消失のとき 4







 誰かが名を呼ぶ声が遠くから聞こえた気がして、ゆっくり…ゆっくりと意識を浮上させ、重だるい瞼を懸命にこじ開けた。
 なんとか目を開けることが出来てもすぐには視覚が働かない。
 何度か瞬きをしてようやく焦点を合わせると、英雄一多忙な仲間が心配そうに眉根を寄せていた。

「……リーブ…」
「クラウドさん、具合はどうですか?」

 低く落ち着いた声音は、打ち沈んだ心を優しく包み込むようでクラウドは少しだけホッとする。
 小さく首を振って「大丈夫」と一言口にして「ふぅ…」と息を吐く。
 それだけでもう、身体が疲れた感じがしてしまう。
 少し前なら、その感覚を頑として認めず、自分自身に『まだ大丈夫』と言い聞かせていたというのに、もうそんな気力もクラウドにはなかった。
 それをリーブは感じ取っているのだろう。

「クラウドさん、少しは外に出ませんか?今日は天気も上々ですしね、お散歩日和ですよ」

 そう言って、ベッドの足元側に設置していた車椅子の持ち手をポンポン…と叩いて見せた。
 クラウドはリーブの気遣いに感謝しつつも微かに首を横に振る。
 クラウドの返事を予想していたであろうに、それでもリーブは残念そうに苦笑しながら肩を落とした。

「クラウドさん、少しくらいベッドを離れた方が良いですよ?」

 そう言いながら、枕元の椅子に腰掛ける。
 クラウドは閉じそうになる瞼をゆるゆると瞬きしつつ、黙って仲間の声を聞いていた。
 正直、身体の中いっぱいに鉛を詰め込まれたようで、重くて…しんどくてたまらない。
 点滴はもうずっと腕に繋がったままだ。
 食事は…最後にとったのはいつだっただろう?
 軽いデザートのようなものなら何とか口にしているが、『食事』というものはもう食べられなくなっている。
 食べなくても空腹にならない日が来るとは思いもしなかった…。

「そうだクラウドさん、お土産を持ってきたんです。一緒に食べましょう」

 今まさに、『食べなくても空腹にならない』と思ったばかりだったので、クラウドは一瞬、自分の聞き違いかと驚いた。
 もっとも、驚いたとしてもその表情には全く出なかったのでリーブには伝わらなかったのだが。
 緩慢な動きで横を向くと、リーブがニッコリ笑って小さな箱を開けていた。
 中身は甘いものがあまり得意ではないクラウドでも大丈夫なチーズケーキだった。
 そのチーズケーキを見ていると、ふと元気だった頃を思い出してしまった。
 元気だった頃…、まだ『家族』と一緒に過ごせていたあの頃。
 誰よりも愛しい人が嬉しそうに笑いながら切り分けてくれた。

『はい、クラウド。たまには甘いものも食べないと身体の疲れが取れないよ?ついでにレモンの果汁もたっぷり入ってるからビタミン摂れて一石二鳥だしね』

 明るい彼女の笑い声が耳に蘇る。
 失って初めて気づいた大きな大きな宝物。
 忘れたいのに忘れられない切なさで胸が痛む。
 その痛みから目をそむけるようにしてクラウドはゆっくりと目を閉じた。

「クラウドさん?」

 リーブが呼ぶ声を聞きながら、クラウドはまた、浅い眠りに落ちていった。



 目を閉じてから時間をかけずにスーッと眠ってしまったクラウドに、リーブは何とも言えないやり切れない思いで胸が張り裂けそうだった。
 元々男性にしては色白だった青年は、病の進行によって今では透き通るほどの肌色になっている。
 まるでガラス細工のようだ。
 触れたら壊れてしまいそうな青年。
 いや、まさにそれは揶揄ではなく本当に壊れてしまう寸前の儚さ。
 クラウドがリーブを頼って来たとき、彼は絶望的な顔をしていた。
 それでもまだ、今よりは『生きている』と思えた。
 それなのに、今、目の前で眠っている青年は『まだ死んでいないだけ』という様相を呈している。

「…クラウドさん……」

 オーバーベッドテーブルにそっとケーキの箱を置くと、リーブは力なく椅子に腰を下ろした。
 思わずそっと、クラウドの髪に手を伸ばす。
 触れた先からサラサラと砂が風に吹かれて散ってしまうようにクラウドの髪も崩れて消えてしまうのではと思うほど頼りないものに見えたのだが、当然そうならなかったことにバカみたいだが安心して……また悲しくなった。

「なんでこんなことに…」

 WROの技術をフル稼働させて病の原因とその治療法の模索に当たらせているが、全く成果は挙がらない。
 焦りが募る中、クラウドの病状が一気に進行してしまった。
 目に見えて衰弱が進行したのは10日前から。
 ヴィンセントが見舞いに来たあの日からだ。

