に胸押さえてたからなぁ…」
「「 胸!? 」」

 胸を押さえてた!?
 それは由々しき自体ではないか。
 ギョッと声を上げたクラウドとティファだったが、その場でゴチャゴチャ言っても無駄だと悟り、医師を呼びに行った兵士が戻ってくるのをおとなしく待つことにした。
 部屋に運んだほうが?と、一瞬考えないでもなかったが、下手に動かして過剰な負担がかかったら一大事だ。
 医師が到着するまでの間、兄弟王子と花嫁を放棄した姫はそれぞれ黙考した。
 勿論それは、エアリスのことだ。

 一体誰が、人魚だと想像しただろう?
 そりゃ、記憶がない云々の話は怪しすぎると思っていた。
 しかし、それはもっとこう、現実的な問題があって、それを回避するために吐いた一時凌(しの)ぎのウソだと思っていたのだ。
 それが…こんな理由があって『記憶喪失』と言っていたとは、想像出来るはずがない。

「エアリスさん、これからどうするんでしょう…」
「「 …… 」」

 ティファの言葉にザックスもクラウドも応えられない。
 重苦しい空気がズシリ…と落ちる。
 クラウドはチラリ…と兄を見た。
 いつもお調子者だが、ここぞという時には第一王子としての才を惜しみなく発揮させる頼もしい兄。
 その兄が、何やら小難しい顔をしてエアリスをじっと見つめている。

 クラウドは、その兄の横顔に言い知れぬ不吉なものを感じた。

(まさか…な…)

 フワッと浮いた陽炎のような『ひとつの可能性』を慌てて頭の中から追い出す。
 しかし、追い出そうとしてもすぐにそれは舞い戻ってきてクラウドの頭にチョコン…と存在を小さく主張した。

 ザックスはエアリスに惹かれている。
 その彼女が伝説の人魚で、しかも『姫』…。

 そこはかとなくいやな予感がする。
 消えて欲しいのに、どんどんその『いやな予感』が大きくなる。
 耐え切れなくなってクラウドはザックスに声を掛けた。
 しかし、兄がクラウドに顔を向けるよりも半瞬早く、兵士たちによって医師が駆けつけザックスの意識はエアリスに戻ってしまった。

「早く彼女を」

 第一王子の顔になって医師へ指示をするザックスに、クラウドはこの場で問いただすことを諦めた。


 *


「とりあえず、安静にさせてやることですな」

 心配していた危機的な状況ではないという医師の言葉に、ザックスは見るからに安堵していた。
 クラウドは同じくホッとしているティファと一緒に、エアリスを部屋に運ぶ兄たちと共に彼女の部屋としてあてがっている客室へと向かった。
 頭の片隅では、大会議室に置いてきてしまった養父たちのことが気になっていたのだが、どう転んでも重い叱責は免れられないだろう。
 なら、より気になる方をもう少し優先させても自分の未来はさほど変わらないはずだ。

 エアリスを部屋に運ぶ際、ちょっとしたひと悶着があった。
 エアリスを抱きかかえて運ぼうとしたザックスに、兵士長が「とんでもない!殿下にそんなことさせられません!」と青くなったのだ。
 しかしこれをザックスは軽く手をヒラヒラさせることで黙らせ、さっさとエアリスを抱き上げると問答無用で歩き出した。
 なんだかんだと食い下がる兵士長や兵士たちを華麗にスルーし、結局最後までエアリスを運ぶ役目を譲らなかった兄の姿に、
「ザックス王子って…素敵ね」
 と、ティファがちょっぴり笑いながらクラウドに耳打ちをしてきた。
 ティファが言った『素敵』という意味は、彼のその行動の根幹にあるエアリスへの想いを指していたのだが、クラウドは自分のガラスのハートにヒビが入る音を聞いた気分だった…。

「クラウド、ティファ姫も座って欲しい」

 顔色の悪いエアリスをベッドに寝かせ、その青白い頬を心配そうに一撫でしてからザックスが声を掛けた。
 ザックス自身はベッド脇の椅子に腰を下ろす。
 2人は他に座るところがなかったため、3人掛けのソファに腰を下ろした。
 自分たちが座った位置を見て、ザックスは苦笑した。

「なんで2人揃って端っこに座るかなぁ…」

 途端、クラウドとティファは真っ赤になった。
 いきなり肩が触れ合いそうな距離にまで近づくことなど恐れ多くて出来やしない…。
 真っ赤になったまま無言の弟を見て、ザックスの苦笑が更に苦い笑いになる。

