そこはまるで美術館を髣髴とさせた。
 どこまでも続く真っ白な回廊は、真っ白な壁、真っ白な天井、真っ白な廊下という具合に純白の内装に包まれていた。
 大人が両手を広げて3人は並べるような広い回廊は、片側は全面が窓ガラスで覆われており、そのガラスの向こうに広がる景色も何故か真っ白な靄のようなものが立ち込めていて、景色はよく見えない。
 ただ、窓から惜しみなく注ぐ光のお蔭でとても明るく、暗いものなど微塵も感じられなかった。
 窓ガラスの対面としてある壁には等間隔で大きなキャンパスが掛けられており、だからまるで美術館のようだ、と思ったのだろう、とクラウドは自身の抱いた印象を分析してみた。
 果てしなく続くと思われるその回廊は、緩やかなカーブを描いているので立っている位置から先を臨むことは出来ない。
 ただ、とてもとても遠くまで続いているのだということは不思議と分かった。

「じゃあ、もういかないと」

 隣に立つティファがそう言った。
 彼女は脇に置いていたキャリーバッグの持ち手を握るとクラウドを見上げた。
 クラウドはそうなって初めて慌てた。

 そう。
 そろそろ出立しなくては。
 時間が迫っている。

 あぁ、それなのに。

 クラウドはうろたえた。
 ティファは彼女の荷物一式が入ったキャリーバッグをちゃんと準備して、その手に持っている。
 それなのに自分は手ぶらだ。
 今から取って返して準備をしたのでは到底間に合わない。

 オロオロとうろたえるクラウドを置いて、ティファはゆっくり歩きだした。

「クラウド、私先にいくね」

 あっさりとそう言ったティファにクラウドはいよいよ慌てた。
 そして、このまま手ぶらでもイイか、と半ば投げやりに思った。
 必要なものは”向こう”で揃えれば良いのだから。
 今ティファと一緒にいかなくては、と妙な焦燥感が自分を追い立てる。
 その追い立てられる何かに従うようにしてクラウドはティファの後へ続こうとして…。
 ふと、背を振り返った。
 何もない壁が見える。
 美術館なのにキャンパスもない。
 そうだ。当然だ。ここはロビーなのだから。
 ここから”出発”するのだから。
 だから、ここには何もない。
 何もないし誰もいないけど…でも…。
 だが確かに感じたその気配は、とても慣れ親しんだもので、大切な大切な”家族”のものだと分かった。
 分かったからクラウドは唐突に悟った。



 自分は…。

 いけない。



 ティファと一緒に逝けない。



 自分には”家族”へ果たすべき責任がある。
 その責任を果たすための”力”がまだこの手に残されている。
 それを放棄して、ティファと一緒に逝くことは許されない。



 デンゼルとマリンを泣かせるわけにはいかない。



 クラウドはティファへと顔を戻した。
 彼女はクラウドが背を振り返っている間に、緩やかなカーブによって視界が切れてしまうギリギリのところまで歩いていた。
 あと数歩、歩けば視界から消えてしまう。
 言いようのない焦燥感と悲しみがどっと押し寄せ、クラウドは思わずティファの名を呼んだ。
 その呼び声に応えるようにゆっくりと足を止め、振り返ったティファの顔には柔らかな微笑み…。
 その微笑みを見て、クラウドはまた分かってしまった。
 ティファは、自分を置いていってしまうのだ…と。
 そして、一緒にいかないと決めたことを喜んでいるのだ…と。

 それを理解した途端、涙が後から後から流れ落ちた。
 涙腺が壊れてしまったかのように涙が止まらない。
 胸の奥底から嗚咽が漏れ、喉の奥が震えてまともな声が出そうにない。
 だが、今言わなくては、と追い立てられる何かに押されてクラウドは口を開いた。


「…っ、愛してる…!ずっと!」


 たった一言。
 必死の想いを込めて、ありったけの心を込めて。
 そのたった一言を口にするのだけで精一杯だったクラウドに、ティファは極上の笑みを浮かべて優しく優しく手を振った…。




時の剥落 13(完結)





 ゆっくりと意識が浮上する感覚に逆らうことなく、クラウドはゆっくり目を開けた。
 まず見えたのは薄明るい室内の天井。
 見慣れたそれに、クラウドは何の感慨もなくぼんやりと目をやった。
 と、ふと気づく。なんとなく目元がひりひりする。
 そっと目元へ指を伸ばすと微かに濡れた感触に軽く驚いて頬へと指先を滑らせ、そうしてようやっと自分が泣いていたことに気が付いた。
 途端、フラッシュバックする先ほどの光景に胸がキュッと締め付けられる。
 だが、胸の奥底はとてもとても暖かい。
 そっと片手を胸に当てる。
 目を閉じ、すべての意識を”そこ”へ向ける。
 確かに感じる自分以外の”モノ”
 それは、第三者に話せば『勘違い』『思い込み』『妄想』と片づけてしまうだろう。
 だが…。