 ヴィンセントが他の仲間同様、クラウドに対して怒っていることは知っていた。
 知っていて尚、絶望のうちに死を待ち望んでいるクラウドに少しでも変化を…、そう思ってヴィンセントを招いた。
 他の仲間では、感情が先走って逆効果だと思ったからだ。
 しかし、結果は目の前にある。
 ヴィンセントがクラウドの心を砕いてしまう事実を告げるだろうことは予想していた。
 しかし、リーブはヴィンセントを止めなかった。
 もしかしたら…と思ったのだ。
 もしかしたら、ヴィンセントの言葉によって心が大きく揺さぶられ、クラウドが己の願望に真正面から向き合うきっかけになるのではないか?そう思ったのだ。
 クラウドに残された時間は本当に少ない。


『本人の生きる意志が感じられません。もしも、生きる意志が強ければ、身体が心に後押しされてもう少しくらいは生きられるんですが、それすらもありません。こうなってしまってはもう…いつ急速に悪化してもおかしくはないでしょう』


 クラウド本人は勿論、仲間の誰にも告げてはいないが主治医からそう宣告されていた、10日前に。
 それは、ヴィンセントを招くと決めた日。
 クラウドの意思を窺わずに仲間を呼ぶことを初めて決めた理由。

 このまま、愛する人に看取られることなく死を迎える?
 そんなの、悲しすぎるし許せない。
 クラウドにとっても、ティファや子供たちにとっても不幸以外の何者でもない。
 だから、足掻いて欲しかった。
 最後の最後、死に対して立ち向かう力を取り戻して欲しかった。
 なにしろ、クラウドはあの旅の中で己を見失い、そうして己を取り戻したのだから。

 だが…。

「クラウドさん……本当に…申し訳ない…」

 眠る青年に謝罪の言葉を述べながら、リーブはうな垂れた。
 うな垂れながらも、まだ彼は諦めていなかった。
 まだ、クラウドには時間が残されている。
 今日、明日で死んでしまうところまできてはいない。
 なら、まだギリギリ間に合うのではないか?

 リーブは迷っていた。
 クラウドの意思を尊重し、ヴィンセントだけは例外として仲間の誰にもクラウドの居場所は教えていなかった。
 勿論、そんな態度を取り続けたリーブは仲間から激しく詰られてもいたし、ティファからは目の前で何度も号泣された。
 泣いて縋る女性に対して首を横に振り続けるのはリーブにとって、とても辛い仕事だった。
 だがそれも、遠くない死を宣告されているクラウドのために…と歯を食いしばった。
 しかし…。

「クラウドさん…。もう、良いんじゃないですか?ご自分の気持ち、気づいたでしょう?まだ完全に受け入れらてないかもしれないけど、でも…それでも…」

 頑なに拒否を続けていたクラウドだったから、リーブは皆に居場所を黙っていた。
 病と闘うクラウドにとって、精神的な負担は命取りになる、と入院当初、医師に言われていたからだ。
 しかし、もう良いのではないだろうか?
 クラウドは自分にとって、ティファが切り捨てられない存在だとその体と心をもってして知ったはず。
 なら、今、目の前に彼女たちが現れたとしてもそれはクラウドにとって『負担』ではなく『希望』に変わるのでは…?
 だが、この考えがただ単にリーブの『願望』ではないとどうして言えよう?
 クラウドはまだ、一度もティファや子供たちを懐かしんだり、愛おしんだりの言葉を口にしていない。

 オーバーベッドテーブルに置いたケーキの箱を悲しげに見やり、リーブは深いため息を吐いた。
 ケーキを作った彼女のことも、リーブにとって苦悩のタネだった。
 何が一番正しくて、どうすることが皆を幸せに導くことになるのだろう…?

 リーブは深く悩んでいた。


 *


『ねぇ、本当にそれで良かったの?』
 温かな色をした髪の仲間が不満そうに唇を尖らせている。

 それはもう何度も見た夢。
 入院してからずっと見ている夢だ。
 だが、ここ最近は夢も変化していた。
 最初は、エアリスのお小言は一言二言程度だったのに、今では眉間にしわを寄せて表情までリアルに、より鮮明になっている。

 いよいよ死ぬのが近づいたかな…。

 そう思いながらも、クラウドはそっと目をそらせただけで何も言わない。
 煮え切らないその態度に、エアリスは両手を腰に当てた。

『もう!なんでそうかなぁ、クラウドは!』
『まったくだ…俺はそんな風に育てた覚えはないぞ?』

 いつの間にかエアリスに並んでザックスも渋い顔をして立っていた。
 冗談口調の中にクラウドを案じている声音が織り交ぜられていることにクラウドはちゃんと気づいていた。
 しかし、今の惨めな胸の内をこれ以上晒すことはクラウドのプライドが許さなかった。
 だから黙っている。
 口を開いたら最後、絶対に見せたくない心の深淵を覗かれてしまいそうだった。