「ったく…、そんなんでこれから大丈夫か?しっかり頼むぞ?」

 呆れたような兄のその言葉の中に含まれている重大な意味にクラウドはちゃんとすぐに気がついた。
 照れた顔から一変、スーッと真顔になる。
 真っ直ぐ見ると、ザックスも顔を引き締めた。
 両殿下の変化にティファも居住まいを正す。
 沈黙はごく僅かだった。


「それで…これからどうするつもりなんだ?」


 ザックスは笑った。
 クラウドの質問を愚問…と笑ったのではない。
 むしろ、自分の中の1つの結論を確固たるものとして言葉にするケリがついた、と笑った。


「俺は、エアリスが好きだ。愛してる」


 その一言がすべてだと言わんばかりに、ザックスは言葉を切った。
 そして、クラウドとティファの心に染み渡るのを見計らっていたかのように口を開く。

「俺にとって、この国は宝だ。自分の人生はこの国の第一王子として…、第一王位継承者として…、そしてゆくゆくは国王として捧げていくものだと思ってた。でも…、エアリスと会って俺の一番大事なものがエアリスになった」

「エアリスの傍で、エアリスのために生きていきたい。それを俺の人生にしたい」

「だから、俺はこの国を出る」

「この国を出て、人であることを捨てる。勿論、エアリスが俺を受け入れてくれるかは分からないけど、それでも人であることを捨てることはやめない」
「なんで…?」

 ザックスの言葉にクラウドが静かな面持ちで疑問を投げる。
 言外に、エアリスが受け入れてくれないのに人であることをやめてしまうメリットがあるのか?と問うている。
 ザックスは笑った。
 悪戯っぽく瞳を輝かせ、愛して止まない弟を見る。

「受け入れてくれなくても、傍にはいたいんだよ。人間だと、どうしても冷たい水に阻まれてエアリスが見えないだろ?」
「…この国の次期国王はどうするんだ?」
「お前がいるじゃないか」
「俺には無理だって分かってるだろ?」
「なんで無理なんだ?」
「……俺には人望もないし、正当な王位を継ぐ血を引いていない」
「国王に必要なものは血筋よりも国民を養い、繁栄させていく才覚だ。お前には意外とそれがあると思うんだけどな」
「…錯覚だろ」

 苦々しい顔でボソッと言ったクラウドにザックスは笑った。

「今までは俺がいたから、お前は国王になるために頑張る必要がなかっただけだ。これからは頑張る必要がある。頑張る必要があることにはお前はとことん頑張れる、そういう男だって俺はちゃんと知ってるさ。だから、この国を出ることに少しも不安はないんだ。そうでないと、いくらエアリスに惚れたからって言ってさぁ、無責任に王族の義務を放棄するわけないじゃん」
「……買いかぶりすぎなんだよ、ザックスは昔から…」
「お前は自分を卑下しすぎだけどな。まぁもっとも、お前が言ったとおり、社交性にはかけてるけどそれについても俺はあまり心配は要らないと思う」
「……なんで…?」

 ザックスはカラカラと笑った。
 黙って聞いていたティファへ視線を流し、クラウドへ戻した。

「父上が社交的だと思うか?社交性に欠けてはいるけど、人望はある。お前も一緒だ、社交性はないけど人望はあるんだよ、お前が知らないだけで。それに、社交性云々の問題は父上を支えている母上のようにこれからはティファ姫がフォローしてくれるさ」

 突然出た自分の名前にティファはビクッと身体を震わせて目を見開いた。
 ザックスは改めたように真っ直ぐティファを見た。

「姫、俺はあなたの夫になれない。それは昨日シャルア博士と相談した時にも分かってもらえたと思う」
「……はい」

 クラウドは自分の知らないその話に眉を寄せてチラッとティファを見た。
 彼女は真剣な顔をしてはいたが、その頬は薄っすらと赤く染まっている。

「これからクラウドはとんでもなく大変な状態になる。これまで学んできた王族としての勤めに加えて次期国王としての帝王学とかを徹底的に叩き込まれるし、近隣の諸外国へ王位継承者としての姿を見せ付けないといけない。なにより、国民に受け入れてもらわないといけない」

 ギシッ…と、ソファーが鳴った。
 クラウドが知らず、身じろぎしたのだ。
 彼にこれからかかるであろう重圧を思うと、ティファは背筋がピン…と伸びる思いがした。

「はい。私に出来ることを最大限に…」
「うん、ありがとう」

 ニッコリ笑うザックスに、ティファもそっと笑みを返した。
 しかしクラウドは、己にかかってくるであろう周囲の値踏みするような目や期待、必要とされる外交手段の手練手管の習得等々を考え、背筋をゾッとさせていた。
 想像しただけで逃げ出した方がラクな人生になることは明白だ。
 だが…。