「ティファ」

 そっと、愛しい人の名を呼ぶ。
 あれほど苦しかった、辛かった、悲しかった想いが今は”半分”になった気がする。


 心は
 アナタだけのもの



 あぁ。
 もっと早く、彼女の言葉(こころ)に耳を傾けていれば良かった。
 恐れるのではなく、彼女のために前を向くことを選ぶべきだった。
 そうすれば、必要以上に苦しむこともなく、彼女を悲しませることなどなかったのに。

 痛みも、悲しみも、辛さも半分こだと言ってくれた彼女を必要以上に悲しませることなどなかったのに。

 だけど手遅れじゃない。
 ティファに着いて逝く道ではなく、生きると決意を固めることが出来たのだから。

 クラウドはゆっくり上体を起こし、ふと握っていた拳を開いた。
 そこには黒いボディーのボイスレコーダーが室内に差し込む薄い明りを受けて鈍く光っていた。
 ようやっと彼女の最期の言葉を聞くことが出来てから、それこそバッテリーが切れてしまうほど繰り返し繰り返し聴いた。
 自分宛てのものだけではなく、あの時、自分のことだけでいっぱいいっぱいで聴けなかった仲間たちへの彼女の想いも再生させた。
 仲間たちへの言葉も自分への言葉も、一言一句、諳(そら)んじられるほど聴いて…。
 …そこからの記憶がない。
 どうやら彼女の声に包まながら意識を手放すようにして眠ってしまったらしい…。
 クラウドはローチェストの上の時計に目を向け、針が5時半を示すのを見て微かに眉を寄せた。

 朝の5時半なのか、それとも夕方の5時半なのか一体どっちだろう?

 一瞬浮かんだ疑問。
 だがすぐに、朝の5時半なわけがない、と浮かんだばかりの疑問を一蹴し、どちらか?などと混乱した自分に苦笑した。
 カーテンを開けるべく窓際へ向かいながら、さて、自分の背を押してくれたヴィンセントや心配をかけ過ぎた子供たちにどう声をかけようか、とか、朝食を途中で放り出して夕方まで寝てしまったことを恥ずかしく思いつつ、でもあれほどまでに空虚だった自分の胸の内がこんなにも暖かいことに喜びを感じて…。
 クラウドは目を瞠った。
 窓の外に広がる街並み、淡い水色の澄んだ空はどう見ても…。

 ポカン、と間抜けな顔をした後クラウドは苦笑し、ゆるりと頭を振ってから階下へ足を向けた。




 ヴィンセントは1階店舗のソファーに腰掛け、閉じていた双眸をゆっくりと開いた。
 結局、あれからクラウドは降りてこないままで1日が過ぎた。
 今は翌日の午前5時半だ。
 子供たちはたいそう心配して部屋に籠ったきり出てこないクラウドを見に行こうとしたがヴィンセントはそれを引き留めた。
 きっと大丈夫だから…と。
 ただの気休めでそう言ったのではない。ヴィンセントも黙ってそれに同意を示したナナキも、自分たちの生活に戻って行った仲間たちも信じている。

 クラウドは弱いが強い。

 吹っ切るきっかけさえあれば誰よりも強く立てるはずだった。
 そうやってあの旅を終えたのだから。

 不安そうな子供たちをナナキは体を摺り寄せることで慰めたが、それくらいで子供たちの不安が払しょくされるはずもなかった。
 ティファを喪ってから子供たちはクラウドほどではなくとも情緒不安定で、本来ならヴィンセントに言われるまでもなくクラウドのことを誰よりも信じたであろうに、それが出来ないほどとてもとても疲れていた。
 そんな子供たちを慰めねばならない立場にあるヴィンセントだったが、そんな上級技が使えるはずも思い浮かぶわけもなく、ナナキの努力虚しく昨日は陰鬱な雰囲気のままに終わってしまった。
 その原因である男が降りてくる気配に足元で床に寝そべっていたナナキが耳をピンと立て、ほんの少しだけ緊張の糸を張る。

 さて、どうなった?