 これが自分の見ている夢だと分かっていても、見せたくなかった。

 夢の中にまで現れるほど、友を心配させてしまっているということが…情けない。
 しかし、それ以上に今は何も考えたくないと思っていた。

 ヴィンセントから告げられたことを、クラウドはまだ完全に受け入れられてはいない…。
 もう随分経っているというのに。

 今のクラウドには、時間の感覚が欠落している。
 夜昼となく身体が覚醒の時間を保てていないため、目を覚ましたとき、それが昼なのか夜なのか、どれだけ眠ったのか、それともほとんど眠らずに済んだのか全く分からなかったりする。
 だから、デジタルの時計を見て内心ギョッとするのだ。
 もっとも、ここ数日はその感覚も薄れてしまったが…。

 だから、クラウドはヴィンセントから告げられてから既に10日も経っていることを知らない。
 ただ、感覚的に『随分経った』とあるだけ。
 そうして、その『随分だった』と言う感覚はあるくせに、未だにヴィンセントの言葉の意味を受け入れられない女々しい自分に腹が立つのだ。
 自分が望んでいたと信じていたことが実現したというのに。
 それなら、喜ぶべきだろうに少しも嬉しくないのだから。
 あの時、胸に広がった虚無感は今も尚、心を支配している。

『お前なぁ、もう分かってるんだろ?』

 ガシガシ、と髪を掻きながらザックスはイライラしながらため息を吐いた。

『今、こっち側に来てもお前、絶対に後悔タラタラだぞ?』
『そうよクラウド!今からでも充分間に合うんだから、ちゃんと話をしなくちゃ!伝えられるときに伝えなくてどうするの?』

 ザックスとエアリスのこの台詞も、夢に見るようになってもう3度目になる。
 だが、未だにクラウドは考える。

 伝える…?なにを?…と。
 今さらなにをティファに伝えるというのだろう?…と。

 そうして少しだけ考えて、クラウドは自嘲するのだ。
 自嘲して、歪んだ笑みを口元に浮かべて、伏せていた目を上げる。
 そうすると、ザックスとエアリスは虚を突かれたような顔をして固まるのだ。
 2人が固まっている間に、いつも目が覚める。
 しかし、今日は目が覚める感覚が全くしない。
 だから、初めてクラウドはその先へと進んだ。

 歪んだ笑みを浮かべて口を開く。

「折角…幸せを手に出来そうなティファに、また俺(過去)を引きずり出して苦しめろ…とでも?」

 吐き出すように言ったクラウドに、ザックスの顔が真剣な怒りの表情に変わる。
 逆にエアリスは眉根を寄せて悲しそうだ…。

『お前…バカなこと言うなよ…?』
『クラウド…ティファのことを本当に思っているなら、クラウドが本当はどう感じていたのか、それを伝えてあの子の心の傷を癒してあげないとダメだってことがまだ分からないの?』

 諭すようなエアリスの言葉が心に痛い。
 気持ちがグラリ…と揺れる。
 本当に…ティファへ気持ちを伝えて良いのだろうか?と考えて不安になった。
 そして、すぐに思い直す

 ティファへ気持ちを伝えて良いのかと不安になるなど滑稽だ…と。

「俺はもう絶対、ティファに会わない。子供たちにも会わない。言葉も…何も残さない。そう決めたんだ」
『この大バカ野郎!』

 頑ななクラウドにザックスの怒声が飛ぶ。
 クラウドの胸倉を掴み、ギリギリと締め付けながらグイッと顔を寄せて睨みつける。
 ザックスに好きにされながら、クラウドはどこかズレた頭で夢なのに結構苦しく感じるんだな…と思った。

『お前、いい加減自分ばっかり守るのやめろよな!お前だって分かってるだろ、知ってるだろ、遺された人間がその後、何を大切に生きていくのかくらい!お前だって経験者だろうが!!なのに、なんでまだ分かんねぇんだ、このバカ野郎が!!』

 怒鳴りつけ、そうしてフッとその表情を緩めると掴んでいた胸倉から手を離し、代わりにどこかボーっとしているクラウドの肩を強く抱き寄せた。

『お前の気持ちも分かる。ティファや子供たちにお前がしてやれることってここまで来たら本当にもうないからな。でも…たった1つだけまだあるだろ。それをしてやらなくてどうすんだよ…』

 まるで自分のことのように悔しそうにそう言ったザックスの言葉。
 何故かそれが、それまで頑なだったクラウドの心に微かな風となって届いた。

「……たった…1つのこと…?」

 声が震えたように聞こえたのは気のせいだ。
 こんなことくらいで自分は…泣きそうになんかならない。

 条件反射のように心の中でそっと強がったクラウドに、ザックスは少しだけ身体を離してその澄んだ瞳をちょっぴり潤ませながら真っ直ぐ見た。


『お前に残された時間全部、ティファと子供たちにやれよ』


 それは、本当に待っていた答えだったのかもしれない。
 自分はもう何もしてやれないと思っていた。
 重荷にしかならないのならいっそ、消えてしまった方が彼女のためだと本気で思った。
 ティファは何があっても絶対に切り捨てるということをしないから。
 だから…。

 だけど、本当は離れたくなかった。
 最期の最後まで傍にいて欲しかった。
 彼女の手の温もりを感じて星に還りたかった…!

