「クラウドさん、どこに行くんです!もう治療の準備も出来てるんですよ」
「…ティファは連れて帰る」
「な…にを。そんな、彼女からたった一つ残された道を絶ってしまっていいとでも」
「黙れ」

 騒動を聞きつけたわけではなく、ただ治療直前のご機嫌伺いに来た壮年の医師が泡を食う。
 それをクラウドは射殺さんばかりに睨みつけ、魂を根底から縮み上がらせるほどの底冷えのする声でたった一言言い放った。 実際、クラウドは目の前の医師と名乗る男に対し、殺してやりたいほどの憤激に駆られていた。
 クラウドのその視線に耐えられるはずもない。
 男は文字通り腰を抜かしてへたり込んだ。
 無様としか言いようのない男を激情のままに踏み潰したいという誘惑を全身全霊掛けて抑え込み、渾身の力を振り絞って視線を背けて奥歯を噛み締めつつクラウドは病室を後にした。

 ティファをしっかりと抱きかかえて。



時の剥落 10




「あぁ、そうだったんですか。それで病院を飛び出したんですか」

 最後まで話を聞いてくれた若い医師を前に、クラウドは申し訳ない気持ちと恥じる気持ちでいっぱいだった。
 自然、俯き加減になってしまって医師の顔が見れない。
 だが、青年医師は穏やかな声音をそのままに「考え直されたのは本当に良かった」と言った。
 その言葉に力づけられて顔を上げると、医師は柔らかな笑みを浮かべていた。

「クラウドさんの決断は正しかったと思います。それに、勿論みなさんの決断も」
「そう…か…」
「はい」

 医師は躊躇いがちなクラウドにハッキリと頷いて見せた。

「クラウドさんの仰る通り、その治療法はもっと初期の段階でないと効果は望めません。ましてやティファさんの体力では逆に命を縮めてしまうでしょう。私が最初に診断した時点で既にその治療法は効果の望めない状態でした。だから私は説明をしなかったんです。説明したところで無駄にしかならなかった…いや、無駄ということはないでしょうね。それこそ、これほどの末期状態のガン患者に対してどれほどの効力があるのかデータが採れることを考えると医学界では貴重な患者ということになります」

 クラウドの後ろで立ったまま医師の話を聞いていたバレットが身じろぎしたのが気配で分かった。
 壮年医師の話をそっくりそのまま鵜呑みにし、あと少しでティファを医学界の貴重なデータサンプルにしてしまうところだったことに恐怖と憤りを感じているのだろう。
 そしてそれはクラウドも同様だった。
 あと少しでティファから貴重な時間を根こそぎ奪い取ってしまうところだった。
 体力のないティファが耐えられたはずないのだから。
 あの時、もしもティファと同じ治療を受けた患者とすれ違わなかったら…。
 そう考えると体が震えてくる。

「それでティファさんは今?」
「あぁ、それで先生。勝手な言い分だと分かっているんだが…」

 言いにくそうに再度、往診を頼むクラウドに青年医師はニッコリ笑って承諾した。
 勿論、行かせて頂きますよ、という柔らかな口調とその雰囲気にクラウドは心底ホッとした。
 そして、改めてあの壮年の男との違いを考える。
 あの治療について説明をした壮年医師は、都合の悪いところは早口でまくしたて、しかも簡単な説明しかしなかった。
 その代り、治療について得られるであろうメリットを強調し、繰り返していた…ように思う。
 説明を聞いていたときは真剣に集中して聞いているつもりだったが、正直に言うと記憶がボロボロと欠けていてあまり覚えていない。
 覚えているのはティファに残されている治療はこれしかないという台詞と、このまま何もしないで過ごしていたら余命2か月なんてあっという間にきてしまうという強い危機感。

 それだけだ。

 今考えたら、一種の暗示にでもかけられたような状態での治療承諾書へのサインだったように思う。
 直前で治療を破棄をした形になるのだが、違約金を請求されるような一文がなかったのは幸いだったというべきかもしれない。
 もっとも、治療を受ける、受けないは本人と家族のみが決定権を持つのだから直前でその意志を反故にしたからと言って違約金を請求されるはずもないのだが…。