 ヴィンセントは腰を掛けたまま気配の方へ顔を向けた。
 ほどなくして降りてきた青年は、グルリと店内を見渡すと自分たちの視線でヒタ…と止めた。
 明かりの点いていない店内はまだ陽が昇り切っていないために薄暗く、クラウドの表情の細かなところを覆い隠している。
 軽い緊張を孕みながらゆっくり近づくクラウドをナナキとヴィンセントはジッと見つめた。
 迷いなく、怯むことなく近づく彼の足取りは、心なしか昨日よりも”彼らしい”ように感じる。
 そして、それは2人の勘違いではなかった。


「……謀ったな」


 照れ隠しゆえの拗ねたような第一声。
 ナナキはシュッ!と尾を一振りすると嬉しそうにヴィンセントを見上げた。
 見上げられたヴィンセントはただクラウドを真っ直ぐ見つめたままゆっくり腰を上げ、彼にしては珍しく片方の口の端を持ち上げて少し意地悪そうに笑った。

「あんな簡単に騙されるお前が悪い」

 たった一言で一蹴する。
 クラウドはと言うと、「まぁ…な」とだけ返して苦笑した。
 ティファの思い出が詰まった店(場所)を自分たちが消そうとするはずがない、と普通なら分かるだろうし、あの時ティファの遺言をちゃんと聞いていたらヴィンセントのウソにすぐ気が付いただろう。
 クラウドは店内をグルリと見渡した。
 昨日と変わらない、そのままの店内を。

「ちゃんと受け取ったか?ティファの想いを」
「…あぁ」

 返事は小さく、頷いた動きも大きくはなかった。
 だが、その時。
 窓から差し込んだ朝の陽光に照らされ浮かび上がったクラウドの姿は、まさしく”彼”であり、ようやっと取り戻すことが出来た”彼”を前に、2人はティファを喪ってから初めて胸の奥底から温かな想いで満たされた。

「なら、いい」

 短いその一言でこれまでの不甲斐ない青年を赦す。
 そしてそんなヴィンセントの思いにクラウドはちゃんと気づいた。
 頭を掻き、少しバツの悪そうな落ち着かない素振りをしつつ苦笑を深める。

「朝、何が食べたい?」
 簡単な物しか作れないぞ、と釘をさすクラウドにヴィンセントとナナキはチラッと視線を合わせた。
 彼なりの礼におかしさがこみ上げる。
 ナナキは満面の笑みで、ヴィンセントは相変わらずの仏頂面で。

「ハムエッグ!」
「お前が自信を持って作れる物ならなんでも」

 そう言って、やはり青年だけに任せてしまうのは不安と言わんばかりにカウンターへ着いて入ったのだった。



 その日から。
 ストライフファミリーはようやっと、ティファのいない生活を歩き始めた。
 ナナキもヴィンセントも、ヨロヨロと危なっかしげではあるが自分たちの生活を始めたクラウドたちに一先ず安堵し、それぞれ自分たちの元の生活へと戻って行った。
 だがそれでも気になるのだろう。
 ユフィもナナキも、シドもバレットもことあるごとにエッジのクラウドたちの元を訪れた。
 その中でも訪問と滞在率が一番高いのは意外にもヴィンセントだったことに仲間たちはからかい半分、話題にした。
 その度に寡黙なガンマンはムスッとしながら「暇だからな」とぼやくように応えるのだった。

 ティファが亡くなって1年目はバタバタと過ぎた。
 デンゼルもマリンも、ティファの手伝いをしていたとは言え、本格的に家事をこなすにはまだまだ力が足りなかった。
 足りない分はお互いにフォローし、こまめに覗いてくれる英雄たちを巻き込んでなんとか必死にやりくりした。
 一方クラウドはと言うと、子供たちの面倒を見る傍らデリバリーの仕事を再開した。
 暫く休業していたデリバリーの仕事を以前と同じところまで軌道に乗せるのは中々骨の折れることだった。
 だが、元々実直で堅実なクラウドの仕事ぶりは、顧客たちの記憶にしっかりと残っており、口コミでクラウドの仕事の再開が広まってからは、急速にスケジュールが埋まるようになった。
 だがだからと言って、以前のように無茶な仕事の請け負い方はしなかった。
 むしろ、ティファがいなくなってしまった分、子供たちとの時間を大切にするようになった。
 そしてまた、健康への意識も強くなったのはデンゼルとマリンを喜ばせた。
 自分までもが病に倒れるわけにはいかない、という子供たちへの強い責任感からだということは言うまでもない。