 あぁ、そうだ。
 自分は逃げたんだ。
 辛そうな顔をさせてしまうのが自分だと目の当たりにするのがイヤで、彼女に大きな負担をかけているのが他でもない自分だと…そんな彼女を見るのがイヤで…、だから…逃げたんだ。
 ヴィンセントの言ったとおり!

 思わずザックスの言葉に縋りそうになる。
 本当にザックスの言うとおりにした方がティファの幸せになるのなら…と。
 だが、クラウドはそれを振り払うように頭を強く振った。
 振って、ザックスの手をも振り払う。

「だけど…もう遅い、手遅れだ。ティファには新しい男が」
『それがなんだ、バカ!』

 必死に口にした『新しい男』と言う言葉はかなり力が必要だったのにザックスはあっさりと一蹴した。
 一蹴して、クラウドの頭をガシッと鷲づかみにする。

『お前な、ティファが本当にこの短期間で新しい恋人作ったとでも思ってるわけか?』
『そうよ、クラウド!見損なったわ!』

 いやでも…と、反論しようとしたクラウドの頭をザックスは問答無用でガクガク揺さぶる。

『お前の言いたいことも分かる。折角新しく支えになる男(やつ)が現れたっていうのに、のこのこ今さらどのツラ下げて…って思ってんだろ?だけどな、そんな情けなくてみっともないことも、ティファや子供たちのためならやれるだろ?そうじゃないのか!?』

 勿論、ティファや子供たちのためならいくらでも無様になれる。
 いやむしろ、そうなれるなら喜んで何度でも恥を晒す。
 今はそんな気分だった。
 しかし、問題はそんなに簡単ではないだろう…とクラウドは浮上しかけた気持ちを沈めた。

「ティファは…やっと俺から心も解放されて、新しい一歩を踏み出そうとしているんじゃないのか?なら、俺が今さら出てきたりしたら折角の一歩が無駄に」
『ならないわ!』

 弱気な発言をバッサリと否定したエアリスを見る。
 深緑の瞳を凛と輝かせ、エアリスは堂々と言った。

『そりゃ、あんなに一生懸命クラウドに尽くしてきたのに捨てられたらティファだって傍にいる優しい人に縋りたくなるわ。でもね、それは一時的なものでしかないわよ。だって、ティファの心はずっとずっと、クラウドにだけしかなかったんだから』
 だから…。
 どんなに足掻いても、もう最後になるのだからちゃんとティファへ思いを伝えろ…とエアリスは言った。
 思いを伝えるために、そして少しでも沢山ティファや子供たちの中に素敵な思い出を作るために、同じときを過ごせ…と。

 それはまさに、クラウドがずっと目を背けていた己の本当の願い。
 望むことは許されない願いだった。

 だが…と一抹の不安が過ぎる。

 本当に良いのだろうか?
 残された時間をティファや子供たちに与えるということが本当に彼女たちのためになるのだろうか?
 自分が消えて無くなった後、過ごした時間が原因で余計な苦しみになったりしないだろうか?
 それより何より、そんな自分ばかりが幸せな目に遭ってしまうような選択肢をして許されるのだろうか?

『クラウド。その人が不幸か不幸でないかを決めるのはその人なんだよ?』
『それと同じだクラウド。幸せかどうかを決めるのはな、クラウドじゃないんだ、ティファと子供たちなんだぞ?お前、そのこと忘れてないか?って言うか、ずっと忘れてただろ』


 柔らかな微笑を浮かべたエアリスとザックスの言葉が最後の一押しになった。
 アイスブルーの双眸から銀の雫が流れる。
 嗚咽を洩らすことも無く、ただただ涙が溢れて流れるクラウドに、ザックスがようやっと笑みを浮かべた。
 あの逃亡劇の中、絶えず浮かべていた勝気な笑み、太陽の笑みだ。


『クラウド…頑張れ。お前なら頑張れる』
『大丈夫だよクラウド。私たち、ずっと傍にいるから…ね?』


 2人の親友の言葉に包み込まれながら、クラウドはゆっくり目を開けた。
 そうして、枕もとのナースコールに手を伸ばす。
 部屋に来た看護師へリーブと連絡を取りたいと告げるために。