「にしてもよぉ、先生。あのままだとティファはどうなってたんだ…?」

 恐る恐ると言った体でそれまで口を閉ざしていたバレットが尋ねる。
 医師は微かに眉間に力を込め、バレットを真正面から見た。
 華奢にすら見える若い医師からすれば2メートルを超すバレットは恐ろしいほどの存在に見えておかしくないだろう。
 ましてや相手は英雄の一人だ、臆する気持ちが表れて不思議ではない。
 だが、医師はそれらの微塵も怯むことなく真っ直ぐバレットを、そしてクラウドを見た。

「ショック死…という可能性は否定できません。勿論、そういう最悪の事態を避けるために薬の量も、治療にかける時間も計算し、考え抜いた方法で行ったと思います。ですが、ティファさんのように末期状態の患者さんがどうなるのか、その予想を立てるのは非常に難しいですから」
「でもよ…そんな危険すぎる賭けみたいなことして万が一、その治療で最悪の事態ってぇことになったとき、あの医者はどうするつもりだったんだ?俺たちが大人しくしているとでも思ってやがったのかよ」

 治療を最後の最後まで勧めていた手前、というのがあるのだろう。
 バレットは若い医師の言葉にほんの少しだけ反論めいたことを口にした。
 悪いことばかりが結果として考えられるのはいかがなものか…と。
 だが医師は苦笑めいた淡い笑みを浮かべると、
「そうですね確かに。ですが、ちゃんと治療を受ける前の同意書に”いついかなる不測の事態に対し、当院の医師へゆだねます”とか、それに近い一文があったと思いますよ。要するに、治療が原因で死んでしまうことになったとしても、最善を尽くして手当はするけれど死んだ責任は負いません、という部分があったと思います。それに同意をしないと治療そのものを受けることは出来ませんからね」
 どうでしたか?と尋ねられてクラウドは目を瞬いた。
 そう言われてみればあったような気がするが、正直あんな細かい字の同意書を端から端までじっくり読んで理解し、覚えてなどいられない。
 とうとうバレットは自分の認識の甘さを認めるかのようにガックリと項垂れた。

「ティファさんのことを考えるなら、ご家族やご友人と少しでも心穏やかに過ごせる時間を沢山とれるようにして差し上げること、それが最善だと思いますよ」

 そのためならばいくらでも力を貸す、と言い切った医師の言葉は、クラウドとバレットの心にシン、と沁みた。


 *


「そうですか、それは本当に良かったですね」
「うん」

 寝室に柔らかな陽の光がレースのカーテン越しに部屋に差し込んでいる。
 この数か月、昼間は必ず数人の人影が存在していたのだが今、寝室には2人分しかない。
 とても穏やかで静かな空気がゆったりと寝室と言う1つの世界を満たしている。
 ベッドに横たわり、まどろむような顔で穏やかな笑みを浮かべているティファにリーブは安堵の吐息をこっそり漏らした。
 非常識な男がアポイントもなしにリーブの元へ押しかけてきてから1週間が経っていた。
 あの日。
 この星一番多忙と称されているリーブの元へアポイントもなしに医学界の権威と称される男が押しかけてきたあの時。
 リーブはバレットを押しとどめるべきだった、と密かに後悔していた。
 だが、突然アポイントもなしに訪れた仲間のせいで押しに押されていたスケジュールの立て直しを選んでしまったのだ、バレットを押しとどめるのではなく。
 それに、どこかで安心もしていたのだ、あの医師が声高に主張した治療をティファが受けるはずないと。
 セブンスヘブンに他の仲間たちがいることは当然リーブも知っていた。
 だから、バレットの話を聞いも誰かが冷静に判断を下すだろうと判断した。
 だが、ティファが仲間や家族のために自分の身を差し出すとは思いもしなかった。

 ティファが治療を受けると決断した理由はたった一つ。

 生きることを諦めていない姿勢を見せること。

 もうすぐそこまでやってきている自分の死。
 それを受け入れられない仲間と家族。
 彼らに少しでも夢を見させるため、ティファは決断した。
 理由を一切口にしないまま。