 2年目になってストライフ家の隣に新しい民家が建った。
 目まぐるしく発展していくエッジでは日々新しい民家やビルが建ち、大勢の人間が夢や希望を携えて越してきた。
 だからセブンスヘブン(ストライフ家)の隣に民家が建ったことは全然珍しくないことで、むしろ今まで隣がずっと空のテナント状態だったことの方が不思議だった。
 その越してきた一家と子供たちが仲良くなるのに時間はかからなかった。
 デンゼルとマリンより5.6歳ほど年上の兄弟は、まだ幼いながらも懸命に家のことをこなしている2人を殊の外可愛がった。
 兄弟の両親も同様だった。
 養い親であるティファが2年前に他界し、今はまだ若い男が1人で仕事をしながら養っているという事情を知った途端、兄弟の両親は俄然、ストライフファミリーのファンになった。
 事あるごとに、やれ差し入れだ、無理をするな、何かあればすぐ頼れ、と、親身になって接してくれた。
 人付き合いの未だ苦手なクラウドにも物おじせず、時折顔を覗かせる英雄たちを前にしても動じず、笑顔と大きな声でズケズケ物を言った。
 そしてその一家が越してきた半年後。若い女性がその一家と同居を始めた。
 彼女はその一家の妻の年の離れた妹だという。
 濃い栗色の髪、鳶色の瞳、クルクルとよく変わる表情、朗らかな人柄。
 決して飛び切りの美人と言うわけではないが、内面の美しさが溢れんばかりに彼女を輝かせていた。
 彼女と子供たちはすぐに仲良くなり、ストライフファミリーにしょっちゅう顔を出すユフィやナナキたちともあっさりと『友達』としての地位を獲得した。
 彼女は実姉同様、物怖じせずにクラウドにも接した。
 そんな彼女にクラウドも肩肘を張らず、自然と接することが出来た。
 それは、彼女の持つ魅力のお蔭でもあったろうし、クラウド自身がティファを喪ってから人付き合いというものにも真剣に向かい合った結果でもあったのだろう。
 ティファ贔屓な仲間たちが見ても、クラウドと彼女はお似合いだと認めるられるほどに…。

 だから。


「クラウド、そろそろアンタもはっきりしてやったら?」

 行儀悪く頬杖をついたままフォークで夕飯をつつくユフィに、クラウドは訝しげな顔を向けた。
 その表情から何を言わんとしているのか全く分かっていないことを察したユフィは、芝居がかった大げさな身振りで頭を振り振り、
「だぁかぁら〜。隣の彼女のことじゃん」
「……なにが言いたいんだ?」
「もぉ、本当に朴念仁だねぇ。そんなんじゃ、愛想尽かされるよぉ?あの子、そこそこ人気あるみたいだしさぁ」
 そうニヤニヤと笑いながら見やる。
 だが肝心のクラウドはますます怪訝な顔をするばかりで、流石にユフィは呆れ顔になった。
 一緒に食卓を囲んでいた子供たちも食事の手を止め、クラウドを期待の眼差しでジッと見つめている。
 たまたまその日の夕暮れ時にひょっこり現れたヴィンセントもその場に居合わせ、クラウドの反応を見ていた。

「だからさ。あの子、22歳でしょ?確か来月で23歳になるって言ってたし、そろそろ良いお話とかも来る年頃じゃん。さっさと給料3か月分の指輪でも持って、ビシッと決めるべきじゃない?」

 ユフィは、クラウドが真っ赤になって否定することを想像していた。
 子供たちはクラウドが赤い顔をして、でもすぐに真顔になってティファが忘れられないから、と良い返事を渋ると予想していた。
 その時には、『もうそろそろ良いんじゃないかな?』と。『ティファもクラウドが幸せになることを願ってるよ』と言ってやるつもりだった。
 ヴィンセントは…、ただ黙って事の成り行きを見守るつもりだった。

 だから。

 ユフィの言葉に純粋に驚き、ただただ目を丸くしてポカン、と間の抜けた顔をするとは誰一人思っていなかった。
 あまりにもクラウドが驚いた顔をするので、逆にユフィや子供たちの方が驚いた。

「え?ちょ、クラウド?」「ねえ、クラウド。姉ちゃんのこと、なんとも思ってないのか?」「ティファに悪いとか…そんなことを思ってるわけじゃなくて…?」

 次々と言葉を浴びせるユフィたちにクラウドはようよう話の内容を掴みとったらしい。
 心底ギョッとした顔をして、「なんでいきなりそんな突拍子もない話になるんだ?」と眉間にしわを寄せた。
 それにはユフィも子供たちも呆気にとられた。
 呆気にとられた次の瞬間にはその反動からか、矢継ぎ早に早口で捲し立てた。