 改めて兄を見る。
 正確には、自分にとって従兄弟である男を。

 この城に引き取られてから7年、ずっと守ってくれていたザックス。
 周囲の心無い人間にこれ見よがしに嘲笑われたことが何度あっただろう?
 その度に、一番傍にいて守ってくれたのがザックスだった。
 貴族出身でないクラウドが城に着たばかりの頃、上流階級の人間として知っておくべきマナーもダンスもなにも知らないクラウドを貴族の子供たちがケラケラと笑い、その子供の後ろで大人が子供をたしなめるフリをしてクラウドの下賤な出身を嘲った時も…。


『クラウドは教えてもらってからまだたった3日。それなのにここまで覚えられたんですからたいしたものだと思いませんか、○○卿?』
『え?えぇ……そうですね、勿論です』
『本当にクラウドは物覚えが良くて、真面目に頑張るし。ボク(第一王子)の弟に相応しいでしょう?ところで、○○卿のご子息ですが、先ほどからちょっと気になってて…。その場合の動きなんですがボクの記憶が正しければこうだと思うんですけど違いましたか?』
『え〜…、そ、そうでした、そうでした。ほら、お前。こうするんだよ。王太子殿下、これからも息子へご指導をよろしくお願いします』
『ハハハ、イヤですよ。○○卿のダンスの先生の仕事を取るようなことは。あぁ、でもクラウドと一緒にご子息も習いに来られますか?』
『え?本当ですか、それは光栄の極みです。よろしくお願いします』
『良かった、クラウドも同じ年の者がいればもっと覚えやすいと思っていたんです。まぁ、クラウドは優秀ですからご子息ではちょっと心配なんですけどね』
『……はい…?』
『生まれてから10年、貴族のたしなみとしてのダンスを目にし、学ぶようになって8年の者とたった3日しか教えてもらっていない者。それが同レベル。あっという間にクラウドは社交界の花になるでしょうね。もっとも、社交界に出るのはまだボクもその年になっていないんですけど、まぁ確実でしょう。その点、ご子息は……、うん、お相手の姫君の足を踏まないようにしなくては…ね。』
『……王太子殿下?』
『これ以上はっきり言わなくても分かるでしょうに。これ以上はっきり言わせたいんですか?』
『…い、いいえ…』

『ザックス!』


 最初はにこやかに貴族へ話していたザックスが、あっという間に小悪魔の笑みでズケズケと言い放ったあの出来事はクラウドの記憶にくっきりと残っている。
 クラウドの様子をそっと見ていたルクレツィアが耐えかねて止めに入らなければ、ザックスの『仕返し』はもっと過熱し、続いていただろう。

 ずっと…そうやって時には自分を悪者にしてまでクラウドを守ってくれていたザックス。
 それにずっとクラウドは甘えていた。
 甘えながら、いつか必ずザックスの役に立とうと思っていた。
 彼が何かを決意したそのときは、誰が反対しても自分だけは絶対に味方でいよう、そう己に誓っていた。


 その誓いを果たすときがきた。


「俺に出来る精一杯で臨むと誓うよ……兄上」


 言いたいことは山のようにある。
 今までの感謝も、どれだけ尊敬していたかも。
 エアリスと幸せになれ…だとか、ザックス以外にエアリスの隣に立てる男はいない…だとか、はたまた、この国の心配はしなくても大丈夫だ…とか、ザックスにとっての両親でクラウドにとっての養父母のことは任せて欲しい…だとか。
 沢山ありすぎて、それなのに全てを語るには時間が足りない。
 また、全てを言葉にするのはなにか『違う』ような気もした。
 だからこそ、クラウドはたった一言に全てを込めた。

 万感の思いを込めた送辞。

 ザックスは軽く目を見開き、グッと顎を引き結んだ。
 青い瞳がゆらゆら揺れ、そしてクシャリ…と泣き笑いの顔になった。

「あぁ、お前になら任せられる!」

 クラウドは目の奥がツンとするのを感じながら、決意を表すかのように深く頷いた。
 ザックスが立ち上がる。
 クラウドもそれに倣うように立った。

「とんでもない我がまま野郎で…ごめん」

 クラウドをしっかり抱きしめ、頬を金髪にすり寄せる。

「……いいんだ…」

 おずおずと、兄の背に手を添えて震えそうになる声を搾り出す。

 短いけれど、熱い抱擁。
 ティファは兄弟の別離を目の前に、そっと頬に伝う涙を拭った。