 リーブが今日、こうして殺人的スケジュールを強引に空けてティファのお見舞いに来たのはナナキから事の顛末を聞いたからだ。
 それでも話を聞いてから実は3日経っているので、すぐに飛んできた、というわけではない。

「それにしてもナナキから聞いたときは心臓が止まるかと思いましたよ。まさか、治療を受けるところだった…だなんてね」

 言うと、ティファは淡い淡い笑みの中に苦笑を浮かべた。
 小さく何事か口にしたがリーブの耳には届かないが、恐らくごめんなさい、とでも言ったのだろう。
 リーブは勝手にそう判断し、
「本当に、ご自分を大事にしてもらわないと困ります」
 わざと軽い口調でこぼし、肩を竦めて見せた。
 そうして、表情を改めるとジッとティファを見つめた。

「ティファさん、私に出来ることはないですか?」

 真摯な言葉。
 それは、彼がティファの死を受け入れていることの現れ。
 ティファは力の入りにくい眼差しでリーブを見た。
 霞みがちな鳶色の瞳がジッと見つめてくるのをリーブは黙って受け入れた。
 その瞳が柔らかく細められるその様もただ黙って見守った。

「あのね…」

 やがて紡がれた彼女の最期の願いに、リーブは何故か得意げに微笑むと持っていたカバンをゴソゴソと漁った。

「意外と私の方がクラウドさんよりもティファさんのことを分かっているんじゃないでしょうかねぇ?」

 取り出された”それ”に、ティファは久しぶりに”生きた”表情を見せた。
 即ち、驚きに目を瞠った後、花が咲くような満面の笑みを浮かべた。


 *


 穏やかで温かな時間だった。
 陽だまりの様な日々だった。
 大切で、愛おしくて、眩しいくらいに輝いていた。
 かけがえのない宝物の”とき”は、ゆっくりゆっくりとティファの中からこぼれ落ちていた。
 それなのに、過ぎた時間を振り返ると実にあっという間だったという印象を強く受けてしまう、そんな日々だった。

 子供たちは甲斐甲斐しく家のことをこなし、ティファの世話をした。
 仲間たちも自分たちの生活を放り出してセブンスヘブンで過ごし続けた。
 子供たちと共に家事をこなし、ティファとの時間を大切にすごし、常に笑顔をその顔に浮かべ、噛み締めるようにその一瞬一瞬を脳裏に焼き付けた。
 油田開発で忙しいはずのバレットも、仕事を気にしている素振りや気配は欠片もなかった。
 ヴィンセントですら、セブンスヘブンから離れようとはしなかった。
 まるで何かから皆を守ろうと言うかのように、言葉少なくただそこにいた。
 
 ティファはと言うと、病院から飛び出しセブンスヘブンに戻ってから少しだけ変化があった。
 傍にいてくれる仲間と家族、ティファを愛している人たちへ甘えるようになったのだ。
 それはとてもとても小さくて可愛い我がままだった。
 病のために全身が言いようのない倦怠感に苛まれて苦しい時は、足や背中をさすって欲しいと強請った。
 喉が渇いた時は吸い飲みでスポーツドリンクを飲ませて欲しいと言葉にした。
 汗ばんで体がべた付いたときは、ユフィとマリンに体を拭いて欲しいと頼んだ。
 ただただ、寂しいから傍にいて…と今まで言いたくても言えなかった思いを口にした。

 それらの我がままは、ティファを愛している者たちをとても喜ばせた。
 みながティファの希望を叶えようと傍に張り付いていた。
 中でもクラウドは本当に片時もティファの傍から離れなかった。
 仲間がティファの体を擦っている時も。
 子供たちがティファに食事を与えている時も。
 穏やかな眼差しで見守り、その役目を途中で替わることも決して珍しくはなかった。
 そうして、何をするということもなく、ただゆったりと時の流れに身を任せるようにクラウドはティファに寄り添っていた。
 黙ったままその痩せ細った手を握り、ウトウトとまどろむ彼女の額に口づけを落とし、愛おしそうに髪を梳いた。