「ちょっとアンタ!あの子の気持ち、気づいてないっつうのか!?信じらんない!」「クラウド、姉ちゃんが可哀想だよぉ」「クラウド、あのお姉ちゃんとだったら私もデンゼルもいいかな、って言ってたんだよぉ?」

 だが、それらに対してクラウドが返した言葉は
「…なんでそんな話になるんだ…?」
 というたった一言だった。
 その言葉に短気で情に篤いユフィが噛みついた


「アンタ、乙女心なんにも分かってないね。アンタのことが好きでなかったらどうして若いお嬢さんが独身の若い男の家に足しげく通うんだよ!もぉアンタ信じらんない!あの子は絶対アンタからのプロポーズなり告白なりをここのところ、期待して待ってたに決まってんのにさぁ!」

 その一言にクラウドはハッと目を見開いた。
 そして、はた目からも慌ててしまうほど深刻な面持ちになると、夕飯もそこそこに席を立ってしまった。

「なんか…アタシ、失敗した?」
「ううん、俺もマリンもあの姉ちゃんのこと、クラウドも好きなんだって思ったし…」
「私も…。ティファ以外の女の人をって思ったら最初はイヤだったけど、でもクラウドには幸せになって欲しいから…だからあのお姉ちゃんならイイかな…って思ってたのに…」

 残されたユフィたちは先ほどの興奮状態とは打って変わってどんよりと落ち込み、ヴィンセントはそんな3人を尻目にきっちり夕飯を終えてからそっとセブンスヘブン(ストライフ家)を後にした。
 そうして。

「どうした?」

 声をかけられたクラウドは、だが振り返ることなく教会の壊れた天井から降り注ぐ星明り、月明かりに照らされて浮かび上がる白い墓石の前に佇み、そこに刻まれた名を見つめていた。
 ティファの文字へ視線を落としたまま口を開く。

「言っとくが、ユフィやデンゼルたちに腹を立てたわけじゃないからな」
「…そうか?」
「あぁ…。腹を立てたのは俺に…だ」
「……」

 クラウドの隣りに並び立つとヴィンセントはゆっくりしゃがんだ。
 それに倣うようにしてクラウドも腰を下ろす。

「本当に気付いてなかったのか?」

 ヴィンセントの問いかけが先ほどの会話を意味するのだと言うことも、実はヴィンセントもユフィたちと同じように感じていたのだ、ということも分かった。
 クラウドは苦笑した。
 それが答えだった。

「俺はティファにプロポーズしたことがなかったな…って初めて気づいた。全く…今さらだよな。ユフィに、『プロポーズなり告白なりを期待してる』って言われて、あぁ、ティファもそうだったのかな…って思った」

 沈黙が下りる。
 ヴィンセントはただ黙ってクラウドの隣に腰掛けたまま、星明り月明かりを受けて白々とそこにある墓石を見つめ続けた。

「俺は…ティファ以外に考えられない。どんなに親しくなったとしてもティファ以外と一緒になろうとは思えないんだ」

 クラウドの気持ちがヴィンセントには良く理解出来た。
 理解出来た上で、ユフィや子供たちの気持ちも良く分かった。
 今、必死になって家族を守ろうと日々戦っているクラウドに、心の安らぎとなるべき人が与えられたら、と思ってしまうのはごくごく自然なことではないだろうか。
 だが、クラウドが求めているのは今も昔もティファだけで、彼女以外の女性はクラウドにとっては”その他大勢”とひとくくりにされてしまうらしい。
 それがとてもクラウドらしくて、それがクラウドなのだ、と妙に納得出来た。


「もう、隣の一家と必要以上に親しくするのはやめる」


 隣の彼女が期待している、ということは彼女の家族も同じように期待しているということになる。
 ヴィンセントは頷くでも否定するでもなく、ただただ、墓石を見つめ続けた。

 そうして。
 クラウドは本当に隣の一家と一線以上のものを置いて接するようになった。
 急によそよそしくなったクラウドに、彼女は納得しかねると言わんばかりで面と向かって自分の何が悪いのか、と問いただした。
 しかし、それに対してクラウドが取った態度は、深い一礼。
 その一礼はが意味するところを彼女は汲み取ったのだろう。
 ショックを受け、呆然と頭を下げるクラウドを見つめていたが、やがて諦めたように寂しげな微笑みを浮かべて背を向けた。
 やがて月日が経ち、彼女はエッジへ移り住んできた他の男と付き合い始めた。
 そうなってからようやく、ギクシャクしていた隣の一家と再び良い付き合いが出来るようになった。


 ティファが亡くなってから10年後。
 クラウドは相変わらず配達の仕事と家庭の両立に奔走していた。
 子供たちも随分大きくなり、デンゼルはクラウドを少し超すくらいにまで身長が伸びていた。
 デンゼルに抜かされるとはなぁ、と冗談のように言うと、デンゼルはニッカリと笑った。
 その時の笑顔を思い出しながらクラウドは雨で視界の悪い中、慎重にフェンリルを走らせていた。
 普段ならこんな豪雨の中、フェンリルを走らせることはしない。
 ましてや今、クラウドは熱があった。
 健康に気を付けていたのに風邪をこじらせてしまったのだ。
 体調不良に悪天候。普通なら絶対にこんな無茶はしない。
 だが、今日はどうしても帰らなくてはならなかった。

 今日は、ティファの命日。

 この10年、ティファの命日を子供たちだけで過ごさせたことは一度もない。
 いまだ子供たちが彼女を思い出し、涙ぐんでいることを知っている。
 もう10年。まだ10年。
 言い方は様々だろうが、ストライフ家にとっては後者の方が色濃いらしい。
 だから何としても今日は帰宅しなければならなかった。
 多少の危険を犯し、後々になって風邪を今以上にうんとこじらせたとしても。

 身体に叩きつける雨粒は容赦なく体温と体力を奪う。
 集中力を持続させるのも一苦労だ。
 熱のせいでズキズキと痛む頭を抱え、霞みそうになる視界に目に力を入れて踏ん張る。
 エッジに辿り着いた頃には雨だけでなく強い風まで吹くようになっていた。
 なんとかエッジに辿りつくことが出来て心底ホッとし、より一層慎重になってスピードを落としたその時。
 雨音に紛れて何か嫌な音が聞こえた気がした。
 くぐもったゴォン、ゴォン、と言う金属が打ち鳴らしているかのような…音。
 歩道を歩く人々もその音に気付いたのだろう、不安げな顔を互いに見交わしたり、キョロキョロと辺りを見渡している人も少なくない。
 クラウドはハッと顔を上げた。
 前方100メートルほどだろうか?
 建設中のビルに何かがぶら下がり、強風に煽られて揺れている。

 いや、違う。

 鉄骨を縛り付けていたワイヤーの片方が切れて落下寸前になっているのだ。

 そうと認めた瞬間、クラウドはフェンリルのエンジンをフル稼働させた。
 爆音が響き渡り、黒い機体が道路を走る車の波を縫うようにして疾走する。
 バクバクと心臓が強い不安に脈打つ音が耳元で聞こえるかのようだ。
 建設途中のビルの下。
 鉄骨が今にも落ちそうにぶら下がっているその下にあるのは…あれは。

「…っ!」

 信号待ちの人々が自分たちの頭上に気づき、悲鳴を上げて駆け出していくのが見えた。
 ある者は人を突き飛ばし、またある者は突き飛ばされて地面を転がり痛みに呻きながら必死に這いつくばって逃げようとする。
 その中、ゴォン、ゴォンと鉄骨が建設中のビルへ強風によって煽られ打ちつけられる音が不気味に響き…。

 唐突にその音が切れた。

 何か重い物が空気を切る音。
 人々の悲鳴。子供の泣き声。車のクラクション、怒号、逃げ惑う人々のぶつかる音、音、音…。

 それら全てが地面に落下した鉄骨の轟音によって飲み込まれた。

 その次の瞬間、人々の悲鳴や怒号が爆発的に湧き広がった。



 クラウドは一瞬、息が止まったかと思ったがその次の瞬間には肺の奥底から灼熱の塊が噴き出したかのような痛みに襲われた。
 痛い、熱い、苦しい!
 身体を動かそうとするが全く動かない。
 そればかりか、自分の手足がどこにあるのか分からない。
 手足だけではない、自分の体がどこにあるのかさえも分からず、ただただ痛みと熱と圧倒的な力で圧迫される苦しみで気が狂いそうだった。

「…っ!」

 声を出そうとして口を開くが、熱い熱い吐息が漏れるだけで声が出せない。
 それどころか激しくむせこみ、ゴボゴボと肺から溢れだしたものを吐き出してしまったことにクラウドは気づかない。
 どこが上で、どっちが下か、自分の体のパーツがバラバラになってしまったかのようで何もかも分からない。

 どうなった!?