 それはまるで、美しく描かれた絵画のような光景で…。
 見ているだけで胸の詰まる思いを幾度となく仲間や子供たちは味わった。

 やがて。
 待っていないのにその時は来た。




「クラウド」

 クラウドは目を瞬いた。
 ここ数日、ティファは昏々と眠り、目を覚ますことがほとんどなかった。
 勿論食事はとれないので主治医が日に2回点滴のため往診している。
 今、クラウドしかティファの傍にはいなかった。
 本当に珍しく2人きりなのは、たまたま偶然、買い物や洗濯物の取り込み、夕食の仕込等が重なって全員出払っていたからだ。
 久しぶりに目を覚ましたティファに、皆を呼ぼうかと思ったのだがそうする時間も惜しい気がした。
 チラリと頭によぎった考えに目を瞑ってクラウドは顔を寄せ、ここにいる、と素っ気ない一言をティファに耳元に囁いた。
 ティファは焦点の合わない目を彷徨わせながら、もう一度クラウドの名を呼んだ。

「ティファ」

 そっと両手を差し伸べてティファの頬を挟み、顔を覗き込むとようやく見えたのだろう、柔らかな笑みが彼女の口元に浮かぶ。
 その微笑みはとても美しく、両手から伝わるその温もりは確かにここにあるのに、今にも掻き消えてしまうように見えてクラウドは息が苦しくなった。
 だがそれでも、出来うる限り優しい笑みを作ってティファの名を呼んでやると、ティファはゆっくりゆっくり痩せて細くなった手を持ち上げ、クラウドの頬に触れた。

 ひやりとした感触に全身がゾワリと粟立つ。

 認めたくないのに、もうこの瞬間が終わろうとしていることが分かってしまった。
 魂の奥底から強い悲しみが津波のように襲ってくる。
 だがそれでも、クラウドはその恐怖と悲哀をおくびにも出さなかった。
 自分が今、ティファに出来る最期のことがなんであるのか、ちゃんと分かっていたからだ。

 胸の中に抱いている恐怖と不安をティファに見せないこと。
 ただ穏やかに微笑んで、何の憂いもなく逝かせてやること。

 それだけしかしてやれないのだから…。


「クラウド」
 ありがとう、と囁くように言ったティファに、クラウドはゆっくり首を振ると頬に触れるその繊手にそっと手を重ね、己の頬に押し付けるようにしながらティファをじっと見つめた。
 ティファの震える唇がまだ何かを言おうとしているから、黙って耳を澄ませる。
 クラウドは全身全霊でティファの言葉を一言も聞き漏らすまいと耳を傾け、ティファは吐息のような囁きで言の葉を紡いだ。


 ありがとう。
 幸せだった。
 本当に、幸せだった。
 たとえ、魂は星を巡ったとしても。
 心はいつも。

 あなたの傍に…。


 ふるり、と震えた瞼に鳶色の瞳が覆われるまでのその一瞬。
 弱い光しか宿していなかった瞳が澄んだ色を浮かべた気がした。
 そうしてクラウドは確かに聞こえた気がした。
 声にならない彼女の声を。


 愛してる


 それはまさにその言葉をクラウドが口にしようとした矢先の出来事で。
 だから、クラウドは彼女のその瞳にただただ吸い込まれてしまって…。
 ゆっくり瞳を閉じたティファを前に、は…、といつの間にか止めていた息を小さく小さく吐き出して。
 胸の奥から競りあがる熱い熱い塊を堪えきれなくなって、深い呼吸を繰り返し…。

 そうして、目を閉じたティファに愛の言葉を囁いた。

 目を閉じたティファに聞こえたとは思えない。
 だが、その口元には微かに笑みが浮かんでいるように見える。
 己の頬に押し付けていた彼女の手をそっと戻し、代わりにその痩せた頬に指を這わせる。
 微かな浅い息を繰り返す彼女は、だがもうその鳶色の瞳を覗かせる気配がなかった。

 ポツリ、とティファの頬に落ちた温かな雫をそっと拭い、クラウドは屈み込んでまだ浅い息を繰り返す彼女の額に己の額をくっ付けた。


 ティファが家族や仲間たちに見守られながら逝ったのはそれから3日後の深夜だった。
 一度も目を覚ますことなく、愛してくれている人たちの声に応えることなく。

 波乱に満ちたその生涯を24歳で幕を下ろした。