 フェンリルを必死に走らせ、逃げ惑う人々を前に乗り捨てて飛び出したのは覚えている。
 落下する鉄骨の真下に幼子を抱き上げ、逃げようとするのに腰が抜けて動けない若い母親がいたことも覚えている。
 その親子を助けるために咄嗟に突き飛ばしたことも…。

 あぁ、それから一体どうなったんだ?
 どうしてこんなに暗いんだ。
 どうしてこんなに痛い?苦しい?熱い?息が出来ない!?
 おまけに身体から急速に力が抜けていくのを感じる。
 ほら今も、体の奥底からなにかが流れ落ちていくのが分かる。
 それに伴って、体が凍りつくように冷えていく…。

 混乱するクラウドの耳に子供の泣き声が聞こえてきた。
 脳裏にデンゼルとマリンの笑顔が過(よぎ)る。

 あぁ、帰らなくては。

 力の入らない四肢に力を入れる。
 だが、重い重い鉄骨に阻まれ指先をピクリとも動かせていないことにクラウドは気づかない。
 ただひたすら、帰らなくてはならないという焦燥感に駆られる。

 帰らなくては。
 帰らなくては。
 デンゼル、マリン。
 今日は…何が何でも…。

 遠ざかりかける意識にクラウドの本能が死を予感する。
 同時に湧き上がったのは…恐怖。
 子供たちを遺してしまうという恐怖。
 ティファを喪った子供たちから今、今度は自分までもが子供たちを置いて逝ってしまうという恐怖。

 その瞬間、クラウドはカッ!と目を見開いた。
 視界に飛び込んできたのは鉛色の空と降り注ぐ雨。
 微かに顔を横に向けることに成功したクラウドが見たものは、自分の上に横たわる鉄骨。
 それを認めた瞬間、おぼろげだった己の死が急速に形となって迫ってきた。

「…あ…っ!」

 自分は…死ぬ。

「…っう…!」

 まだ…。

「…ぁ…あ!!」

 まだ…死ねない!
 まだ死ねない!
 まだ死にたくない!
 まだ、子供たちと共に見たい景色が沢山ある。
 まだ子供たちと一緒に歩いていたい。
 傍にいてやりたい。
 子供たちを守ってやりたい、慈しんでやりたい。


 愛してあげたい。


 まだ!!





『もう良いんだよ』





 耳に飛び込んだその声に、クラウドは驚愕のあまり息を止めた。





『クラウド、ありがとう。約束を守ってくれて』





 靄のようなものが柔らかな輪郭を描きだし、目の前の宙にその姿を現す。





『ね?本当に今日まで頑張ってくれたね。私の分まで子供たちのこと、いっぱいいっぱい愛してくれて…沢山景色を見てくれて』





 この10年、一日たりと忘れたことはなかった笑顔。





『ありがとう、クラウド』





 暖かい声。優しく包み込むような空気を纏い、溢れさせている女性(ひと)





『でも、もういいんだよ』





 ティファ。





『迎えに来たよ』





 次の瞬間。
 クラウドの周りから一切の騒音が掻き消えた。
 あるのは自分と、あの頃と変わらない笑顔で自分を見下ろし手を差し伸べてくれている愛しい人の姿。


 ティファ。


 名を呼ぶと、彼女は嬉しそうに顔を綻ばせた。
 夢見心地のまま手を伸ばして彼女の繊手を取る。
 ふわり、と身体が軽やかに浮き上がり全く自由にならなかった身体から一切の重しが消えた。
 水の流れの様な温かなものがティファの手を握ったその手先から奔流のようにクラウドの中へ流れ込んでくる。
 だがそれを認識するよりも早く、クラウドはティファを掻き抱いた。
 愛しいその人を力いっぱい抱きしめて彼女の黒髪に頬を寄せて名を呼ぶと、腕の中でティファもクラウドの名を呼んだ。
 その声がとてもとても懐かしくて、愛しくて…。
 ただバカみたいにティファの名を呼び、抱きしめて、頬を摺り寄せる。

「…会いたかった…」
「うん」
「会いたかったんだ…」
「うん」
「本当に…ずっと…」
「うん、クラウド。私もだよ」

「でも…」

「ずっと私の心はクラウドと一緒だったんだよ」

「クラウドと一緒に旅してたんだよ」

「だから全部知ってるよ」

「ありがとう、ありがとうクラウド。私のことをずっと想ってくれて」

「これからはずっと、こうして触れていられるよ…ずっと一緒だよ」



「さぁ、いこうクラウド。クラウドのこと、待ってる人がいるんだよ。胸張って、堂々と…ね?」



 そこは。
 かつてティファを見送った真っ白い回廊。
 相変わらず広い広いその回廊の壁には等間隔で絵画が飾られている。
 ティファの手を握りゆっくりその廊下を歩く。
 かけられている絵画は人生のワンシーン。
 一つ一つ彼女と見て、その時の思い出を語って、笑いながら進む。
 やがて尽きるその回廊の先には大きな白い扉。
 ひとりでに開いたその扉の向こうで手を振る人たちに、クラウドは目を瞬いて…微笑んだ。

「いこう」
「あぁ」

 そうして、クラウドはその扉を彼女と共にくぐった。
 振り返ることなく。





 デンゼルとマリンはまるで美術館を髣髴とさせるその場所に立っていた。
 どこまでも続く真っ白な回廊は、真っ白な壁、真っ白な天井、真っ白な廊下という具合に純白の内装に包まれている。
 大人が両手を広げて3人は並べるような広い回廊は、片側は全面が窓ガラスで覆われており、そのガラスの向こうに広がる景色も何故か真っ白な靄のようなものが立ち込めていて、景色はよく見えない。
 ただ、窓から惜しみなく注ぐ光のお蔭でとても明るく、暗いものなど微塵も感じられなかった。
 窓ガラスの対面としてある壁には等間隔で大きなキャンパスが掛けられており、だからまるで美術館のようだ、と思ったのだろう、とデンゼルとマリンはそう思った。
 果てしなく続くと思われるその回廊は、緩やかなカーブを描いているので立っている位置から先を臨むことは出来ない。
 ただ、とてもとても遠くまで続いているのだということは不思議と分かった。

 自分たちがどうしてこんなところに立っているのかさっぱり分からなかったが、自分たちを挟むようにして立つ親代わりの2人を見て、あぁ、そうか、となんとなく分かった。
 分かったから、無性に泣きたくて、大好きだと叫びたくて、抱きつきたくてたまらなくなった。

 だけど、そうするとクラウドもティファも未練が残ってしまうかもしれないから…。
 だから、
「じゃあ、もう逝くよ」
 そう言って、ほんの少し申し訳なさそうな顔をするクラウドに、飛び切りの笑顔を手向けとして浮かべる。

「クラウド、ほんっとうにお人よしだよな」「でも、そんなクラウドだから私たち、本当に幸せだったよ」

「クラウドが助けたあの赤ちゃんとお母さん、ちゃんと無事だったからな」「クラウドは…私たちにとっていつまでも英雄だよ」

「クラウド…クラウド!俺、クラウドみたいに強くなるから!」「クラウド、今まで…本当にありがとう」

「ずっと…ずっと大好きだから!」「クラウド、私たちのこと心配しないで。大丈夫だよ、私たちは…1人じゃないもん」


「「 だから!! 」」


 泣かないと決めたのに、いつしか頬を大粒の涙を伝わせているデンゼルとマリンを、クラウドは目を細めて見やり、そうして飛び切りの笑顔を浮かべた。


「俺も、デンゼルとマリンが大好きだ。今までありがとう」


 それは、この上もないほど愛にあふれた言葉。
 未練は…確かにある。
 だけど、それ以上のものをお互いがお互いに与えあったから。
 だから、自分の中の”時”を過ごし切った今は、旅立ちの時。





「まったく、最期までお前はお前らしかったな」
「おうよ。幸せそうな顔しやがってよ」
「きっとティファが迎えに来たんだよ…」
「なら…クラウドは…辛くなかったんだよね?」
「ったりめーだ!ティファが迎えに来たのに辛いはずがねぇだろが!」
「クラウドさん…どうか安らかに」

 涙にくれる英雄たちに、「大丈夫だよ」と声をかけ、マリンは赤い目をしながら微笑んだ。
 そうして、手にしていた花をそっと供える。

「ティファ、あの時は言うの忘れてたけど、クラウドのことよろしくね」
「言わなくてもティファはクラウドのこと、ちゃんとよろしくしてくれるって」
「ふふ、そうだね」

 あのとき、と言うデンゼルとマリンの言葉がよく分からない英雄たちだったが、落ち着いている2人の姿にただ黙って今は哀悼の意を表するのだった。

 教会の白い墓石。
 真新しいそれが少し汚れてしまった墓石に並んでいる。
 それぞれの墓石の前には色とりどりの花が柔らかな風に吹かれ、たおやかに揺れていた。

 どこまでも穏やかな”時”がそこには流れ、悼む人たちを優しく包み込んでいた…。





           あとがき